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激情

 朝早くから進路室の鍵は開いている。一応開放して生徒に学習を促すためなのだろうが、部屋は上着を着ていても鳥肌が立つくらい寒い。こんなんじゃ人なんかこねーわ。


 机の上に机を乗せ、その上に立った。グラグラするのに耐えながら右手に握られている蛍光灯を取り付ける。そして、転ばないようにと静かに床に下りた。


 寒い。確かに寒いのだが、熱い。大分神経を使った。


 窓から中庭を見下ろした。誰もいない。

 窓から向かいの教室の廊下を見た。誰もいない。

 外からは、サッカー少年たちの声が聞こえる。


 この違いって何――。



 廊下にサンダルを引きずる音を響かせながら教室へと歩く。


 傷。垢。汚れ。渡り廊下には、開いた松ぼっくりの入ったペットボトルが、天井のパイプの上に乗っている。階段の天井に足跡を見つけたときは何事かと思った。


 どうでもいいことに気がつけるのは、何も見ていないからなのではないかと思った。教室に急ごうと考えていたら、天井の足跡には気がつけない。進路のことで悩みながら渡り廊下を歩いても、松ぼっくりが入ったペットボトルの存在には気がつけない。


 俺は今まで、何を考えながらここを歩いていたのだろう。ここを歩くとき、何が見えていたんだろう。


 階段を上り切って、教室前の廊下を眺める。


 やっぱり誰もいない。


 想像力を働かせる。

 ロッカーが全部開いて、ひょっこり咲奈が現れる。


「違う、違う。これじゃないって」


 仕切り直して目を瞑る。数秒して開いてみれば、次第ににぎやかになった。廊下を行き交う生徒。ロッカーから教科書を取り出そうと、しゃがむ生徒は連なっていて多数。取っ組み合いをする者もいる。はしゃぐ男子生徒。ロッカーに腰掛けて雑談する女子生徒。


 笑い声。ピンク。黄色。

 笑顔。和やか。調和。


 無意識にそんなものを感じ取って想像している自分は、今までどうやってこの学校で過ごしてきたのかわからなくなる。自分で把握しているのは、友達と呼べそうなのは安広のみ。基本しゃべらない。安広とですらすごく多いとは言えない。退屈。なんとなく。流れる時間。寝る。


 この程度だったはずの学校生活を、俺の想像力はまったく反対のものに造り替えた。


 本当は憧れていたんじゃないのか? そう問いかけられた言葉を圧縮するように、小指から人差し指へと順に曲げられた手をポケットに入れ、「それだけここには言葉以前に伝わるものが詰まっているんだ」と結論付けた。




 走馬灯に似た感覚だったと思う。死んだことがないから走馬灯なんて知らないが、何か衝撃が起こる前の視界がスローになる感覚に近い。前兆という意味では、貧血になる前の視界の歪みもそれと同じ類だ。


 ばあちゃんが前に、「人は死ぬめえに世話になった人へ会いにいくだ」と言っていた。ばあちゃんも実際に何年もあっていなかった級友にばったりと出くわし、その一週間後に級友は交通事故で亡くなったという経験をしたらしい。


 世話になった人。

 俺が世話になった人って誰だ。

 ばあちゃん。

 後は?


 どうでもいい人間の顔がスロットのように回った。リールを止めようとボタンを押しても止まらない。

 ぼやけているんだな。


 そう思ったら、スロットは崩れ、破片が再生して、個体を造り上げる。作り上がったスマホに、一人の顔が映し出された。


 吾妻――。

 左にスクロールする。

 ああ。

 またスクロール。

 また。


 何度スクロールしても、出てきた人物の名前は吾妻以外思い出せなかった。見たことはあるが名前は知らない。そんな顔がごまんといた。捲っても、捲っても他人。


 瞬間、唐突な頭痛に襲われる。脈を打つように、ドクッドクッと痛むよくある偏頭痛だが、それと同時に何か違和感を覚える。考える訳でもなく、俺は必死に、何度も右にスクロールした。


 違和感の正体は、一人の女の顔。それを見た途端に異変に気がついたからだ。さっきは流れでスクロールしていたから気づかなかったのだろう。


 真弓先生だった。


 当然、関わりがあった人物だから俺の記憶は正しい。だが、そこに映し出された彼女の姿は、胸のあたりまで伸びたロングヘアーだった。


 この姿をどこかで見たことがあるってことだ。だが、当然思い出せるはずもなく惰性で断念した。



 現実の時間は思ったよりも早く進んでいた。ロングヘア―の真弓先生を思い出すことはもうやめていた。黒板の上の時計に目をやったときには、すでに教室は人で埋まっていた。というか、いつの間にか、教室に入って自分の席に座っていたんだね。無意識って怖いな。


