タメ口
一人になって、窓から差し込む光がだんだん薄くなり、紅葉のような鮮やかな色光は見られなくなった。
大きな口を開けて叫んでみたくなって、机の上に立つ。
叫ぶよりも先に、机の上に乗っているという罪悪感が身に染みた。
でも降りない。
自分の身体を抱きしめてやれるほど俺の腕は長くないし、胴体が与える温もりもない。それでも右腕と左腕が交差するように、両掌で脇腹を掴んだ。
瞼は下りない。
猿みたいに長い腕だったらもっとしなやかに振れただろうな。
前方の机に、トンッ、と飛び乗って、またトントンッ、と次へ次へと続く机に飛び移った。長机の上を爪先で立ってみたり、開いた足を勢いよく閉じて背伸びして沈んで、首を伸ばして、とにかく滑らかに動くことを意識した。自分のダンスのイメージ。動物。大樹が風に揺れる。そんなものと共に。頭を満たしながら。
ダンスなんて中学の体育の授業意外でしたことなんてなかったが、今こうして歪みながらも踊っている。踊れている。
ただ、やりたいように腕と脚を動かすだけ。それだけで、誰かに言われてやらされるよりも身体が自在に動くなんて馬鹿げている。自分で言うのもおかしいけど、大分上手く踊れている気がする。
口で伝えることができたらこんなことしないんだろうな、とふと思う。歌も、ダンスも、小説も、楽器も、スポーツも、みんなその媒体を通してだから表現できたり、伝えることができる。媒介したところで、媒介しなかったところで、結局伝えたい想いはいつも同じ。でも前者の方が、与える印象や帯びた意味がより光っていたりする。
不器用じゃなかったら、こんなところで踊り出したりしないよ。不器用だから表現したくなって、上手くもない踊り方で何かを伝えようと、自分の内側から溢れ出そうとしているものを発散させる。
そう。発散させたいだけなんだ。いつも根底にあるのは、「俺を見ろ」っていう隠し続けた自尊心。
腕と脚だけでは満足できなくなって、全身を震わす。口が開く。視界の下が盛り上がって、ぼやけて狭くなる。
正方形の教室の中で、アメンボのように机の上を跳ね、猿の腕のように滑らかに上半身を逸らす。指揮者のように腕を鞭にして、肩甲骨に沿って上へ下へ。指先でさえも動かしてみたくなって、小指の付け根に力を入れてみたり、親指を外側へ押し出して見たりと、自分の身体全身を感じ獲る。爪先に異和を感じ、右足の踵で円を描く。机の上を跳ねながら腕の関節を外す感覚。ゆらゆら揺らしている腕をバッと平行に伸ばす。同時にその場に留まる。そこから、膝をカクッカクッと、右、左と腰を落とし、膝をついて、大きく広げた掌で頭を掴む。散々振り回した長い前髪と横髪が垂れて、その隙間から天井を見上げた。焦点が合わなくて手を翳す。
届かないや。
蛍光灯が一本取り外されていたのが見えて、立ち上がった。
「俺の教室の蛍光灯分けてやるよ」
いつの間にか人気はなくなり、暗闇に近い廊下からは部活をする生徒すら見えない。そんな暗い廊下を、音を立てることなく歩いた。
黄昏、廊下の天井を見ながら教室に向かい、教室のある廊下へと曲がると、廊下には夥しいほどのプリントや教科書が散乱していた。
「なんじゃこりゃー」
そう声に出るのも無理はない。だって、本当に全部出てるんだから。五十メートルくらいある廊下なのに、床の見える面積の方が少ない。二段に重なっているロッカーは、すべて開かれている。
もう面倒だから帰ろう、と思うだろうな。でも帰らなかった。いや、帰れなかったんだと思う。ひょこっと、真ん中あたりの教室から出た人影が見えたから。その人影は、わずかに出ている廊下の面をケンケンパでもするように跳ねながら、奥へと進んでいった。たどり着くと、腰を落として散らばったものを一つひとつ見ては重ね、見ては重ねてと繰り返す。まるで溜まった新聞を結わえるときのようだった。二部や三分ずつ重ねると綺麗にまとまらないため、一つひとつ、丁寧に乗せていく、そんな風に。
俺はそれを端から傍観していた。
やっと一つの扉が閉まり、また次の作業に取り掛かる。また一つ、また一つと、ドアを閉める回数は多くなっていった。
一度下の階に降りて、反対側の階段から彼女の元へ行った。
遠目で見ていた人物が、目と鼻の先にいる。
「明日の朝までに終わらなそうだな」
