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 家はすぐそこだった。学校から二百メートルくらい。学校の前の交差点を渡って少し進むとある、住宅の密集地の中の一つ。


 どうせ俺が行ったところで何も変わらないだろうと思っていたが、教師に命令されたということも考慮して、とりあえず家にだけ行って帰ろうと思っていた。


 不登校というのがなんとも気に食わない。自分が通ってきた道だからこそ助言できそうなものだが、人間とは面白いもので、人っ子一人全く同じ人間が存在しない。これができる、あれができる。あれがしたい、これがしたい。皆、望むものも違えば持ち得ているものも様々で異なる。だから一概に「学校に出ろ」なんてことも「ひきこもりが悪い」なんてことも言えない。


 そもそもなぜひきこもりはひきこもるのか。家庭内のカーストの頂点に立つのは親なのか、子どもなのか。実権を握っているのは? 甘んじているのはどっち? ほったらかされてる? 数えるほどの人間の心理だったら予測して決断するのは簡単だろう。ここは、様々な心理と背景が入り乱れている。


 背景は、彼らの経済的背景はどうなんだ。促されちゃいないだろうか、人間の心って奴に。


 俺はとにかく負けたくなかった。負ける自分を見るのが嫌だった。便乗して天邪鬼だって生まれる。そんな人間には「殺す思い出泡を吹かせてやれ」と一言言われれば、途端に駆け出す。反して、天邪鬼が心を揺さぶるのも事実だが。


 じゃあそうじゃない人間は? 



『安藤』という表札を確認して、インターホンを押す。数秒して声が聞こえた。


「はい」

「私、息子さんと同じクラスの彼方と申しますが、いらっしゃいますか?」

「ええ、いるにはいるんですけど、知ってると思いますが、部屋から出てこない状態で……」


 申し訳ないですけど存じ上げていないですよー。あるあるだなー。面倒だから帰ろう。


 適当にもう一人の自分と対話して、意見一致。


「そうですか。じゃあまた、」

「どうぞ上がって行ってください」

「え」


 いや、さっき完全に家に入れるような話し方じゃなかったよね? 結構、暗い話し方だったよね? うんそうだった、そうだった。


 ドアが開き、母親らしき人物が出てくる。


「どうもー。わざわざ娘のためにありがとうね。上がっていって」

 玄関の外にまで出てきて、誘導までされたら断る訳にもいかない。


「ん?」


 その俺の声を聞いて、母親は怪訝そうな顔で見つめてくる。


「あ、いえ、何も」

 手を自分の口の前で小刻みに振りながらそう言ったら、笑顔で微笑み返しながら家に入っていったので、俺もそれに続いた。


 家はシンプル。玄関から左に進むと居間があり、そこにあった椅子に座らされる。


「ちょっと待ってね。今、お茶持ってくるから」


 断っても持ってきそうな雰囲気だったので、何も言わなかった。本当は社交辞令だったとしても、言った方がいいんだけどね。



「はいどうぞー」

「すいません。いただきます」

 とりあえずお茶を啜る。何から話せばいいのかを簡単に考え、頭に大きく浮かんだものを言葉にした。


「娘さんっ、いじめられていたって訳ではないんですよね?」


 意識しまいとは思えども、「娘さん」だけ強調されてしまった。が、結果好都合だった。

「そうだとは思うんだけど、あんまり話してくれないもんだから、実は原因ってわからないの」


 どうやら本当に娘さんのようだ。あのインチキ教師。騙しやがった。何の必要があってそんなことをしたのか、明日問い詰めてやる、と心に誓うと、もう一人の自分は、「そうだそうだ! やっちーまえっ、やっちーまえっ」とファンファーレ。


 で、まあお遊びは置いておいて、本題。さすがの俺も、やるからには潔くやりたいし、手抜きなんてしたくない。彼女がなぜ学校を休んでいるのか。俺の予想は三つ。


 一つは、日々のストレスによる積み重ね。不満や、いじめ、いじめまでとはいかなくても、些細なことでの苛立ちに理性が効かなくなって休んでいるというケース。


 もう一つは、本当にいじめられているというケース。


 ラストは、経済難。でもこれに関してはなさそうだ。少なくとも母親が病気って訳ではなさそうだから。それに、親に口を利かないって時点でこのケースはない。イメージとしては、母親のために働き、看病する頑張り屋な女の子。うん、ごめん。ラノベの読みすぎかも。


「娘さんにお会いすることってできたりしませんかね?」

「ちょっと難しいかもしれない。私の呼びかけにも反応しないから……。でも一応聞いてみるね」

 そう言って、彼女の部屋へ案内された。階段を上ってすぐ左の部屋。


「朝海ー。お友達来てるよー」


 母親が何度も声をかけている間、もし出てきたらのことを考えて、何を話そうか考えていた。結構真面目に。なんで真面目なんだろう。話すのが苦手だからだろ? そんなわけないだろ。いやそうでしょ。 あ、ばれた? 


