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思いもよらない瞬間、人は固まる、驚く、腰を抜かす。そのすべてが自分の身体に起こったんだという事実を、数秒後に理解した。理解するまでの間、思考が停止していた。それは、彼女の必死の形相のせいなのか、彼の鋭い目つきのせいなのか、それとも先ほど郷愁にかられていた自分のせいなのか。これは想像できない。
「あれ、彼方じゃん。こんなところで会うなんて奇遇だね」
数メートル先。焦点を合わせる。教室のドアのレールに顎を付く女の姿。その上に跨る男の姿。
思考回路が渋滞したとでも言おうか。届く前に入り乱れる情報が多すぎて、視界から入った情報が何となく目の前に揺れている状態。目に見えた情報でさえ脳に伝わっていないのだから、何が何だかわからなかった。
数秒して、渋滞は解消され始めた。一つひとつ見えているものと何が起きているかを整理して、そのときやっと、「咲奈の上に安広がいる」という状況を理解した。
「彼方もここに監視カメラがないって知ってたんだ」
「え」
「もともとそんなものなかったんだよ。教師たちも欺くくらいの固定観念を植え付けた。体育教師のデスクに置いてあった映像も、録画らしいよ」
また情報が増え、それらを整理するのに時間を要した。
「何してるの?」
慣れていないラジオパーソナリティがリスナーに電話したときの対応のような、少々子どもっぽい質問に聞こえるが、これでも今の俺にとっては的を射た質問だと思う。
「ん? この子に制裁を加えようと思って。君がいじめなんてしていないことぐらい、僕にもわかる。彼方の辛さをわかってあげられるのは僕だけだから、君の怒りを彼女にぶつけているところ」
そう言って馬乗り状態の安広は、咲奈の頭をポンポンと叩いた。
髪が揺れる。
表情。
表情。
弱肉強食。
頬を伝った涙。
吊り上がった目。憎悪。
醜い醜い醜い醜い。自分が人間であるのにもかかわらず、人間が醜く見える。安広も、咲奈も、みんな醜い。俺自身を否定することになったとしても、その考えが覆されることは絶対にない。それほど身体が震えて、悪寒が全身に走る。
「根拠は?」
「根拠? ああ、彼方がこいつをいじめてないってことの? 前に、彼方がいじめられているのを見たら、僕は逃げるって言ったじゃん? あのときの悲しそうな彼方の顔思い出したら、居ても立ってもいられなくてな。こいつのところに来たんだ」
あのときの俺って悲しそうな顔してたんだ。というか、俺の顔横目で見えていたんだね。
君は大した自意識過剰のヒーロー気取りだ。唯一褒めてやれるのは、性的虐待に至っていないところぐらい。
「だから咲奈に?」
「だって酷いだろ。あの体育館に自分の言動に責任持っていた人なんていなかっただろ。みんな自分が言いたい放題で、死ねとか、消えろとか、本当にそれで人が死んだらとか考えてないんだぜ?」
安広……。お前の言う通りだ――。
息を鼻から吸う。
吐く。
その息とともに俺の体裁の意識はすべて出て行ってしまって、今の状況にありのままでいられた。誰かが自分の考えと違うことを主張してきたときに、黙って、「へえ、そうなんだ」と相槌を打つような理性はもうない。秩序を保とうと思っても、我慢できる俺はもういない。
餌の匂いに導かれて、スッと仕掛けに入って出られなくなるような魚のように、言いたいことを表現してみたんだ。
「もどかしいな。じれったいし、歯痒い。心と口を塞いでいるのは紛れもなく俺自身だけどさ、それでも思いが伝わらないってもどかしいよ。それが美化されて伝わってもうれしくないし、実際より悪い意味で伝わってもうれしくない。自分の存在が、ただ、誰かが楽しむための媒体でしかなくて、真実は、俺の想いは、誰にも届くことはない。今日の咲奈と安藤を見ていてはっきりしたよ」
「そんなこと……」
顎を床についているせいで、ガチガチと歯が当たる音が鳴っていた。それを聞いても怯えない。感じない。何も……さ。
ぴくぴくと表情筋が動いている。痙攣しかかった頬を押さえつけるようと、俺は歯を食いしばった。
「何か伝えたいのならさ、口を開かないといけないんだよな。感じ取ってもらおうなんて虫が良すぎるんだ。それでも俺みたいに嘘をつく人もいるんだから、全身で、自分の持てる武器全てを使って相手にのしかかるぐらいでいないと、信頼なんていう上等なものは手に入らないんだろうな」
ビール瓶と机。どっちの方が強い武器だと思う? 華麗に戦いたいのならビール瓶。じゃあ机はどんなときに使う?
イノセンス。
教室の床を躊躇なく踏み潰した――。
躊躇なく降り下ろしたそれは、衝撃音を響かせた。
弱い者は、鈍い音を響かせる。