声に反応して、顔を俺の方に向けるも、そいつは「ああなんだ。お前か」とでも言いたげに顔を下ろす。
「終わらせなければなりません」
あくまで、手は動かしつつ、そう言った。
「先生は?」
「……」
まあ、だろうな。見て見ぬふりか、彼女が言えなかったのか、見られていないのか。おそらく、何らかの手の込んだ人によってのことだろうな。
肘を置くのにちょうどいいロッカーの上に左肘をつき、窓の外を眺める。暗いはずの廊下が青白く見えるのは月のおかげ。雲が通らない空。自分で思って、初めて気がついた。
俺がそうやって侘び寂びを感じながら何もしていない間にも、彼女の手は動き続け、もう二人分のロッカーの整理を終えていた。一瞬、「何もしないなら手伝ってくださいよ」とでも言うのかと思ったが、彼女は言わない。俺だって言わないもん。こんなことされたら。いや、こんなこと、したら。
「お前、これ全部自分の手でひっくり返したの?」
さっきまで止まらなかった作業が「えっ」と言う声とともに中断する。でもすぐにまた、再開された。
「全部ではなかったと思います。こっちの一組の方からやっていったんですが、最後の七組は、私がやる前にもうすでに散らばってました」
「へえー」
最近のいじめは想像もつかないことをやらせるもんだなあ。万引きさせられるとかは聞いたことあるけど、ロッカーをひっくり返させるって誰得だよ。自己満足なんだろうけどさ。
「ずっといじめられてんの?」
彼女はふーっと溜息を出した。
「中学の頃からです。きっかけは、彼氏です。安藤さんの彼氏だった子が、私に告白してきました。当然断りましたが、そんなことは関係なかったんです。ただ、自分があいつより劣っているということが許せなかったんでしょう。それだけです。それだけで、四年も五年も続けられるんですから、大した根性ですよね。もっと他のことに使えばいいのに……」
頬を若干上下させた横顔はそう言った。
安藤と咲奈は、中学が一緒だったみたいだ。というか、安藤の奴、そんな前から続けてたのかよ。てっきり、高校からかと思い込んでいたわ。
「まあ、いじめる側にデメリットは何もないからな」
安藤のことには一切触れなかった。まあ触れてもよかったんだけど、なんか言う感じでもなかったし。
「あ、でも、安藤さんは今もいじめている訳ではないですよ。理由はわからないんですけど、突然安藤さんも白石さんとか真弓先生にいじめられるようになって。それで、私の気持ちを知ったのか、その前から思っていたのかはわかりませんが、私の前で泣いて謝ってくれました。泣けばいいって話ではないですけど、それでもちょっぴり気が晴れました」
安藤と同じこと言ってるわ。
というか、真弓先生の存在とか立ち位置がもっと謎めいてきたな。
俺は腰を下ろして、紙や教科書を整理し始める。
「無理してやらなくてもいいですよ?」
「ああそう? じゃあやろうかな」
「変な人」
俺の質問にあっさり答えてしまうあたりが、いい人感を強調させる。言いたいことはあっても、言いたくないことっていっぱいあるじゃん? でもそれって、「言いたいこと」に意識が傾いているうちは、ないんだよ。「言いたくない」って意識があってこその、言いたくないことなんだよ。
「目の下に、傷ありますけど怪我ですか?」
「お。やっと俺に興味持ってくれた?」
「珍しいので」
「自分で切ったんだよ。なんか格好いいだろう?」
「意味わかりません」
「涙は流れるけど、血って流れないじゃん? だから鏡の前に立って、自分で切って流して見たんだよ」
「おかしな人ですね」
「悪いな、おかしくて」
俺は、ワイシャツの袖をまくる。右を最初にまくり、左もまくっていたら、彼女がこっちを向いて凝視しているので驚いた。
「本当に興味持ってくれたんだ。ちゃんと顔見てくれるなんて、旧校舎で会ったとき以来じゃねえ?」
「この間、そのまま学校にいたんですか?」
「あ?」
「この間、ジャージを私に貸して、その腕のまま学校にいたんですか?」
「ん? ああ、確かあの後自習だったから、六限出ずに帰ったよ。面倒だったし。だから学校にはいなかったな」
「馬鹿なんですか? そんなに傷あるのに、私に服貸すとかおかしいですよ」
「んあ? だってお前、あのままじゃ裸で帰ることになってたじゃん?」
「下着はありました……」
