裏切りの欠如
放課後。俺に言い渡された処分は、一週間の停学。
三年のこの時期になると、すでに推薦で大学に受かっている生徒も多く、学校に来ているのは真面目に公立校あるいは私立校を目指す者と、なんとなく学校に来ている者だけになる。それも考慮されてか、この処分となったらしい。
もう一つの大きな理由としては、被害者の二人があまり気にしていなかったという点。「彼が自分の罪を認めてくれたから、それで満足だ」と話したそうだ。
今日が最後の登校日だった安藤にしてみたら、とんだ最終日になったことだろう。
もう会うことはないだろう。
咲奈にしてみても、俺が彼女と会うことはもうないと思う。停学期間が過ぎても、ここまで真面目に学校に登校していたおかげで、卒業式以外のすべての登校を拒否したとしても、高校卒業は認定されるらしい。
というか、寧ろ学校側はそれを望んでいるみたいだ。直接言うことはなかったが、この事実を告げた後、「本当は出席日数が少し足りないのだが、卒業式以外休んでくれるのなら大目に見てあげよう」と、そんな置き土産を雑に捨てていった。厄介事はもうごめんだというように。
思うことは多少なりともあったが、教育委員会に報告しなければいけないだの保護者の対応だの、忙しいのは校長の顔から見て取れたので、巻き込んでしまった償いの意味で、黙って従うことにした。
「まあよかったじゃねえか。あんまり大事にならずに済んで」
担任と俺と校長の三者面談が終わって、今は二人だけの空間。
安藤はともかく、咲奈に嘘をつかれたことで一時的にフラストレーションの状態に陥った。でもそれもすぐに晴れ、いつもの虚無主義的な考えに戻った。
あれだ。安藤の母親の愚痴と理論は同じなんだ。言ったらそれで満足。でもその程度で満足してしまうような感情だったとなると、俺が今まで感じてきた蟠りや反骨心たちはそれなりに安価なものだったのかもしれない。誰もが感じていること、普遍的な感情。そう思ったら、どこかで感じて消えなかった「特別」という言葉は俺の中から無くなっていた。
そもそもフラストレーションになること自体が、俺にとっては不思議な体験だった。いつもすぐにしょうがないとあきらめていて、まあそれが自分の生きている社会だからと思っていたのに、咲奈の行動にだけはその感情を抱いた。
吾妻への感情とは少し異なっている。彼への感情はただの怒り、ルサンチマン、ないしは一種の羨望だったと思う。自分にはできないことを彼は息を吸うようにやってのける。それに嫉妬していたんだろうな。
「正直、あそこまでされても裏切られたという気持ちはありません。俺にとって昔から人間に裏切られるのが普通だったので、いつの間にかその感覚が麻痺していたのかもしれません」
隣に座っていた担任は無造作に立ち上がり、教壇に上がった。
「真実と違うことを自白するのもさ、一種の弱さなんだよ。『もういいや』ってどこかで諦めている。でも俺はそれも正解だと思う。不正解ではない。『もういいや』の前には必ずメシウマな感情だったり、どうしようもない怒りなんかがあるものだから。その諦める前の感情こそが自分自身の本音で、それに気がつければ納得できるんじゃないか? 今向き合っている現実にも、感情が向けられた対象にも、本質が見えて、納得できて、だからこその諦めなんじゃないのか?」
「納得ですか……」
少し違うような気もするが、あっているような気もした。
担任は教卓の下から二本のチョークを取り出し、黒板の一番左から何か書き始めた。身体全身を使って、チョークのかけらを溢しながら力強く、書初めでもしているかのように。
書かれた言葉は、
「シャーデンフロイデ……」
俺がそう読んでみせると、「簡単に言えば、他人の不幸を喜ぶ感情、ざまあみろと思うことだ」とチョークを置きながら担任は言った。
「これが何なんですか?」
「人間はみんな日々が退屈なんだ。だから、面白いネタやよく考えれば攻撃するに値しない人でもバッシングする。それに快感を覚えるのが人間なんだよ。お前にも一度くらいはそんな経験があるんじゃないか?」
教卓に肘をついて、だるそうに聞いてくる。
「結局何が言いたいんですか?」
教卓をだるそうに降りて、目の前に来た。机を両手で叩く。
「逃げろ」
懐かしい香りがした。どこかで聞いた言葉だった。誰から聞いたのだっけ。安広でも白石でも安藤でもないはず。咲奈なんてそんなこと言うはずがない……。
俺か――。
かつて俺が咲奈にトイレで言い放った言葉。
「人は忘れる生き物だ。いつの間にか暇つぶしに尽力した熱量は消える。そのときこそが、彼方秋の勝利の瞬間だ」
「地味な勝利ですね。それに意外と先生も現実的なこと教えてくれるんですね」
「あ、言っておくがこれはお前だからだぞ? 他の人に助言するんだったら、殺人とか促すかもな」
思わずプッと噴き出してしまった。そこからは、少しの間笑いが止まらなくなった。
腹を抱えて笑ったし、床に這いつくばったりもした。仰向けになって一本だけ無くなった蛍光灯を見ながら笑った。
人にあげたはずの言葉を一番必要としていたのは、俺だった。そう気づくと身体さえも笑い始めてくる。こんなにか、こんなにも欲しかったのか。本当は欲しかったんだ。切り離せなかったんだ。
虚言だったとしても、誰かの優しさに埋もれていたかった。
もういいかというくらい笑い溢し、冷静な目で見つめる担任に向かって俺はこう言った。
「そういう先生憧れます。俺の中での教師像って、飾り事ばっか並べるような人だったんで、人間とは別の生き物に見えるんですよ。だから、そういう人間本来の感情を言ってくれる人って、先生も人間なんだなって安心しますし、先生というより大人として見られます」
「おう、それはよかった」
「先生ってふざけてるように見えて、意外と視野が広いんですね」
「どの口が言ってんだ……」
「先生、泣いてるんですか?」
「あ、そんな馬鹿な……」
咄嗟に目を拭う担任は滑稽に見えた。
「嘘です、嘘です。鎌かけでーす」
「ばっ、お前からかうなよ」
「そんなお調子者とも今日でおさらばですね」
「卒業式来ないと大学行けんぞ?」
「ちょっといろいろあったんで、整理してから決めます。先生がシャーデンフロイデとか意味わかんないこといきなり書きだすから、頭がこんがらがっちゃいましたよー」
恥ずかしがる先生をこの学校で見たのは、俺が最初で最後だろうな。そんなことを思いながら、
「またね」と。
ありがとうの気持ちを込めて。友達みたいにさ。




