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階段を下りて玄関まで行くと、真弓先生がいた。
「どう? 彼女らに裏切られた気分は。結局あの子らは私に逆らえなかった。別に彼方君に恨みなんかないけど、ちょうど私の罪を被ってくれるような状況になったからね。恨んでくれてもいいわよ」
そうぺらぺらと話し出す真弓先生をどこか遠目で眺めていた。そして何となく俺の頭に浮かんだ妄想を話し出した。
「間違っていたら申し訳ないんですけど、先生って離婚してます?」
彼女は、驚いた表情でありながらも「だったら何よ」と強い口調で答えた。
ああ、そこから間違っていたんだ。そもそも子どもがいるからと言って、夫がいない可能性だってあった。それに、子どもだって勝手に小さいものだと思い込んでいたが、高校生だっておかしくなかった。そこが盲点だった。
文化祭のうどん作りの最中、いつのまにか去っていた真弓先生。「子どもが熱を出した」と言い訳をしたあの苦笑い。
そこで繋がった。
あの日。俺が中学で暴れたあの日。応接室の壁際に数人の教師が並ぶなか、中央の机に向い合わせで座った四人。
吾妻のとなりで申し訳なさそうに苦笑いするその顔。
ロングヘアーだった──。
「それはもしかして俺のせいですか?」
廊下のしんみりした空気が頬を撫でた。素足で床に触れている訳ではないのに、タイルの冷たさが伝わってくる。
これこそが、今、ここの雰囲気なんだ。
「プールでの軽率な発言をお詫びします。それと息子さんにもよろしくお伝えください。じゃあ……」
そう言って、下駄箱へ歩いた。
「私が旦那と離婚した理由教えてあげるわよ!」
振り返った先には、別人がいた。
泣き顔――。心の叫び――。
こういった類のもので人なんて簡単に崩れる。
弱いんだ。脆い。苦悶に満ちる。
感情を誰かに伝えることで安心して、受け入れて、受け入れられて、信じて、信じられて、そうやって人間関係が成り立っていく。
そりゃあ裏切りなんて憑き物だよ。でもそれが憑き物だからこそ、本物の信頼、いや、本当に友達って呼べる人と一緒になれたときに、この上ないほどのエクスタシーを感じられる。セックスみたいな疑似的な意味じゃなくてさ。
「先生、ちゃんと向き合ってください。もう過去になんか戻れないし、過去が消えることも絶対にありません。息子さんには申し訳ないことをしました。その息子さんに呆れて旦那さんが出ていったことも申し訳ないと思います。でも、それが息子さんのやったことの対価です。それだけはちゃんと理解してください。それと、咲奈と安藤にはちゃんと頭下げてくださいよ。そうしないと、また不幸が訪れるとは断言できませんけど、あなたはその責任を死ぬまで背負うことになるということ、お忘れなく。日常につく嘘とは訳が違うんですからね?」
泣き崩れている先生に上から目線で説教してしまった。「あしからず」って言おうとしたけど、それを「お忘れなく」に変えたのは褒めてあげたい。
でも、先生のことを無意識に下の者と見ていたのは事実で、そんな自分が嫌になったが、それぐらいのことはこの人にしても神様はへそを曲げたりしないはず。
可哀そう、って皮肉な感情だよな。
可哀そう、って相手からしてみれば、自分を見下されているように感じるのだから。
先生の息子は、吾妻は、いじめられていたようだった。この間の文化祭の最中に居なくなったのも学校に呼び出されてのことだったみたいだ。涙ながらにそう訴える先生の姿は心の底から心地いいとは言えたものではなかった。ざまあみろと思えないのだ。先ほど担任から色々教えてもらったからだろうか。同じ土俵に上がった吾妻の顔が浮かぶ。それは俺が以前想像していたのうのうと生きているいじめの主犯者ではなかった。
同情なんて腐ってもしない。ただ共感はするのだ。でも可愛想だなんて思えない。吾妻に手を差し伸べてやりたいとも思えない。いつか一瞬だけ志した共に歩んでいこうとする想いはもう俺の中にはなかったのだ。
俺がいじめられていたときの周りの人間。言うなればそれになった気分だった。
俺は泣き崩れたままの先生を廊下に残し、外に出た。
「逃げろか……」
世の中に溢れている情報のどの程度が真実なのだろう。現に真弓先生は自分の感情を偽っていた。本当は憎くてたまらない俺を、生徒だからと寛大に器を広く保った。
雲なく広がるこの青空も、三百六十度見える山々も、すべて張りぼてなんじゃないかって思えた。
俺が行くべき場所。
もう停学処分が下った今、何も怖くないって言ったらおかしいけど、ちょっと気持ちに余裕ができた。鬱窟な気分だった。そのせいか、慣れた足取りで旧校舎に向かっていた。
もう、草むらなんて通らない。正面から堂々と旧校舎の校門の中に足を踏み入れる。
内心ビビっていたとか、それを隠すように歩いてもいない。目的地、行きたい場所、それを俺自身がわかってないことをいいことに、俺の脚が勝手に案内しているような感覚だった。脚を動かすのではなくて、脚に動かされているなんて、自分の身体ではないような感覚。それに溺れているのにもかかわらず助けを乞おうとしない自分がいたことは、まったくをもって否定できない。
監視カメラがついているであろう校舎の玄関に着く。でも、そのカメラを探そうとも見ようともせず、目の前にあった扉を横に引いて、いつもやっているかの如く、中へと入った。
旧校舎と言っても床がギシギシ鳴る訳でもなく、天井が落ちてきそうな訳でもなく、とにかく想像していたものとは異なっていた。床はタイルだし、壁は鉄筋コンクリート。鉄筋かは知らないけどね。
奥に進んでいくと教室が並ぶ廊下に出た。廊下の窓側には木製のフックが取り付けられていて、そこに生徒たちの荷物がかけられていたことを想像させた。
左を向けば教室の後方のドア。開いていて、中を覗くと中学時代が思い出されるほどそれは田舎者に響く空間だった。
四本のパイプで立つ机、椅子。白みがかった黒板。木の板が並べられてできている床は、埃をかぶりながら神妙な面持ちでそこに在るように見えた。そのせいもあって、教室の中に入れなかったんだと思う。
ここにもまた誰かが座ったのだろうな。でも今想像できるのはその風景ではなくて、お世話になった教室を掃除している生徒の風景。黒板をぞうきんで拭く。緑色の黒板が水分を含んでいき、右から左へと黒くなっていった。机の上、パイブ、椅子の上、パイプ、と拭く生徒。床をぞうきんと共に駆ける昔ながらの生徒。
ここに入ったことなんて一度もないのに、ノスタルジックな感情を抱かずにはいられなかった。
今日の朝、廊下で想像したものと同じ匂い。以前、視聴覚室で想像したのもそう。ここにはもういない誰かを想って、それと妄想を織り交ぜながら働かせ、意識的に郷愁にかられる感覚。
俺に懐かしむほどの思い出なんてないから、郷愁によって得られる快感なんて知らない。だから、現世に怨念が残った幽霊が、誰にも見られることなく空中を彷徨うみたいに、幽霊みたいに遠目で、一歩引いて見つめていることでしか郷愁を感じられない。これは、意地悪な神様が出した悪い選択肢の一つで、苦渋の決断の末、この程度の快感なら与えてもいいだろうと、泣く泣く俺が手にしたものだと思う。
悪い選択肢しか出さない神様に「せめて亡霊にしてください」と頼み込む自分の姿が容易に想像できた――。




