楕円は丸く
カッカッカッカッ。
「新聞だ」
置かれた新聞に手を伸ばした。でも、寸前でやめる。
「なんだ読まねえのか? じゃあ俺が読んじまうぞ」
そう言って、名前も知らない彼は新聞を手にし、バサバサと広げ始めた。
胡坐をかきながら、地べたに置かれた新聞のページを一枚一枚捲っていく。そのたびに、「バササ」という音を立てる。
目を閉じて耳を澄ませる。
土曜の朝。
コーヒー。
電気が消された明るい部屋。
そんなイメージが湧く。波の音に近いんじゃないかな。たかが新聞紙、読まれれば捨てられるだけの紙なのに、いい音を出すんだよな。元が木だからかな。
「サンダルは、外のことに興味ないのか?」
理由は忘れたけど、俺はサンダルと呼ばれている。本当になんでだっけ?
「無理して知りたいほどじゃないですね。あなたは知りたいんですか?」
「いい加減名前ぐらい覚えてくれよな。おらあ、八柳ってんだ」
ああそうなんですかと曖昧に頷き、すみませんでしたの敬意を伝える。
「サンダル若いんだから、刑務所入る前はアイドルとか好きだったんじゃないの~?」
いや。
「ほら、ここにもいるぞ」
そう言って、新聞をこちらに向けて見せてきた。
なんか知った顔だなあ。
「これアイドルじゃなくて、声優じゃないんですか?」
「ん? おお。ほんとだな。よくわかったじゃねーか。最近の声優は歌も歌うから同じよーなもんだと思っててな。こういうの見てると癒されるじゃねーか。そう思うだろ?」
「はあ……」
裏切り者と言えば裏切り者なのかもしれないし、クラスメイトと言えばクラスメイト。別にどうでもいいけど、こんなにも世界が離れているように感じたのは久しぶりだった。同じ世界に住んでいるし、ここは関東なのだから、電車に二、三時間も揺られれば会えなくはないほどの距離。だが、そう感じてしまうのは、どこかで自分が醜い人間だと思っているからなのだろうか。
彼女は俺のことなんて覚えていないだろうし、俺もお前のことは忘れたつもりだった。
たった少しの付き合い。彼女の家に通って、学校行かせて、退学させて、そういう人間だったのかと知ったとき、驚かないことはなかったけど、「そんなもんだよなあ」とどこか冷めていて、感情を心の奥底に無理矢理しまい込んだ。
何年振りかにその扉が数ミリ開いてしまった。
別に、友達だったなんて思っていなかった。本来担任がやるはずの仕事を擦り付けられ、ちょっと話しただけ。その程度のはずなんだ。その程度だと思ってたんだよ。
「そんなに癒されるか? こいつ」
「え?」
「何泣いてんだよー、サンダルう~。昔の恋人でも思い出したのか~?」
いつの間にか八柳さんが見ていたはずの新聞が手元にあり、紙面がぽたぽたと湿っていた。
自分が泣いていることに気がついた。
「わかるぞー。サンダルの思っていることはよくわかる。罪を犯したせいで、愛していた恋人と別れるなんて悲しい話だ。俺にだって妻と娘が一人いたけどなー、それがこの間な、もう縁は、切るって、手紙は送ってこないでって、なあどうすればいいんだよおう」
慰めていたはずの八柳さんが泣きだした。
「いやまあ、落ち着いてねえ」
「落ち着いていられるかあああ」
大人がこんなに泣いているのを初めて見た。この人が何の罪を犯したのかは知らないが、とても罪人とは思えない。
それは、八柳さんだけに言えることではなかった。
通路を歩くときに多くの罪人を隙間から目にするのだが、そこにいるのはとても罪を犯すようには見えない人ばかりだった。中には強面の人もいるが、彼らでさえ反省している趣。サラリーマンをやっていそうな体系、顔、髪型、言っちゃ悪いけど、むしろ地味な人の方が多く見受けられた。
やっぱり自分の目で見なければわからないことだらけだ。