「じゃあやっぱ俺が貸さなきゃ帰れなかったんじゃん。俺がいてよかったな」
「よくないです!!」
声が廊下に響き渡る。自分の身体が一瞬、猫の身震いみたいに震えたのがわかった。彼女に逆らえない彼氏のように。
「脚は? 脚にも傷があるんですか?」
「脚になんかねーよ。めっちゃ綺麗、あいたっ」
咲奈は、無理やりズボンの裾をまくった。
「こんなに……」
「大した事ねえよ。この程度だったら見られても……」
「嘘っ! あなたが目の傷を言い訳にして、水泳の時間休んでるの、知ってますよ」
「それは……、本当に目が、」
「この間、水かぶっても平気だったじゃないですか!」
「まあそれは何というか……」
「体育だっていつも長袖じゃないですか」
「お前、女子なのに何で知ってんだよ」
「わかりますよ。傷を見られたくないことぐらい。六限休んだのだって見られたくなかったからですよね? そこまでして同情なんかしてくれなくていいです!」
憤りを感じるその表情からは、何か別の感情が浮き出ていた。
瞳。忙しなく動かされる手。少し力の入った口角。それは今までに会ったことのない人物を象徴していた。
ばあちゃんは俺に怒ったことなどない。吾妻は怒らせたことがあるが、まさに怒りが感じられるような、一点だけに向けられた凶器のような表情だったから、今の彼女みたいなこんな顔ではない。
いろいろな人を見てきたけど、何だろうな。不覚にも、ほんの一瞬、母親のようなそんな温もりを感じてしまった。母親なんか知らないから、なぜそう思ったのかもわからない。ばあちゃんの行動は母親のそれではなかったのか。答えは、「こいつになら何でも言えるんだな」ってところにあったんだと思う。
「同情なんかしてねえよ」
低い声が間を変えた。
「同情なんて感情は俺の中に無い。そんなものがあったら、今頃こんなところにはいないよ。あの世だ」
同情は一番憎い感情だ。同情するから、心が痛む。同情するから、迷う。同情なんて感情を持っていたら、今でもいじめられているのではないか。だって、いじめる側に何か理由があるのかな、なんて考えていたらきりがない。いじめの対象にとっては、白黒つけて、迷宮を脱出するしかこれから生きていく術がないんだよ。いつ終わるのかもわからないような苦痛を、時間が解決してくれるなんてそんなのんきで悠長なことなど言っていられない。
この先十年も二十年もこの過去を背負って、ばれることを恐れながら生きていかなければならないのかと思うたびに、憂鬱になり、また苦痛が続くのかもしれないと不安になり、今を打開するしか他に方法はなかった。
他人がどうしようと関係ない。痛みなんて感じない。自分は自分の道を行く。そうやって自分の中に一つの柱を建て、本来の人間の在り方とは別の方へ来てしまったのかもしれないが、これでいいと自負している。一種のプライド、いや、もう今まで生きてきた人生に嘘をつくことはできない、覆い難い自尊心なのかもしれない。
「じゃあ、放っておいてくださいよ」
「そのつもりだったんだけどな……。気づいたらいつもとは逆の方に動いてるんだよ」
「意味がわかりません」
俺もわからねえんだよ――。
ぽつりぽつりと何かが溜まっていく。答えにはたどり着いていないが、それを創り出す柱が崩れ、欠片がパシャパシャと水面に落ちる。
大気を舞う埃みたいに、湯船の水面に浮かぶ皮脂みたいに、誰にも気づかれない不浄が浮かんでくる。
「俺さ、母親がいなくてばあちゃんに育てられたんだけど、くだらないことは報告するくせに、肝心なことは報告しないというか、報告できなかったんだよな。それは、自分がいけない人間であるってことがわかっていたからなんだよ。お前、あ、咲奈だっけ名前? 咲奈が思ってる通り、俺は中学の頃いじめられてたけど、俺はそれでやり返しちまったんだわ。それはもう盛大に。いじめは百パーセント加害者側が悪いって聞いたことがあるけどさ、周りはそうやって見解を述べるだけで助けてくれないんだよ。自分のことを犠牲にしてまで誰かを助けようなんて人は、いたとしても、こんな狭い世界、学校にはいないんだよ。そんな叶うか叶わないかわからないような希望を信じ続けていたって、いつこの現状から打破できるかわからないんだよ。だから何が言いたいのかって言うと……」
何だろう?
