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誰もいない進路室。ここはフリースペースだ。教室一つ分くらいの広さなので、普通なら勉強している人がいるのだろうが、うちの高校は自称進学校だからそんな人いる訳ない。家に帰って勉強しているのだろうか。
「マジで大学どうしよう」
棚にぎっしりと敷き詰められた赤本。橋から一冊一冊手に取りながら、ページをぺらぺらと捲っている。
「安広って大学行きたいんだ」
「彼方は行かないの?」
「行かないというか、そこに行ってどうするのって話なんだよね。金もないし、興味があることなんてないし。ただ椅子に座って時間が流れていくんだったら、入学費と授業料を何かに投資した方がいいんじゃないかって最近思っててさ」
安広は「へえ~」と言いながら、俺の考えを責めるようなことはしなかった。
プライドの高い人間は、自分の考えと違うことを言われるとすぐそれを訂正しようとする。でも、そこで立ち止まって、「そういう生き方もあるんだ」って考えられる人の方が、今後成長するのではないか。
他人の価値観を認められる人っていうのは、優しいんじゃなくて、それが常識なんだと思う。ノーマライゼーションって言っても、人それぞれ捉え方が違うからね。広義的な「普通」が広まっているだけで、実際は個々で異なる。
だから、何かを指摘されたときに、黙って「すいませんでした」って言える人は強いなって思う。それが不貞腐れたことによっての対応だったとしても、耐えて、堪えて、誰かの考えに身を委ねるなんて、到底できることではない。
誰かがその道を歩んできたから、私もこの道を行けば成功するなんて保証はどこにもなく、今もその道中で苦しんでいる。誰かが「人生は選択の連続だ」って言ってたな。
人間って不思議なもので、考えや、想い、無意識なんかによっていろいろ変化するみたいで、同じ人生を歩もうとしても絶対に歩めないようになっているんだよね。ロボットでもない限り。
三か月後の試合に出られない程重症だと医者に告げられた選手が、三か月後のその試合で活躍した話とか聞いたことはない? 信じがたいけど、「意思」って可能性が広がるみたいだ。
「本当にこの大学に行きたいんだって気持ちがあれば行けるとか言う人いるけどさ、行きたいって思ってるだけじゃいけないだろ。それに対しての行動が伴ってればいいけど、僕はなるべく楽をして生きたい人だから、何かの資格取るときに八十点以上で合格だって言われたら、八十点を目指すんだよ。勉強できないのはこういうことからなのかもしれない」
窓際の棚に腰を預け、赤本を見ながらそう話す安広の姿は、いつもとは変わってどこか眩しく見えた。部屋の電気はついていなくても、午後の穏やかな太陽は、窓を通して光を与えてくれる。
その光が当たっているだけだというのはわかっている。なのに、虚しくも、悲観的にも見えない。こういう人こそがどこかで輝くんじゃないかってまた根拠もない妄想をするのだけれど、十七年生きてきた中で妄想が現実になったことなんてなかったのだから、この妄想も、ただ大風呂敷を広げているに過ぎないのだろう。
「どんなに偏差値が低い大学でも、大学に行くことで親を安心させたいよな。一応、大学を出る訳だから社会でも役に立つだろうし。今まで迷惑かけながら生きてきたけど、そろそろ自分勝手から卒業しなきゃ駄目なんだろうな。この間の現代社会で虐待のことやったときにさ、僕の親は虐待するような親でもなかったなって思ったし、今でも学校とか友達のこと聞いてきたりするから、ちょっとしたことで失望させたくないなって自分なりに思ったんだよ。まあ、就職する勇気がないってのもあるけど」
不真面目に見えるが、ちゃんと考えていた安広だった。まあ、親ならずっと子どもの味方って言うのは幻想だろうな。
「どうせなら高いところ目指しなよ」
「今更か?」
「ああ。どうせ浪人するつもりはないんだろう? やればできるのにやらないんだよ、安広は」
「それ、軽くディスってるだろ」
「いや……」
「彼方こそどうなんだよ。お前の進路の話とか一回も聞いたことないんだけど。そっちの方が心配だっつーの」
気づけば、人差し指が挟まった赤本、安広の顔。こちらを覗いていた。
「どうなんだろうな。未だに進路先決まってないし、金もあるのかどうか……。でも、行きたくないとまでは思わないけど、行きたいと思わないところに行くのもどうなんだろう」
「彼方、バックパッカーになる」
唐突に呟く安広。しかも、ドヤ顔。でも、本人はそんなつもりではないことは想像できた。人差し指と親指の腹で顎を触っていたし、何より、さすがに安広でもズボンの股間に手を突っ込むのが格好いいとは思わないだろうから。
「島とか行きたいな。自分のことを誰も知らない島。いつか二人で言ってみる?」
「男二人でか?」
「じゃあ、誰か連れてこられそうな女でも思い浮かぶの?」
「まったく」
「というか、女が一緒にいたら楽しめるっていうのはさすがに安易すぎるわ」
「世の男ならみんなそう思うだろ?」
「俺は思わない」
「おまえつまんねぇな」
最後の響きが残像みたいになって、頭の中に見えた。今見ている光景をいつかは思い出せなくなり、存在したことすらも忘れてしまうのか。心に染み付いた景色、感動、感情でさえ、やがてノスタルジーを感じることもなくなり、二酸化炭素と一緒に流れて出てしまうのだろうか。
どうでもよかった。