 チャイムが鳴った。十分の読書タイム。さすが自称進学校。十分読んだくらいじゃ賢くなんかなれないよ。本を読んでいる人なんて数えるほどしかいないよ。でも、この時間をきっかけに本が好きになった人が一人でもいれば、それは価値のあることで、胸を張って主張してもいいと思うよ、ねえ先生――。



 日常の断片。夢なのかと思うほど、断片。気がつけば教卓に担任がいて、さっきまで席に座ってスマホを触っていた生徒の姿は見えなくなっていた。


 激しい動悸と共に、大きな音を立てて椅子を引き、とにかく廊下に出ようと急いだ。でも、それを担任の声が制止した。


「おい、彼方!」


 走った後のようにバクバクと音を響かせる心臓を左胸に感じながら、教卓を見る。


「お前は、事実だけを述べればいいからな。興奮して地雷とか踏むなよ」

「何の話ですか?」


 俺は息を切らせていた。


「わからないのならそれでいい。長年教師をやってればって言いたいところだけど、俺はまだ教師になって三年だ。だが、それなりに知識はあると自負している。お前がこれから起こることに今のまま飛び込んでいったら真っ先にやり返されるだろうからな。お前,目が真っ白になってるぞ」


 確かに俺は焦っている。なりふり構わず廊下に出たのが証拠だ。でも、何に対して? 動悸が激しくて身体に促されるまま席を立った。なぜ? どうして?


 冷静になれ。教室をよく見ろ。教室にいるのは担任と俺のみ。時間は……八時五十五分。一限開始五分前。すなわちホームルーム開始から五分後。廊下がざわついている様子はない。担任が何かを告げて、生徒はいなくなった。と思う。全校集会か何かか? でもこの時期に全校集会? 受験シーズン真っただ中の自称進学校がやることだとは思えない――。


 震えた――。


 いつの間にか聞こえなくなった心臓の音に気づき、担任の顔を見た。安藤のことを頼んできたときの顔や、ふざけた雑談をするときの普段の顔じゃない。凛々しくて、俺にしてやれることは少ないってわかっていそうで、でも「グッドラック!」って親指を立てながら口角を上げて言いそうな顔。


 顔に出てるよ先生……。


「体育館ですか?」

「そうだ。さっき言っただろう」


 少し笑ったように聞こえた。俺がこれから起こる現実にビビっていたということを見透かされていたのかもしれない。尊敬するよ。教師歴三年の熟練教師さん。



 廊下を踏みしめた。


 もう戻ってくることはない時間。今まで送ってきた時間はすべて戻ってこないが、それを意識して生きるのとしないのとでは違う。一歩が慎重で、時間の重みを感じる。


 だがそれが、他人の目に映ることはない。感じているのはいつも自分。


 今見えている、約二百度の視野。滲む左右の壁。見えない背中。それらを感じながら歩き、未来を想像する今。未来を想像していてもそれは今。今は当然のように帰ってこないけど、未来も帰ってこないのかもしれないな。当然のように羽ばたいて。空中に羽を残して。アルソミトラのようにどこか遠くへと揺れて、欠片は再び地上に降り立つ。



 体育館の入口に立って、生徒がいる体育館のフロアを想像する。

 逃れられない現実に向かうのはこんなにも苦しいのか。そう俺の身体が震えている。じゃあ、抗うのはもっと苦しいのかもしれないな。


 扉を開いて歩き出すことで進んだ。歩くことで進むというあたりまえの現象に感謝し、サンダルのソールとフロアが擦れる「キュッ」っという音を傍らに、誰も聞いていないだろうなと、騒がしい生徒らの声から弾かれたように、クラスの列の一番後ろへと歩いて座る。



 程なくして本鈴が鳴った。


 肋木の前に立つプライドの高そうな書道教師が、マイクに向かって声を張り上げた。ハウリングを起こし、粗末な音がフロアに流れる。


 言われるがままに礼をする。座る。


 さて。時間は刻々と近づく。今、書道教師の合図で校長がステップ階段を上っている最中だが、この数秒後に発される言葉が自分に当てられたものではないことを、ほんの少し、ほんの少しだけ祈ってしまった。


