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 一日こき使われた俺は、当然一服したかった。だから足早に向かう。


 人気のない道に入り、道なき道を進む。少し進んだ先の左側に植樹されたであろう植木の隙間がある。そこに身をよじりながら入り込む。「いてて」と声が出るが、ここまで来れば誰にも聞かれていることはない。安心して歩く。実際には校舎のどの位置にいるのかわからないのだが、校舎の横らしき壁を左手に、U字溝の上を歩く。左手に触るものがなくなると到着。


 幅二メートルぐらいの狭さとはいえ、人が一人いるには十分のスペース。おまけに、校舎の壁の長さは三十メートル近くもある。


「やっぱりいいねー」


 そんな言葉がこぼれた。でも、すぐに異変に気がついた。


「バケツがねえ……」


 咄嗟に後ろを向くが、当然そこには誰もいない。塀と植木と校舎が見えるだけ。


「誰かがここに出入りしてるのか」

 そう思った途端に、急に心配になる。鼓動が聞こえ出す。


 こことも今日でおさらばか。結構いい場所だと思ったんだけどなあ、と疑心暗鬼になった。別にその程度のことなのに。風に飛ばされたんだろう程度に思っていればいいのに。



 俺はポケットからライターとセブンスターを一本出した。口に咥えて、火をつける。それを吸って、わざと口に空気を含んで頬を膨らませ、口先だけで息を吐く。立っているのも疲れるので、校舎に寄り掛かかりながら地面に腰を下ろした。


 長かったなあ、今日も。よく考えたら、あの状況で二人で回せたのは奇跡に近いと思う。あれでタダ働きとか、バイトしてる身からすると考えられない。時給千五百円、いや、二千円もらってもいいと思う。

 でもいいこともあった。メールでしか話したことがない、二つ上の女の先輩に会った。会ったと言っても、窓から顔を見て、目が合って、お辞儀した程度。それでも、うれしいって思ってしまったのだから、俺も安広のことを悪く言えない。そんなことを思いながらつい、親指で灰を落としてしまい、「やべっ」と咄嗟に足で踏みつぶす。念入りに。


 これ以上ここにいたら、火事になってもおかしくない。灰と一緒に火種まで落としそうで。そう思った俺は、煙草を持ったまま帰ろうとする。どこか捨てるところがないかと踵を返し、左に体をひねるとあるものに目が留まった。


「なんだあー。バケツあんじゃん」


 横を向いたバケツが、反対側の角にあった。瞬時に、身の潔白が晴れたときの濡れ衣を着せられていた囚人かのように、急速に安堵が身体を満たした。


 バケツは倒れているとはいえ、少しぐらい水も残っているだろうと思ってバケツの元に歩み寄る。手に届く距離に来て、それを持ち上げた。


「おー。ちょっと残ってんじゃーん」


 安堵の行き届いていた右手の人差し指と中指は、戸惑いなく挟んでいたセブンスターをバケツの中の水に押し付けようとした。そのとき左の方から声がした。


「誰?」


 このときの俺はかなり冷静だった。身体を揺らすこともなければ、声のする方に顔を向けなかった。なぜかって? 聞き覚えがあったからだよ。でも、聞き覚えがあったくらいじゃ、条件反射に俺の意思が抗える訳がない。じゃあなぜ抗えたのか。


 見えたんだよ。そこに破けた下着と上着が。


 人がいないと思っていた場所から聞こえた唐突な声と、破けた下着と上着。後者の方がインパクトが大きかったのか、身体が反射的にビクつくことも、声が出ることもなく見入ってしまっていた。


 そして、何を血迷ったか、拾い上げて、彼女のもとに持って行こうとすでに身体は動いていた。


 見れば、彼女は十メートルぐらい先にいる。普通ならここで早足になるだろうな。なんか恥ずかしいだろうし。でも俺は、王様にでもなったようにゆっくり歩いた。どこかの芸人のように。


「破れててもこれが無きゃ帰れんだろ。さすがに裸じゃ捕まるしな」

 そう言って彼女の前に放り投げる。


 彼女は声には出さずも、両手をクロスさせて胸を隠し、思い切り体を縮こまらせていた。よく見ると、皮膚には夥しい数の傷と、見覚えのある煙草が張り付いていた。


「それ」


「え?」


「その煙草。俺の吸った煙草だわ。なんか悪かったな。それだけ」


 なんかやばいものを見てしまったようで、身が縮みあがっているのがわかった。すぐに立ち去ろうとした。でも、彼女の声が俺を制止させた。


「ごめんなさい。今日さぼっちゃって。大変でしたよね? ほんとごめんなさい」

 頭を下げていたせいで表情は見えなかったが、すごく響いた。内面のみが。


「俺みたいな人間でもね、それが嘘ってことぐらいわかるよ。でも、君がさぼったって言うなら、さぼったってことなんだろう。謝っても俺が休んでいたはずの時間が返ってくることはない。忘れるんだな」


 そう言ってまた歩を進める。


「あのっ」


 俺は振り返る。


「お恥ずかしい姿お見せしてしまってすいません。服も持って来てくださって、ありがとうございました」


「……強いな、君。尊敬するよ」

 格好つけるように、そう吐き捨てた。別に格好つけようとして言った訳ではない。思えば女の裸を見るのは初めてだったが、思っていたよりも抵抗がなく、普通に接することができていたし。だから、別に、いじめられて可哀想だなとは思っていない。


 でも、今みたいに言ってからちょっと格好つけていたなって反省することはよくある。相手がどう捉えたかは別としても。



 もう二度と踏むことはないであろう地面を、色の落ちたアスファルトの上のように歩いた。

 ああ。今日は最悪な一日だったよ。でも変わった一日。久々に、つまらなくない一日だった。


 このときは、二度と彼女と会うことはないと思っていた。次に会ったときのことを想像して、恥ずかしいなって意味も含めて。


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