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いつも通り、安藤朝海の家に向かった。どうせ門前払いになるのだろうが、これが放課後の日課になっていたし、先生に学校に連れて来いと言われた以上、中途半端に終わる訳にはいかない。
インターホンを押す。反応はない。いつもなら母親が出てくるところなのだが、そこに見える車庫に車がないので、買い物にでも出かけているのだろう。
そう理解した俺は、踵を返して帰ろうとした。が、立ち止まる。すぐそこで「チャリン」と何かが鳴った音が聞こえ、視線をそちらに移すと、何かが落ちているのが見えた。近づくとそれは鍵だった。それを拾って周りを見渡す。何も異変はないが、視界の端で、彼女の家の二階のカーテンが少し揺れているのに気づいた。
それを見た俺は、躊躇なく玄関に向かい、鍵を差してみれば、すんなりとはまって、それは回った。
俺が手をかけて引くと、鈍い音を立てながら扉は開いた。目の前にスニーカーが一足。両脇にはつっかけや埃がかった靴が並んでいる。一見そっちの仲間のように思えるこのスニーカーだが、なんとなくだけど、母親の思いが入っているんじゃないかと勝手にそういうことにした。
俺は靴を脱いでスニーカーの隣に並べた。そして、学校の指定鞄を床に、丁寧に置いた。もし母親が返って来たときに、「いますよ」と知らせるためだと思って置いたが、別に俺の名前が書いてある訳でもあるまいし、とりあえず荷物を下ろしたかったということに過ぎない。知らせは後付け。
軋む階段を上り、彼女の部屋の前に立つ。「コンコンコン」と三回ノックする――。
反応はない。
ここまで憶測で事を進めてきたが、急にそれが間違いだったのではないかと不安になった。鍵が落ちていたとはいえ、母親が出ていくときに落としただけなのかもしれないし、カーテンが揺れていたのだってたまたまかもしれないし、見間違いかもしれない。そもそもなぜ先に窓の下を見なかったんだ俺。
なぜか急に嵌められたのかもしれないと思った。根拠なんてないし、頭をかすめただけの可能性の方が高いはずなのに、なぜかその薄い可能性を知ってしまったら、その場を動かずにはいられなかった。早く外に出なくてはと。
小さい頃、夜に玄関の鍵を閉めるようとドアに近づくと、ちょうどそのときに誰かが襲って来るんじゃないかってよく思ったのと同じ感情が、今、蘇った。
階段を大きな音を立てて降りた。ただ、無性に、その恐怖から逃れたくて。もうそれは、残り十秒の起爆装置を止められずに逃げる、ドラマでよく見るシーンのようだった。
必死だよね。崩れる橋から逃げるのに近い。すぐ後ろにいる恐怖、いや、実際は恐怖なんて俺の頭の中にしかないのだけど、それから必死の形相で逃げる感覚。
傍から見たらものすごい勢いだったと思う。そのぐらいの音を立てて、鞄を飛び越え、靴を履くこともままならないまま、玄関のドアノブに手を掛けながら体当たり。そのまま、家が傾いてしまうんじゃないかと思いはしないけど、漫画だったら確実に倒れていただろうね。
要するにさ、鍵が閉まっていたんだよ。
後ろでトイレの水が流れる音がして、ビクつきながらも振り返れば、玄関のドアに縋りながら腰が落ちるほどの安堵。前髪の根元を触って、指先を見れば、汗と脂で光っていた。
「女をトイレで出待ちとかありえないんだけど」
「察して……よ………」
「勝手に家に入るのは感心しないね」
「インターホン………押したつもり………なんだけどな」
息が苦しくて言葉に詰まった。人は、驚くと汗だけではなく、心拍数も上がるらしい。これは声を大にして言いたい。全校生徒の前で演説するときに自分の鼓動が聞こえて、手が震えて、持っている紙がパタパタと揺れるみたいだった。まあ、そんなことしたことはないし、この先もすることはないのだろうけど、緊張しているのに、それを無理に抑えようと振る舞う自分の姿が、容易に想像できた。リアルに、過去に体験したことがあったかのように流れたんだ。