 ギシギシと木が独特な音を漏らしながらその人は上り、檀上をコツコツと歩く音が響いている。


 演台に立ち、礼をする。


 マイクに触れる。


 さあ。

 口を開け。


 高鳴る胸を感じながら、校長の口に焦点を合わせる。


「三年生は大学受験を控えている大事な時期ですが、今日集まっていただいたのは、ある生徒の件でお話ししようと思いこの場に立たせていただきました。詳細については、橋本先生からご報告していただきたいと思います。では、先生、お願いいたします」


 橋本真弓と校長が入れ替わる。

 ああ、現実って裏切らないな。

 橋本真弓がマイクを手に取る。


 声を漏らす者は誰もいない。七百人の生徒が驚かない中、俺の心拍数だけが少しずつ上がっていった。


「単刀直入に言いますと、今日集まっていただいたのは、いじめの件です」


 安堵。つられて下がる俺の顔。


「安藤朝海さんと大塚咲奈さん。この二名がある生徒にいじめられていると告白してくれました。実際に行われたいじめは酷いものが多く、彼女たちはそれを涙ながらに語ってくれました。この件について、いじめていた生徒に話を聞き、そのことについて、他の生徒から意見を聞きたいと思い、今日この場を作っていただきました」


 あれ。何かが違う。

 顔を下げたままの俺はそう思った。


 そもそも俺が心配していたことって何だ? プールに入ったことへの処罰と咲奈をいじめていた橋本真弓を目撃したことへの対価。


 さっき担任が俺に告げた言葉。

『事実だけ述べればいいからな。興奮して地雷とか踏むなよ』


 それを思い返して理解したとき、甘かったな、本当に俺は考えが甘すぎだって心の底から思った。どこかで、もし処分があるとするなら停学、もしくは退学程度で済むのだろうなと前々から思っていたからだ。


 橋本真弓の口から発された言葉は「いじめ」について。それを聞いたときに、「白石が怒られるのかな」と瞬時に、無意識に悟った。安堵を感じられるほど。でも、それは、白石に向けられた言葉ではなく、紛れもなく俺に向けられた言葉だった。


 フロアの雰囲気が今まで感じたことのないような鳥肌を感じさせ、自分の顔が引きつっているだろうなってことが、鏡を見なくても感じられた。それを嘲笑うかのように、演台に立つ人物は、音を置き去りにして口を動かしていた。


 スポットライトが当たった。


 一斉に振り返る生徒たち。俺の座っていた場所をあらかじめ把握していたかのような軽快な動き。


「彼方秋君。今話したことについて教えていただけませんか」


 ああ、やっぱり。


 ここに来いとでも言うように、前方から手前に引いて演台を手で指す彼女を見て、そこに行って話さなければならないのかもしれないと理解した。


 生徒はみな俺を見ているせいで、誰にも見られていない教師は嘲笑う。周りの支配者は無表情。民衆は声を上げる。


 俺はテロリストかよ。


 そんな不思議な光景を、本当は待ち望んでいたのかもしれない。


 誰かはこの多くの感情が入り乱れたフロアを混沌とした空間と言うだろう。民衆は騒ぎ散らし、それを腕組みしながら黙って見下す支配者。その筆頭者は、壇上で嘲笑っている。


 教室にいても届かない叫びを、入り混じった空間でなら叫べる。許してくれる。与えてくれる。そんな雰囲気を、感じる。


 いつかの残像が蘇りそうになった。空想が現実となりそうだった。震える手。手にした用紙に伝わるパタパタとした揺れ。怖い。




 罵声。

 雑踏。


 いつの間にか、豹変した――。



 静かに立って、静かにフロアを歩き出す。


 お前たちの声はノイズにしか聞こえないよ。

 それは、俺がお前たちの声に耳を傾けていないからか?


 違うよなあ。だって、耳を塞ぐ者は想像できるし。ほら、思ったそばからそこにいるし。


 誰かの声に安心してそれに続く者。それに快楽を感じる者。叫ぶ者。

 聞こえねえなあ。


 お前ら、それ、本気で言ってる訳じゃないよな? そんな訳ないよな。言葉に責任を持てないのは小学生までだよな? 匿名だし、みんなもやってるし、どうにかなりそうだし、お前の人生なんか知らないし、考えたこともないし、面白そうだし。


 感情のまま、自分が気に入らない人は排除。周りと違うものは排除、排除。普通、民意がすべてで、どうしても出てしまう不適合者を排除、排除、排除。そして蔑ろにされた人間は行き場を失い、陰でひっそりと、いないも同然のように生きる。


 そりゃあそうだよな。この社会にふさわしくないんだから。不適合者なんだから。罪を犯した者は、普通に反す人は、それなりの対価が問われるべきだもんな。


 加害者の家族だってその対象だよな。お前らニュースの先のことなんて考えたこともないだろう。連日流れる犯罪の報道の先。加害者の家族が受ける二次災害。


 強姦だって、多いって聞いたことあるよ。被害届以上に被害はあるんだよ。被害届を出せば、そのときのことを誰かに話さないといけないんだよ? そういう感情、考えたことある?