言葉に詰まった。結局何が言いたいんだろう。彼女に反抗しろなんて言うつもりはなかったし、かと言ってそのままいじめられていろとも思っていなかったはずだ。
安藤朝海に素直になれとか偉そうなこと言っておきながら、俺の方が素直になれていない。確かに、自分の感情に迷うことはある。何が正しくて、何が偽りなのか。どうしてもそこが気になってしまうのだ。別に間違っているとか合っているとか絶対に知り得ないことだし、たとえ間違った道を歩んでいたとしても、最後に胸を張って幸せだって思えるなら、間違いじゃない訳だし。
あ。
なんか単純だな。
何かが出てきそうで、生まれそうで、身体の中がぞわぞわしてくる。イキそうで行ききれず、オーガズムを欲しているのがわかる。
心臓の音が聞こえる。
今まで伸ばしたことのないところへ手を伸ばそうとしている。未知の世界に足を踏み入れようとしている。
柱がすべて崩れかかろうとしている。水面から数センチ飛び出た先端に、凹凸を残す逆柱。小さな波紋が揺れる。
「た、多分……」
指先なんかではなく、掌で触れてみろ。
そう、それだ。
あっ――。
「友達が欲しかったんだ」
静かな廊下に、自分にだけ聞こえる音が響く。トクトクではなく、バクバクと。それはもう、心臓の形が想像できるくらいに。
「ガキみたいだけどさ、やっぱり話す人がいないのって結構寂しいんだよな。自分の中では寂しくないって思っているんだけど、実際、久しぶりに学校で声を出したときって思わずでかい声が出るし、声が高くなるし、妙に饒舌になって恥ずかしいもんなんだよな。君がどうこうって言うより、単純に咲奈と話してみたいんだと思う。そのきっかけが、裸を見たからとか、いじめられているのを知っているからとかそういうのじゃなくて、普通に、女の子として話したかったんだと思う。まあ、咲奈だからってのも少しはあるんだろうけど……」
止まらないよな。自殺する人って一瞬だと思うんだよ。ビルの際に立って、人生を思い返して、さて、飛び降りるかなんてならないと思うんだよ。本当に死にたい奴は、走って行ってドーンだよ。躊躇なし、覚悟あり、もしくは、躊躇なし、あたりまえ。女に飢えた男がそこへ走り出すように。膀胱が破裂しそうになってトイレに駆け込むときみたいな感じでさ。
一瞬だよ? 時間は。
「私の話も、してもいいですか?」
咲奈の言葉に無言で頷いた。
「私、片親だったんです。母親だけの。小学校の参観日や行事にはいつも来てくれませんでした。でも、全然寂しくありませんでした。どんなに忙しくても、週に一回はちゃんと一緒にいる時間を作ってくれましたから。それだけで十分でした。でも中学に上がって、私はいじめられ始めました。母親には、絶対に、口が裂けてもそんなこと言えませんでした。だってそんなこと言ったら、自分のせいだって思うに決まってます。自分が行事に出なかったから。自分がもっと働かなかったから。自分がもっと一緒にいてあげなかったからって」
泣きそうな声を出しながらも、はははっと笑っている。
釣られて笑っちゃいけねえなあ。そう言い聞かせる。
「ある日、母親にランドセルの中を見られてしまったんです。今でも後悔しています。なんでちゃんと隠さなかったんだろうって。迂闊でした。それを見た母親は、私を問い詰め、いじめられている事実を知りました。そして、私の前で、包丁を左胸に刺して死にました」
ああ、まずい。これは駄目だ。
「なんで私は生まれてきてしまったんだろうって。私が生まれなければ、母親は離婚もせず、死ぬこともなく幸せに暮らしていたはずです。私が母親を狂わして、殺したも同然でした」
やめろ。
「小学校の頃なんて、もう思い出せません。思い出せるのは、目の前で死んだ母親と傷を付けられたときのことだけです」
やめろ。
「今も、なんでいじめられるのかわかりながらも、学校に通っている理由はわかりません。母親への償いでしょうかね? このぐらいで償えるならいくらでもやりますよ。中学の頃なんて、もっと酷かったですからね。アルコールランプの火を、口で消したこともありましたよ。あ! あとは、」
「もうやめろって!」
そう言って、彼女を横から、無理矢理抱きしめていた。
「痛いです。放してください」
彼女は抵抗する。
多分、俺は酔いしれているんだと思う。そう思いたい。