無言で階段を上る彼女の姿を眺め、少し遅れてその後を付いて上った。鍵のかかっていないドアを開け、彼女の部屋に入る。
前に入ったときも思ったが、普通の女の子の部屋なんだよな。他の女の子の部屋に入ったことがないから憶測なのだけど、カーテンは明るい薄い緑だし、ベッドの脇にはクマとカエルのぬいぐるみが置いてある。それを抱いてさえいれば、どこにでもいそうな女の子に見えると想像を巡らせるくらいだ。
「聞きたいことあるんだけど」
答えてくれるかなと過った未来は、日本刀で真っ二つに引き裂かれました。「嫌」という彼女の声が頭で響いたまま、期待した俺がアホでしたなあと思ったら、「言いたくないことは言わない」と擦れた声で安藤は続けた。素直じゃねえなあと思いつつも、言いたくないこと以外は答えてくれるみたいなので、迷わず聞いた。
「君、なんで不登校なのか謎なんだけど」
「……」
「不登校の人を知っているわけじゃないから根拠はないんだけど、どうしてもそんな人に見えないんだよね。寧ろ気が強そうだし、いじめられたらやり返すくらいの人にも見える」
今、彼女がベッドに座ってスマホを触る姿は、身体を丸めて抱いている様には見えない。軽く膝を抱える程度。前髪が長いとはいえ、それは他の女性にも言えることだから特別長いわけでもない。ちょこちょこ目があったりするくらい。
でも、それ以上に俺が信用しているのは、雰囲気だ。これこそ根拠がないじゃないかって言うかもしれないけどさ、独特の雰囲気と言うか、何か普段と違うところを探そうとしても、どこにも見当たらないんだよ。
「あんた、本当に何も知らないの?」
「やっぱなんかあるのか。不登校になったのはいつから?」
「あんたって、ボッチなのかと思ってたけど、周りのことに興味がないから一人でいることが多かったってことね」
ほら、普通にクラスメイトと話してる感じでしょ? 俺は安広と話しているのと同じように感じるし。特に変わった点は……。
「……トイレで会ったの覚えてない?」
トイレ……。便所?
「女と便所で会う訳……あったわー。思い出したわー。あれ安藤さんだったのね。ってことは……」
「うん。多分あんたの考えてることは当たってると思う。でも、あたしって微妙な立ち位置なんだよね」
「微妙?」
「確かにあのときは、水道にホースつなげて水をかけたよ。あのときはね」
「今はしてないからそれでいいってか」
「そんなこと思ってない!」
俺が皮肉ったような口調だったせいか、彼女は強い口調で対抗した。目を開いて、目が合って、口角がちょっと揺れて、ひきこもりなんて思えないような表情。もうこの時点で、ちょっと読めたけどね。特に、なぜ安広じゃなくて俺がここにいるのかとか。どう考えても俺が周りに疎いからだよね、あの教師め。
「消してしまいたいくらい後悔してるよ。でも消えないじゃん。どうやっても過去って消えないじゃん。もう少し彼女の気持ちになってあげられてたらって何回も後悔したよ。あのときちょっと考えて立ち止まっていたらって!」
女って興奮するとこんなにも空気を変えてしまうんだな。
目。
佇まい。
その彼女の姿が、すべてを物語っていた。当然彼女の口から聞かなければわからないのだけれど、こればっかりは信用せざるを得ないと、そういう感情に俺はいつの間にか変えさせられてしまった。
「消したい過去なんて誰にでもあるだろう。なのに、匿名、一時の自分の感情に流されて、今責めている人がもし自分だったらなんて毛ほども思わないんだろうな。自分が後悔することになるなんてって。でもさ、それでも安藤は気づいたんだよ。強者の立場から弱者の気持ちに気づいたんだよ。ゴキブリを排除するのに躊躇なんかしないだろう? でも安藤はゴキブリの立場に立ったんだ。例えがおかしいけどさ」