 お前ら、見えるものがすべてだとは思ってないよな?

 ニュースを疑ったことがあるか?

 言葉を疑ったことがあるか?

 今、お前の話している友達の発言は、本当に本物なのか?


 そんなものいちいち疑っていたらきりがないから、別にいいよ。自分がよければいいし、それがコミュニケーションだ。それが生き方だ。生き抜く術だ。だけどさ、それなりの覚悟は背負ってもらわないとね。何も考えず、腑抜けた面で中指を立てて見せる愚か者の顔が、一番嫌いなんじゃないかって、人が死ぬこと以上に悲しいことはないって、怒りを感じることはないんだって考えて、躊躇って委ねてきたことも多いけどさ、そういう人間の面を見るたびに、浮かぶたびに、抑えようのないような感情で締め付けられるんだよ。


 誰かのあたりまえは、お前らには届かない。




 なんとなく、階段を上ってステージの上に立つ。止まって横目でフロアを見渡す。


 立ち上がって叫ぶ者。

 座ったままの者。

 耳を塞ぐ者。

 ひそひそと隣と話す者。


 どんな人間でさえ滑稽に見えた。教師だって例外じゃない。呆れる教師もいれば止めに入る教師も出てきた。


 客観的に見ることで怒りは抑えられるが、それを鮮明に、一人ひとりの表情、動きを見るたびにその熱い感情は再びぶり返してくる。


 演台に向かって歩いた。そこにあったマイクに手を掛ける。でもそこで一瞬思いとどまった。


 怒り、憤りは当然ある。ただ何を言う? それをぶつけるのは違う気がした。まるで、人数の違いはあれど、俺も、今も尚罵声を浴びせ続けている彼らと同じなのではないかと思えてしまった――。



 思考を停止させていたのは一瞬だったと思う。

 スタンドからマイクを外し、そっと右手に握る。歩いてステージから爪先を出す。


 握りしめられた、右腕を前に。

 指を反る。


 ドンッ、ドンッ、ドンドンドンと大きな音から小さな音へと不協和が鳴り響いた。


 静寂。


 鳥肌立ったよ。すごいと思わない? 今まで散々騒いでいた輩が、たったマイクを落としただけで黙ってしまうのだから、音の大きさって偉大だよね。


「一回やってみたかったんだよねー」マイクには本当に申し訳ないけど。

 へこんじゃったかな。後で、マイクで俺の頭殴るからそれで許してくれよ。


 声を張る。


「俺は過去に暴力を振るったことがある」

 脚は震えない。


「でも、もうやめた」

 手も震えない。


「自分の痛みを知った」

 緊張なんかしていない。


「だから、他人の痛みも知った」

 声は、震えない。


「俺は咲奈と安藤をいじめてなんかいない!」


 その声音がフロア中にこだました。それを聞いて、彼女らにこの声が届いたと確信した。


 橋本真弓は、床に落ちたマイクを拾って話し出した。

「と、彼は言っていますが、安藤さんと大塚さんどうですか」


 マイクは手前にいた安藤の元へ寄っていく。

「彼にいじめられました……」


 そんな消えそうな声で言うなよ。


「大塚さんは?」

 そう言って咲奈の元へ。

「私もいじめられました」


 それはあまりにも軽い口調だった。遊びに行った帰りに「じゃあね」って言うような響き。


 やっぱり強いなあ、咲奈は。


「彼方君。被害者が君にいじめられたと言っているのにあなたはそれを否定するのですか? もう少し素直になった方が……」

「俺が彼女らをいじめました」


 一瞬静まり返った体育館に「やはり」という顔をした生徒が多く見られた。金持ちが不正を働いているだろうなという違和感と同じ。未来を想像できてしまう、結局こうなるよなってどこか快感を得ているように見えた生徒たちに、憤りを感じることはなかった。


 誰かの想いは、こうやって人々の満足感と優越感の渦に飲み込まれていくのだろう。


 また同じ道をたどってしまったんだ。


 ガキが足掻くような真似はしない。深追いもしない。ただ……、信じていたかったなあ、彼女たちだけは。


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