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「あ、咲奈」


 そこで咲奈が奥にいるんだということを思い出し、俺は二十五メートル先を目指して歩いた。なんと声をかけようか迷いながらも、二十五メートルというのはすぐに着いてしまう距離で、考える暇を与えてくれなかった。


 そこに着くと、陸に彼女の姿はなく、水面に彼女は仰向けに浮いていた。それを見たときに、「綺麗だな」って言ってしまったのが、彼女の傷が月に照らされていたからとか、夜のプールに女子高生が入っているのがなんとも少女漫画チックだったからではないと、心から信じたい。


「ええ。空は、いつも綺麗って言われてさぞかし嬉しいでしょうね」

「お前も、綺麗って言われたいのか?」


 こいつが咲奈っていう名前なのは偶然にも覚えていたが、言えなかった。普通に恥ずかしかったんだろうね。


「そりゃあ、言われたいですよ。女の子ですからね。そういう人間の欲望って逆らえないじゃないですか」

「じゃあ、加害者も欲望のままに行動しているってことかー」


 俺は左脚の靴と両足の靴下を脱ぎ、ズボンの裾をまくった。そして、飛び込み台の横に座り、爪先を水に入れた。秋のプールとはいえ、そんなに冷たいと感じることはなく、むしろ気持ちいいくらいだった。もしこれを昼間にやっていたのだとしたら、プールの汚さでそうは思わないのだろうけど、暗さのおかげでいい雰囲気を楽しめる。


 そう考えると、汚いプールに入っているそこの子はどうなんだろうな。空気に触れているのは顔の表面と胸、腹の辺りだけ。もうそういうことは気にしなくなったのか、それとも本当にこの状態を好んでいるのか。


「バシャッ」と言う音が聞こえ、水面に大きな波紋が寄せてきた。顔を上げれば今まで寝ていた咲奈が、立っていた。水面は、彼女の胸が見えるくらいだったので、意外と身長が高いのかもしれない。いや、よくよく見ると、もともとプールに入っている水が少ないだけだった。


「夢の国があったら行ってみたいですね。皆そこにいれば、つまらないなんて思わないんでしょうから、他人になんて興味なくなると思います」

「そんな国見つけられたら、俺も連れて行ってくれよ」

「皮肉ですか? 見つかる訳がないって聞こえますけど」

「あるのかないのかわからないようなものを探すのは、疲れるんじゃないのか?」

「疲れたって思ったら負けだと思います。そう思った途端に、すべてがなくなってしまう気がするので」


 ゴールの扉は見えない。あるのかもわからない。そんな中で耐えるっているのは、相当精神力が必要なんだろうな。すでに、最初に会った頃より強く見えるよ。耐えて耐えて、堪えて、堪え抜いて開けた先に何が広がっているかなんてわからないのに、この子はなぜこんなに耐えられるのだろうか。親だろうか? 愛犬? 誰にも話せないよな。


 だって。だって、今そこに立っている姿から、優しさが滲み出ているんだもの。


 もうこいつが何考えてるかわからねえわ。いじめられて、教師にまで手を出されて、何を生きがいにしているのかわからないけど、言い方は悪いけど、普通ここまで死にぞこないみたいな奴が、綺麗になんて見えないだろう。


 こんな奴にかける言葉なんて見つからないし、いらないんじゃないかって思うけど、外を固めている奴が実は弱いって知っているし、境遇は違えども、俺もいじめを体験してきたし、わかってあげたいけどわからねえ。寄り添ってあげる? 本当にそれだけでいいのか。真弓先生や白石を殴るか? 余計なことだよな。じゃあ見なかったことにするのか? できない。なぜ? いらない感情が邪魔するからだ。咲奈だから? 違う。白石にはいじめを促したよな? なんでだっけ。


「お前強いな」

「それ、前にも聞きました。もっと違うこと言えないんですか?」

「俺なんか、毎日死んだように生きてるんだよ。目標も夢もない。ただ時間が消えていくのを待つだけ。でも、お前と立場を変わってやりたいだなんて簡単には思えない」


「そんな人そこら中にいますーよっ」


 バシャバシャとこちらに近づいて、俺の足を引っ張った。そのまま水の中に落ちた。汚いのが普通にわかる。暗いとはいえ月の光が水に差し込んでいて、水中の浮遊物の輪郭をはっきりと見せてくれる。まあ、気泡でほぼ見えないけどね。


 俺は飛び上がり、空気に触れて、水を含んだ服の重さを感じた。

 顔をなぞって前髪をかき上げる。

 咲奈とご対面。


 普通男が女を見るときってどこに目が行く? 目? 脚? いや、胸だよねえ。でも、なんだかさ、透けているってわかっていてもそういう目で見られないんだよ。お店の可愛い店員さんに見つめられたのとは訳が違うんだよ。目力が強いって言うか、普通、目力が強かったら目を逸らしてしまいそうなものなんだけど、むしろ「逸らさせない」みたいにずっと彼女の目を見つめていた。


 髪が乾き始めていた。横髪が頬にへばりついている。その髪を耳にかけて、彼女は口を開いた。


「私は、そこら辺の人よりは人間のことを知っているつもりです。だから、それにあなたを当てはめると、『一瞬の優しさに溺れる人』だと思っています。でも本当の価値っていうのは、私一人の考えではどうにもなりません。私がそう思っていたとしても、他の全日本国民があなたを英雄だとするなら、私が何と言おうとそれがあなたの本当の価値です。だから、あなたが私のことを強いと思っていたとしても、他の人が弱いと思っていれば、私は弱いんですよ。それが正義です。そういう世界なんです。受け入れてください」


 彼女は一度も目を逸らさなかった。俺が逸らさなかったって言うのもあるんだけど、それはさ、真面目に答えてくれたって証拠だと思ってもいいんだと思う。『一瞬の優しさに溺れる人』、だと思っているって言われたけど、それでも、まだ思っているだけなんだって、軽蔑されてないじゃんって未来に希望を残してしまった。


 自分が嫌になる。自分なのに自分のことすら理解できない、嫌な自分が出てくる。


「君の思う英雄って何?」


 なんとなく聞いたつもりだったけど、声が震えた。寒いってことにしておこう。


「私の知らないところで助けてくれて、私が、助けられたことにすら気づかないように助けてくれる人かな」


 それはなれねえわ。もう知られてしまってるし。どこかのあしながおじさん、英雄になってください。そう願うだけ。


「帰るかー」

「寒いです」

「女の方が脂肪あるんだから寒くないはずだ」

「あなたってモテない男の典型ですね」

「ほっとけ」


 ズボンはともかく、ワイシャツだけは絞った。当然咲奈も。無理に後ろを向くのはどうかと思ったので、横を向かないようにしていたのだが、どうしても視界の端でちらちらと見えてしまうので、欲望に耐えるのが大変だった。


 なんとなく服を着たかなというタイミングで俺は歩き出し、彼女も横に並んでついて来た。明日学校で怒られるのかなあとぼんやりしながら、鉄柵に手をかける。


「あ」

「何?」


 あの小悪魔め。意地が悪いな。


「鍵閉めていきやがった」


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