言っていて矛盾しているなと思った。白石には、弱者の気持ちなんて考えるなと言っておきながら、安藤には、それに気づいてすごいじゃんって。
俺の矛盾は別としても、物事が矛盾することってよくあることだと思う。それは、いろんな考えや、物が入り乱れてしまって、しょうがなくどこかで矛盾してしまう。紐が多すぎて絡まってしまう。でも、それの揚げ足を取って、「お前は違う!」「おかしい!」「排除!」って思うがままに処理をする。
まあこれもしょうがないんだけどね。みんな自分の人生楽しんでいるんだし、他人のことなんて知ったこっちゃないし、そんなこと気にする方が人間としておかしいもんな。
でもな、
もしテレビの報道に映ったのが、自分の大切な人だったらって考えたことあるか? そんなこと毎日考えていたら、ビビりながら生きることになるし、それはやめておいた方がいいけど、ある日突然自分の立場が逆転することだってあるんだよ。
じゃあ悪いことをしなければ悲惨な目に合わないのかって言ったら、それは断言できないよね。だから結局好きなように生きろってことになってしまうんだけど、それでも誰かの気持ちに寄り添ってあげられたら、何も言わずにただ隣に座っていられるような人間になれたらって最近なんとなく思うようになってしまった。咲奈以外を除いて。絶対、安藤とか咲奈の影響だよね。困ったもんだ。
「で、安藤は白石にいじめられたと」
「簡単に言えばね」
安藤の目は、涙ぐんでいた。
嘘泣きとかって聞いたことあるけど、自分の感情に素直になったときしか涙って出ないと俺は思っている。
というか、安藤がいじめられたのって俺のせいでもありそうだよね。白石に覚悟を決めろって促したのは、紛れもなく俺だし。ああ、面倒臭い。
「咲奈とは話したの?」
「自分で言うことじゃないと思うけど、泣いて謝った。泣けばいいってもんじゃないけど、それでもあたしの思いを伝えたつもり」
「ああそう。で、学校には行きたくないの?」
「行きたくないって程でもないけど、行きたい訳でもない」
「やりたいことは?」
黙った。鼻水を啜る音だけ。
でもその気持ちもわかるんだよな。自分の気持ちって、自分が一番わかりそうなものだけど、意外とわからないんだよね。じゃあ他人に聞けばいいのかって言うと、それじゃあなんか信用できないしってこのスパイラル。
この間の進路指導で、教師は、「素直になれ」って言っていたけど、それができないから困ってるんだ。何が楽しくて何が不快なのかも明確にはわからない。なんとなく「この人嫌いだな」って思って、あとは勝手に自分で後付けする。自分の不用意な行動も、全部その人のせいにする。お前が視界に入ったから私はミスをした。そういえばちょっとあんたの行動が癇に障る。だってあんた生理的に受け付けないし。
受け付けようとしていないのは誰だ。
素直にって言われても、何が好きかなんてわからないことの方が多いよ。スポーツ選手だって本当にサッカーや野球をするのが楽しいだけでプロになんかならないでしょう。練習が辛くないって言ったら嘘になるんじゃないの。
その先や過程、積み上げられたものを見据えてるんじゃないの?
「……声優になりたい」
部屋は、薄暗い中でも、彼女の顔ははっきりと見た。
俯きながら、恥ずかしそうに、でもどこか明るくて、膝を掴む両手がそれを物語っている。声に出すまでは力強く握られていたのに、声に出した途端にそれは緩んで指先だけが膝に触れていた。
応えてくれたんだ。また一つ確かなものを手に入れられた気がするよ。
「じゃあこんなところにいる場合じゃないな」
そう俺が言うと、俺の目を気にせず、彼女は大声をあげて顔をしわくちゃにした。
光は、元から光っているものばかりではない。平凡なところから、時に暗いところから現れる。作り上げられた光たちは、きっかけさえ与えれば驚くべきスピードで輝く。
だってそうでしょう? 隠れていたんだから。眩しいくらいに光っているのに。