「八柳さん、確か出所は俺と同じ時期でしたよね?」
「……おう」
「じゃあ俺が話聞きますし、手伝えることがあったらやりますから、とりあえず泣き止んでください。通路にめっちゃ響きます」
「おお、サンダルう~……」
年は知らないけど、俺の親ぐらいの年は召しているように窺える。まあ俺の親が生きていればの話だけど。
でも余計なことを思い出させてくれたもんだ。ここに入ってどのくらいたったかは忘れたが、それなりに春は来ている気がする。それだけ時間が経ち、忘れ去ったことでも、一つ思い出すとフラッシュバックみたいに蘇る。一人の顔から、いくつもの顔が枝分かれして派生していき、場所、声、景色、言葉、感触……。
無理矢理閉めた扉って、簡単に開いてしまうんだな。
自分でも気がつかないほどに忘れたくない記憶。そういうものは無意識に頭の片隅にこびりついていて、きっかけの液体をかけてあげるだけで、カルメ焼きみたいに膨らむ。理科の授業が懐かしいな。ほら、理科の授業のことまで思い出しちゃったよ。
「八柳さんは、外に出たら家族を探しに行くってことですか?」
「ん? おう。それも大事だが、まずは風呂に入りてえなあ。ホテルについてるユニットバスなんかじゃなくて、でっかい温泉に入りてえ」
「他には?」
「飯が食いたいな。ラーメンが腹いっぱいになるくらい。嫁と子どもを探しに行くのはそれからだなあ。腹が減っては戦ができぬってな」
ガハガハと笑う八柳さんの目を俺はずっと見ていた。下なんか向いていなかった。俺の内面に直接話しかけてくるように彼の感情が伝わってきて、頭蓋骨に直接話しかけてきたかのようにはっきりと声が聞こえた。
目線はいつもちょっと上で、えくぼがはっきり見えて、眉毛がひょこひょこ動く。それにつられてか、気づけば俺も口角が上がっているんだ。
自然に相手を笑顔にするなんて魔法だよな。意図的ではないその姿が、人を笑顔にするなんて何のマジックかと思った。
考えるのはいつも自分で、考えるのは誰も入ることができない鉄壁の世界。人との関係が組み込まれた現実を生きている人間たちに与えられた唯一のパーソナルスペース。
ここだったら何を考えてもいいんだよ。
将来の自分。ちょっと美人な誰かと歩く自分。芸能人になった自分。
むかつく友人が落ちていく様。ざまあみろって思ってもいい。殺してもいい。万引きしてもいい。どんな性癖も認められる。
でも、それは現実とはかけ離れた世界。パーソナルスペースと現実は線で結べない。
妄想をしているから現実が苦しい。妄想によって吐き出された欲によって与えられる幸福感に勝るものは、現実にはない。あってはいけない。
幾千もの性癖なんてあって当然と言ってもいいのに、それを否定する現実。やめようとかいけないことだと思っていても、気づけば勝手に動き出している身体。
それを、病気だと片付けられてしまう世界。
ルールは、苦痛だ。でも、他人の痛みを知るのはもっと苦痛だ。
それらの揺さぶりを八柳さんは肌で感じたのかもしれない。
刑務所の中に罪人には見えない人が多いのは、そういうことが理由なのだろうと思えていた。理性が効かなくてちょっと手を伸ばした先にあったものは、確かに妄想では到底手にすることのできない快感だった。でも、その後に訪れるのは、手に入れた快感とは到底釣り合わない苦痛だ。その苦痛に耐える日々で何が支えになるかって言ったら、自分のせいで同じ苦痛、もしくはそれ以上の苦痛を受けることになった家族だったり、自分の関係者への懺悔の念。
底を知ったからこそ、つまらない日常がどれだけかけがえのないものか身に染みる。
「じゃあ、出所したら一緒に温泉旅行しましょう!」
人は喜ぶ自分を想像してこそ、未来が明るくなるのかもしれないな。八柳さんを見ていると、そう思えてならないんだ。




