~水樹氏より、スミさんへ~
水樹さん亡き後、トワは今、私達を束ねる存在になっています。父親譲りの正義感、面倒見の良さ……弟を見ているようです。それに加えて、ミドリちゃんの優しさ、本当に短い間でしたが、愛情をかけて育ててくれました。
今、「下が騒がしくなってきた」と、みんなが心配しています。水樹さんの言われていたことが、現実味を帯びてきたのでしょうか。私は、あの時 水樹さんに、
約束しました。
私が水樹さんに呼ばれたのは、トワが15ぐらいの頃、水樹さんが亡くなる数週間前だったと思います。その頃、彼は、まだ入院せずに、部屋に籠っていました。時々、部屋の窓を開けさせて、下の様子を伺い、又、私達に話しかけてくれましたが、ほとんどの時間、自室で書き物をして過ごしていました。
私は呼ばれた時、既に覚悟は出来ていました。これから死ぬ人に、嘘をつくつもりはありませんし、どだい、隠し通せる相手ではありません。水樹さんは、私達の為に、その人生を捧げて下さいました。今、どんなに心残りだろうかと、想像に堪えません。最後は、「どうか安らかであって欲しい」と。
部屋へ入ると、水樹さんは、目を閉じていました。扉を閉めるようにと、促されたのを感じ、静かに閉じると、
「お伺いしたいことがあります」
と、まるで動かない彼から、気が伝わりました。
病は彼から、生気を奪って、かつてのがっしりした身体は、その重力を失い、ベッドは、まるで重みを感じていないかのように、冷たく固まっています。それでも、気力は失っていませんでした。いつもの、温かい<気>でした。
「何なりとお尋ねください」
「スミさん、ありがとう。あなたにとって、忘れたいこと、触れられたくないことかもしれない。でも……ハッキリさせたい、もしかしたらば、救いになるかもしれない、そんな期待……いや、確信かな」
「トワのことですね」
「そう、ずっと、みんなで育ててきた。いい子になった。優しく、頼もしい青年になった。けれど、彼には、私でも入り込めない、たぶん自分でも気づいていない、ブラックボックスがある、違いますか?」
「私も、気付いていました。そして、おおよそ、その能力も見当がついています」
「教えて頂けるものですか?」
「ええ」
私は、あの時、
トワを売った!
私の大切な甥、トワのことを、
「この世界を救うために、そのために生まれて来た子供」にしてしまった。
「水樹さんは、トワが生まれる三年前の、あの集団自決を覚えていらっしゃりますか?」
「ああ、あのとんでもない宗教の?」
「そう、あれは、弟がやりました」
「え?」
「弟の親友が、彼らの生贄として、惨殺されたのです。あの宗教は、人を殺すこと、言葉を言い換えていましたが、その行為で、<徳>を積むことが出来る、全ての罪を洗い流せると、公言していましたよね。弟は、その考えは間違っている、これ以上の悲劇を起こすなと、沢山の信者の心に介入して、マインドコントロールを解こうと必死でした。しかし、実際、踊らされていた者は、極わずかで、ほとんどの信者は、殺したくて、殺していた。宗教なんて、快楽殺人の言い訳に過ぎなかったのです。
弟は、打ちひしがれて、ほぼ一週間、眠り続けました。あの時、私はまだ、彼の能力について、私と同じ「言葉を送れるだけ」だと、思っていました。たぶん、彼も又、そう思っていたと思います。
けれど、何かが、弟の身体の中で弾けた。
あの日の夜、あの瞬間を、私ははっきりと、覚えています。そして、同じ衝撃が……
ミドリちゃんの、あの日の夜にも」
「え?ミドリさんが亡くなった夜?」
「そうです。弟がこの世に戻ったのかと思いました」
「トワですね。それで、弟さんは?」
「集団自決が起きた後、彼はしばらく、意識を失っていました。かなりのエネルギーを消耗したためだと、後でわかりました。しだいに、まるで骨と皮、髪も抜け落ちて、よく生きていたものです。
そして、目覚めてまず、「印を付けた」と、私に言いました」
「印?」
「ええ、そう言っていました。「誰でもいいから傷つけたいと思っているやつらに、ここをやるんだよと、印を付ける、ただ、それだけ」と。
しかし、問題は、その後にありました。