「どこにでもいるような、普通の元気な中学生が、希望をもって、つぶらな瞳で楽しい未来を想像していたのに、どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだ。何も悪くねえよ。何も悪くねえよ。何も悪くねえんだよ。ただ生きようとしただけなのに、貧しいながらも、大好きな母親と一緒にいられる時間を大切にして。他の人より何倍も少ないのに、それが幸せだって言って。ただ生きようとしたのに、小さな幸せだけを望んでいたのに、ありふれた幸せなのに、どうして奪わなきゃいけないんだよ。なんでだよ! おかしいだろう!」
気づいたら、きつく抱きしめていた。いつの間にか彼女の抵抗もなくなっていた。
「……きもいんですけど」
えっ。
咄嗟に腕の力が緩んで、俺の腕から抜け出した彼女は、立ち上がる。
「なーんてねっ」
何かが膨らんだ気がした。
月に重なる。
「初めてだよ。こんなにうれしいの。ありがとう」
微笑ましい笑顔だけが俺には見えた。いつも無表情だった彼女の笑顔は、太陽より暗く、窓から注ぐ月より明るかった。
無邪気に遊ぶその姿は、もう一生見られないとしても、今、がある。今、笑っている。目を閉じて、耳を塞いで、口を噤んできた人間の言葉は、妙に趣があって、身に染みる。どうせ社交辞令なんだろうと普段なら疑っているところを、今は疑う余地はないほど、絶対的空間と雰囲気と第六感が丁寧に教えてくれた。
底から湧き上がるじわじわとした感情は、瞬く間に目の奥にまで達した。
ありふれた幸福は、突然やってきた――。
ひらめき。
咲奈に受け入れられたのがうれしかったのか、思い出話がしたくなった。手は動かし続けている。
「中学のときにさ、一回だけテストの答案書き直して教師のところへ持って行ったことがあるんだよね」
「いきなりだね。それは、深い意味があってってこと?」
唐突な話にもついてきてくれた。
「試してみたかったんだ。教師が俺のことを信じてくれるか」
あの頃は本当に荒んでいた。いじめられるようになり、学校に居づらいと思うようになっていた。
人間のひらめきは怖いと思う。なんとなく頭に浮かんで、気づいたら手は動いていて、教師の元へ歩いていた。
「その書き直した答案は、隣の席の人間が俺の知らない間に書き直した、ってことにしたんだ。それに気づかず、教師が答え合わせを間違えたと思い込んだ俺が、そのまま教師の下に持って行くって感じに」
「それでどうなったの?」
「言わずもがな、教師がそういう疑念を抱くことはなかったよ。俺へのいじめなんて把握しているはずなんだから、少しぐらい疑ってくれてもいいのにね。答え合わせの間違いについても、何度も見直したから間違っているはずがないってさ。それで、俺が自分では書き直していないってことを主張しても『そういう態度がむかつくんだよ』って怒られたっけな。それを聞いた時点で、書き直しましたって認めた。教師の『やっぱりな』って顔は、今でも覚えているほどむかついたわ」
今思えばあのときすでに俺の人生は歪んでしまったのかもしれない。誰も俺のことを信じてはくれない。目の前のことを疑おうとしない。自分の主張ばかり。怒りたいときに怒り、不都合があればちょうどいい人間のせいにし、自分の意見はすべて正しいと。他人の意見はないも同然。
そんな人間しかいないとは思わなかったけど、それでも、誰かを信じたいとは一度も思わなかった。
「ごめん、いきなり変なこと話したね。咲奈にはどうでもいいことだったかな。というかさっさとこれ、終わらせないと」
「うん。でもいい話だったよ。多分忘れない」
いつの間にか変わっていた優しい口調には気づかないようにした。
また、一つずつ扉を閉めていく。
心の押し入れを、あのときの想いを、一つひとつ閉じていくみたいに。
中学のあのとき、「もういいや」と一つの感情を捨ててからここまで、形式的には同情を捨てていたと思っていたが、いつの間にか彼女には同情していたようだ。
弱い二人。強い一人。忘れることのできない歴史を背負いながらも、「重い」と弱音を吐くことはない。
ただ生きる。
明日が来る。
また生きる。
明日が来る。
積み重なる歴史はさらに重荷となり続けるが、いつしか、時間と重さは比例しなくなる。重さは変わらなくなる。それは、自分が強くなったからではなくて、ただ、慣れてしまったからだった。




