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咳払い。
「ええー、先生から報告があります。このクラスの安藤朝海さんが来週転校することになりましたー」
ざわついていた音も静まった。
「あ、別にいじめとかそういうのじゃない。ただ彼女は自分の道を歩きに行くということだそうです。皆もしっかり進路を決めて、受験なり就職に備えるようにー! はい、これで朝のホームルーム終わりでーす」
その言葉を拍子に、再び元の騒がしい教室へと戻った。
彼女は自分の道を歩きに行った。俺の意志じゃない。彼女自身がそう言った。この学校にいても、もう意味はない。義務教育は中学まで。また一つ違う選択肢を選んだ。
「かあ~な、たあ~」
担任が教壇から降りて近づいてくる。
「お前ふざけるなよ。学校に戻すどころか、追い出してんじゃねーか」
「彼女が決めたんです。今まで自分の意志もままならなかった彼女が自分で言ったんです。それは先生も聞きましたよね? 素晴らしいことですよ。それに、転校じゃなくて退学だと思いますけどね」
「あっ。お前。しっ。それは秘密だって昨日言っただろうが。誰かに聞こえてたらどうするんだ。それが広がって親にまで広がって苦情が来て、モンペの対応とかマジ勘弁だからな。もう想像しただけで恐ろしい」
急に顔を近づけてくるもんだから咄嗟に離れた。まあひそひそ話はそれが当たり前なんだろうけどいきなり男に顔を近づけられるとねえ。女ならいいって訳でもないけど。
「加齢臭がしますよ」
「な~に、女みてーなこと言ってんだ。匂い気にするなんて百年早いわ。まあ厄介者がいなくなってよかったけどな。またなんかあったときは彼方に頼むからな。よろしく~」
そう言い残して、だるそうに背中で手を振りながら教室を出ていったこの教師は、本当に大人として見ていいのだろうか。
昨日、安藤と安藤の母親が学校に来て、担任に将来のことについて打ち明けた。彼女の母親は、「朝海が決めたことなら……」と納得。父親にも電話して了承済み。決断が早い一家であった。
校門の前で待っていた俺の前に、見違える程の風貌で彼女が現れたときは驚いた。聞けば、俺の前ではふざけている担任もさすがに真摯に向き合って聞いてくれたらしく、「先生に言ってよかった」と彼女自身が言った。その顔は希望に満ちていて、カーテンによって一日中光の締め切られた部屋にいた人とは、到底思えなかった。
こういう瞬間も悪くない。君が君ではないみたいな姿。普段の生活から何かに打ち込む姿への豹変。そういうギャップは悪くない。表にいる自分は本当の自分じゃない。そういう姿を見ると、他人をより知れた気になれるからね。
ようやくわかったよ。彼女に嫌味を言われても、悪い気がしなかった理由が。
彼女を知れたからだ。
頭から一つの塊が消え、自分の時間が取り戻せた。一つ悩み出すとそれが解決するまで不安要素が頭を付いて回ることってない? そんな感じだったけど、きれいさっぱり。またのんびりした生活が始まる。
今日も一限目から寝ようと思ったら、それを遮ろうとする輩の声がした。
「起きなさい~」
机に伏せた頭を強引に持ち上げ、彼女の目と俺の目が合う。
「朝から声でかすぎ。もっと俺に優しくなれ」
「私がどれだけ彼方に優しくしてあげてると思ってるの。話し相手がいない彼方のために話しかけてあげたり、購買のパン奢ってあげたり、一緒にお昼ご飯食べてあげたり」
「それが迷惑なんだよなー」
「ええ? なんか言いました?」
「はいはい、言ってませんー」
ああ朝からめんどくせーなこりゃ。
白石の顔を通目で眺めていたら「はっ」と思わず声が出た。
「何? 私に惚れた?」
「便所」
「もうー。私の顔見て思い出すとか最低なんですけどー」
ガラッと椅子を引き、口に手を当てて教室を出た。
マジで忘れてたわ。プールの件まだ解決してないし、真弓先生も何も言ってこなければ朝会でも何も連絡なしとか、何か企んでそうで不気味だ。
「おはよー」
そのまま通り過ぎた。
「いやっ、無視しないでよ。あんたに言ってんだから」
そう言って肩を掴まれるまで本当に自分に当てられてあいさつだとは気がつかなかったし、驚きすぎて身体がビクついた。
「な、なんだ。安藤かよ。重役出勤だな」
「そんなに遅れてないっつーの。お前こそ、朝っぱらからそんなしけた面してんじゃないわよ」
「え、俺そんな面してた? イケメンが台無しだな」
「いや、マジでそれをお前が言うと笑えないから」
「……まあそれはいいとして、そうじゃん! 安藤、どうせもういなくなるんだから偵察兵にしよう! スパイスパイ。なんか格好いいな!」