 お遊びが過ぎる。母親にとっては深刻な問題なのに、その最中でさえ真面目になれない。


 正直なところ、問題の核心の前まで来るとおびえている自分がいる。ビビってるんだ。過去に成功例があると余裕が生まれてしまうのと同じで、俺には怯えていた過去があるから怯える。口ばっかりでさ、自信がないんだ。口で言ってしまえば本当になる気がしていたのは、いつのことだったか。


 でも、もう出てこなさそうだった。すでに十回は声をかけてくれている。これ以上は申し訳ないので、母親に伝えようとした。


「あの、もういいです。なんか申し訳ないんで。お邪魔してすみませんでした。また来ます」

 そう言って階段を降りようとしたら背後で「ガチャ」って音が聞こえるもんだから、あなた方はよく俺を裏切りますね、なんて思った。

 そのドアから出てきた前髪が鼻の位置まである少女は、俺の手を掴んで、母親に見せつけるように部屋に戻って、強く音を立ててドアを閉めた。


「朝海! そんな乱暴にしないの!」

「俺は大丈夫なんで。もう少しお邪魔します」


 ドアに向かってそう言った。

 そうしたら母親は、「ごめんねー」なんて言って潔く階段を降りる音がしたので、納得してくれたようだった。もうちょっと引きとめてくれても……。


 ドアから目を離し、彼女がいるであろう後ろの方へ振り返る。

 カーテンから透ける薄い光と、布団から頭を出す彼女が見えた。


 誰かと話すときに横を向いたままだとか、髪の毛で顔を隠すっていうのは聞いたことがあるけれど、布団で隠すってのは初めてだなあ。そう思いつつ、部屋を見回す。好きなアーティストか声優かなんかのポスターが、壁一面に張られていた。ここまで熱があったのに、今ではそれを布団で隠してしまう。ただでさえ布団は温かいのだから、彼女の熱まで吸収してどうなってしまっているのか。


 本当に熱は冷めてしまったのか。


 部屋に入って数分は経ったと感じるが、いまだに言葉は発されない。俺は黙っていた。俺が無理して話しかけたところで機嫌を損ねる、もしくは、答えてもくれないだろう。


 帰りたかったけどさ、さすがに我慢したよ。彼女がいなくなって欲しいと思うまで、ずっと。ずっと。何もいない暗い部屋になんかいたら、眠くなるのが普通だよね? 特に俺なんかすぐ寝るような奴だった。だから、太ももの裏や、首筋をつねって意識が遠のくたびに何度も目を覚ましたよ。


 そこまでした理由はって? 自分でもわからない。でも、起きたときに誰かがいるって素敵じゃないかな。俺は親がいないし、学校でいじめられて行きたくないって思ったときもあったけど、朝起きて、ばあちゃんが朝ご飯作っている後姿を見たら、それだけで学校に行こうかなって思えたよ。


 無意識に彼女から、何かを嗅ぎ取ったんだろうな。



「おい」


 暗い視界に輪郭が見えた。そっぽを向いた女の子が立っている。座ったまま寝てしまっていたようだ。


「あ、ごめん。寝まいと思ってたんだけど、暗くてつい……」


 彼女は後ろのベットに行き、「ぼふっ」と布団の上に座る。目は合わない。逸らされている。

「お前馬鹿だろう」


 まあ確かに。


「こんな時間まで何してんだよ。普通そこの鍵あけて、親呼んでくるだろ。ちょっとは頭使えよ」


 ああ確かに。そこまで頭回らなかったな。彼女の言う通りだ。内鍵なんだから、「今日は帰るね」って言って、ドアを開ければいいだけの話だったな。


 でも、何だろうな。そう言われても、不思議と怒られたとか、ディスられたとか、嫌な気分が一切ないんだよね。真っ白な部屋には、黒い染色体なんて一つもなくて、オーロラが見えたんじゃないかって思うほど。それは幻覚なのかもしれないけど、マジョリティを疑ったからこその幻。自分は正しい、そこへ行けって誰かが安心させてくれている気がした。


 それを意識するまでもなく言葉にしていた。


「君は正解だよ。俺は馬鹿だ」


 部屋は暗い。でも、俺の後ろは明るい。


「子どもの頃に、何か強請ったことはない? 飲み物とか、おもちゃとか」

「……」

「今思うとさ、そこまで強請るようなものじゃなかったと思うんだよ。でもなぜ強請ったのかって言ったら、『あなたならしてくれるかも』って心のどこかで思っていたんだ。無償の愛ってよく聞くけど、俺は無償の信頼の方を強調したい。俺はただここにいて、寝た。それだけで、君は俺に話しかけてくれた。親になった気分だよ」

「あんた、どうしようもない馬鹿だね」


 そう言われても微笑む。彼女には見られていないけど。


「あたしがお前を信頼したとでも言いたいんだろうけど、そんなんじゃないから」


 ああ、まただ。悪い気分じゃない。なんだろうなこれ。この塊。海の底から、海面を目指して見える光。見えそうで届かない光。


「無理に何しろとか、意見を押し付けるつもりじゃない。絵本を読み聞かせたとでも思ってくれ。ただ、君のことは知れた気がするよ。ちょっとだけ、だけどね」



 部屋を出て階段を下りた。下は電気がついていなかったが、暗闇に目が慣れてしまったのか、階段の下に紙切れが見えた。


〈今日はごめんなさい。また改めて話したいと思います。鍵はポストに入れておいてください〉


 一緒に置いてあった鍵を持って外に出た。鍵を閉めたことをしっかりと確認して、ポストの中へと置いた。


 月が欠けている。太陽はすべてを照らすと思っていたけれど、光が届かないところもあるんだな、なんて思った。さっきの彼女も、まだ見ぬその類の者たちも、みんな影だ。社会の陰になっている。集団の陰になっている。そして、自分自身の身体にさえ、陰にされてしまう。住みやすいからって、そこに満足するんじゃないよ。


 人は、物は、光に当たってこそ彩られるのだから。


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