直接手を下していないとはいえ、人が死んだのです。そのきっかけを作ったのが、自分であるという事実。これは、私達にとって、耐え難い自己嫌悪。なぜならば、聞こえてくるのです。その人の家族をはじめ、友人など、沢山の人々の<念>が。彼らは、殺人鬼であるという人物像とは、まったく違う視点で関わっていて、その死を、悼んでいる。
改心させることは不可能、又罪を犯すことは明確と、審判が下されようとも、人間どこか、蜘蛛の糸を垂らしたくなる所を持ち合わせているものです。
弟の心は、ボロボロになりました。そうすることで、もう何にも感じたくなかったのだと思います。
私は、そんな彼に「あなたは、正しかった、よくやりました」と、語り続けました」
「それは、さぞ辛かったことでしょう」
「ええ、ひどい状況でした。
ミドリちゃんと知り合ったのは、その一年後、ミドリちゃんが弟を、見つけてくれたのだと思います。その頃はまだ、彼の心は、深海の底に沈んだまま。その凍えた心に、彼女は吸い寄せられてきた、妖精です。そう、ミドリちゃんが救ってくれました。そして、私は、姉としての役目を終え、水樹さんの下で働くことにしたのです。
トワが生まれて、二人がどんなに喜んだことか……それが、あの事故、即死だったと聞きました。即死、でもね、一瞬、ほんの一瞬でしたが、ミドリちゃんと私に、弟は心を届けてくれました。「トワを頼む」と」
「トワにも、その能力があるということですか?」
「私は、そう考えます。そして、ミドリちゃんが、その能力を、最後の力を振り絞って、封印したのだと。三才児には、とても扱いきれません。彼が罪を犯してしまわないように、トワが生きていく為にと、彼の意識から、その力を遮断したのだと思うのです」
「そうですね、母の最後の願いだったのでしょう。夫の、そして自分の、大切な大切なトワの幸せは」
「ええ、今、トワは、幸せに暮らしています。このまま続けばいいと、思っていました」
「そうですね。このまま続けばいいのですが、ここの所、下の動向が気になります。私達は、支配されないために、支配する必要を迫られる、そんな日が来るかもしれません。もしもの時、その封印は解けるのですか?」
「ミドリちゃんが、封印しました。彼女しか、解くことは出来ないでしょう。でも、この封印は、そもそもトワを生かすために行われたものです。成熟して、理性を持ち、そして、彼自身が、生きる為、活かされる為に必要だと感じれば、内側からの解除が可能だと思います」
「トワが望めば、ということですね。でも、トワは、何も知らない」
「そうですね、必要に迫られる状況、自分が何とかしたいという、強い気持ちと、後は、記憶の再生が必要だと思います」
「記憶を?トワは、耐えられますか?」
「その時になったらば、私が見守りましょう。ミドリちゃんの声で」
「よろしくお願いいたします。私も、その時が来ないことを祈っておりますが、あと何年持つか……自分の死を突き付けられた時、一番初めに考えたこと、それは、山々の存続です。私達の居場所、ここが続くという確信なしには、死ねません。私の生涯が、無になってしまうようで、怖いのです」
「水樹さん、私達の山々ですよ、みんなで護ります。あなたが創って下さったこの世界には、すでに多くの人々が暮らしています。幸せに、ね。私達は、もう、この世界を、離すことはありません」
「ありがとう、私は、生まれてきて、生きてきて、よかったのですね。どうか、トワをよろしくお願いいたします。トワも、今の私のように、そう思えるように、助けてあげて下さい。私の夢、いえ、みんなの夢を護ることが出来る……その運命を呪うことなく、受け入れていけるように……そう、導いてあげて欲しいのです。そして、トワ自身の幸せも……トワにとっての、ミドリさんのような方に、巡り合えることを」
「そうですね、そうしてあげたいですね、あの子を、支えてくれる……きっと、会えますよ」
しばらく、私達は思い出を語り合い、彼の額に手を当てて、私は、部屋を後にした。私は、彼のただ一人の支えにはなれなかった。それでもいい、彼の最後の望みを叶えてあげられるのは、私なのだから。
入院してから、私は彼に会わなかった。彼がそれを、望まなかったので……