俺が急に表情を変えたせいか、安藤はきょとんとしていた。目を丸くして。本当にさっきまでしけた面してたんだな。
「偵察って話が見えないんですけど」
「今日水曜日だからあと三日で片付けなきゃならないのか。一刻も早く潜入していただきたい」
「だからあんた、あたしの話聞いてる?」
「おう、聞いてる聞いてる。でもこんな廊下で話すような話じゃないから、便所で話すぞ」
「本気で言ってんの?」
「だってこの前、入ってたじゃん」
安藤の目が軽く吊り上がっていたので、さすがにやばい雰囲気を察した。「冗談です。次の休み時間、視聴覚室な」、と真面目にくだけて言って別れた。安藤って、本当は喧嘩強かったりしないのかな。
そして、一限が終わると視聴覚室に向かった。休み時間と言っても授業の合間の十分だけなので、長居はできない。
視聴覚室に着くと、すでに安藤はいた。
「早くないか。まだ授業終わって二分しか経ってないんですけど。安藤のコース、どんだけやる気ないんだよ」
サンダルを脱ぎながら適当に聞いた。
「まあ、そんなことはいいよ。で、要件は?」
ちょっと引っかかる話し方だったが、気にするほどでもなかった。というか、早くしないと授業はじまってしまうからね。まあ俺は遅れても何も問題はないのだが、彼女にとっては最後の高校生活なのだしと、変なところに気配りをしているのだが、本当に気配りできているのなら偵察なんてさせようとしていないだろうから、やっぱり授業に遅れてもいいかなと考え、改めた。
「真弓先生のことなんだけど……」
「は?」
「あ?」
「いや、何でもない。それで真弓先生の何を調べればいいの?」
こいつ。絶対何かある。でも、もういろいろ考えるの面倒だし、うんざりだった。今ぐらいはいいだろう。さっさと事を片付けたいからもういいや。
俺は話を続けた。
「この間さ、たまたまプールで煙草吸おうとしたら、たまたま真弓先生が咲奈をいじめてる現場に遭遇しちゃってさー。それで、あそこって本当は入ったらいけないところじゃん? おまけにその現場も見ちゃったから次の日に怒られるかと思ってたんだけど、何も起こらないから毎日ビビりながら生きてるんだよ。だから俺を助けてくれ」
「わかった。とりあえず、そのことについて話を聞いてくればいいのね?」
「お? おおう。そうそう」
「じゃあ次、あたしのコース体育だから」
そう言って、安藤は足早に部屋を出ていった。
「煙草につっこまなかったな。というか理解能力高いな」
独り言をこぼしながら、浮かんだどうでもいい未来を消した。
下は絨毯。古い長机。その上に並ぶ三つの丸椅子。正面には、斑に黒ずんだホワイトボード。その両脇は、物が散らかっていて汚い。
紙。
ペン。
それらを見て回ると、ここにも忘れ去られているであろう者たちがたくさんあるんだなと感じた。
丸椅子なんか適当に下ろされ、誰かのケツに踏まれ、感謝なんてされたことはないんだろうな。
ホワイトボード用のマーカーを手に取って、フタを開けて、ホワイトボードに押し付けてみる。どれも書けないものばかり。
書けないペンなんて需要がないのに、ここにはたくさん残っている。このペンは、何人もの人が触ったのだろうか。このペンは、教師にしか触られることはなかったのだろうか。
ふと後ろを振り返れば、どこかの教室みたいに人で溢れていて、雑談していて、机に腰掛ける者がいるのではないかと思って振り返った。
まっさら。鳥肌立ったよね。ただ寒かっただけなのだろうが、この部屋に入ったであろう人間を俺は知らないということへの郷愁。
確かにここにいたはずの人間。もしかしたら、いるはずだった人間も。そういう実際に起こったかもわからないような、遠い時代への哀愁。
今ここにいるのが、実は嘘で、誰かのゲームの世界なのではないかって思ったときに、「だったら時代を古くしてくれよ」ってそう叫びたい。
過去の人間が、みんながみんな幸せだったなんて到底思えないけれど、それでも俺の目には幸せそうに見えるんだよな。
家族がいて。
機械なんかなくて。
自給自足の生活で。
畑に行って。
風呂に入って。
そばにいて。
自分がその立場になったら、自由が欲しくなるに決まっているだろうに。
こんなことを考えてしまうなんて、俺の死期は近いのだろうか。前世の自分が過去を恋しく思っているのか。
とてつもなく嫌な気分になった。
結局その日は、再び安藤と顔を合わせることはなかった。
木曜日も、彼女の姿は見えなかった。そのことを気にしたかったが、珍しく安広がやたらと絡んでくるので、それの対応で必死だった。その絡みがくだらないことだったら無視していたんだろうけど、意外にも進路についてだったから付き合った。




