~水樹氏の手記 1~
私は、この施設でのびのびと過ごす同僚の姿に、喜びを感じていました。私達の能力は、使われるべきものです。特にこのような高齢者施設では、最も必要とされている<素養>です。「気づく」は基本ですし、「寄り添う」は、とても大切な関わり方です。
施設としての評判も上々で、施設長は、多くの施設からの見学を許していました。皆口をそろえて言うことは
「穏やかな方ばかり集まっていますね。これなら、楽でしょう」
「この見守りで、事故が起こらないのは、自主行動の少ない方ばかりなのでしょう」
「一斉にトイレ介助、部屋順にオムツ交換じゃないのですか?それって、効率悪いですよね」
答えは……
「分かりますから」
もちろん、言えませんけれど……
入所された当初、大声出したり、物に当たったり、動き回ったりと、いくら不穏な方でも、気持ちを分かって差し上げれば、イライラすることも減ります。少し位待たされても、「ちょっと待てばいいのだ」と、学習して、安心して待つことが出来ます。要は、関わり方次第。
どこが痒いのか、痛いのか、姿勢をどう直して欲しいのか……手で示せなくとも、言葉で伝えられなくとも、大丈夫です。
お互いのストレスは、大幅に減少しました。
無駄な介護?が減った分、私達は、入居者さん達の生活に寄り添えます。入居者さん達は、介護されるだけの存在などではなく、私達と共に、生活を送っていました。
この施設で働いているこの時間は、私達にとって、生き甲斐そのものでした。
そう、私は、みんなの居場所を造れた。そう、思っていました。そう……けれど、輝ける場所や生き甲斐だけでは、足りませんでした。全ての時を<安心して暮らせる場所>が必要だったのです。私達の為の、安心して暮らせる<清い場所>が。
私達に、「分ける」という発想に至る、痛ましい事件が起きたのです。
私達の仲間は、皆それぞれ少しずつ、能力に個性があります。心に浮かぶ言葉が、文章として読める者。感情を強く感じる者。悲鳴だけが、やたら強く聞こえてしまう者。聞こえるよりも、伝える方が得意な者。強さや範囲、能力の制御システム等々、かなり個性的です。それがかえって、お互い相手を尊重し、協力していく、いい関係を生んでいるのかもしれません。
悲鳴だけを感じるゲンちゃん、前の施設では、本当に辛かったと言っていました。なにしろ、入居者さん達の悲鳴、途切れることがない。ホールへの一斉集合、車椅子への移乗時間、悲鳴の大合唱が響き渡ります。次第に、感覚を鈍らせていったそうですが、それでも、聞き流せない悲鳴に、慌てて駆けつけると、「見たな」って顔で、睨まれる。その先輩の顔と、痛みを訴えている顔を、見比べて
「自分が、医務室に運びます」
と、なってしまう。たとえ、自分の過失にされてしまうとわかっていても、見過ごすことなど出来やしない。悲鳴が、彼の頭の中に、鳴り響いているのだから。
結果、前の施設でゲンちゃんは、一緒に働きたくない<問題児>にされてしまいました。そして、誰一人、
「彼のおかげで、事故後の対応が上手くいった」
なんて、評価をしてくれなかったのです。
ゲンちゃんは、精神を病んでしまいました。介護職は、チームワークでする仕事です。ハブられてしまえば、居場所がなくなります。いくら、一生懸命働いても、やっていないことだけを声だかに指摘されます。注意じゃないのです。ただの、嫌がらせです。
「私が言ってやらないと、わかんないのよね~アイツ。使えないんだから~まったく。疲れるわ~」
「あ~あ、又どっか行っちゃった。教えてやるのも、時間の無駄。ほんと、イライラする。いないほうが、マシ」
と。
唯一、じいちゃん、ばあちゃんの「ありがとう」に励まされて、何とか仕事に行くのですが、遂にそれも限界に達し、ゲンちゃんは、家から出られなくなりました。
そんな時、見ていたテレビに、私達の施設紹介があり、悲鳴の聞かれないこの施設ならばと、面接に来てくれました。力もあるので、頼もしかったです。
そんなゲンちゃんに悲劇が起きたのは、遅番を終えて、バイクで帰宅途中のことでした。
ゲンちゃんの悲鳴は、私達ほぼ全員に届きました。
彼は、ずっと前を走っていた軽が急に止まったことから、慌ててバイクのハンドルを切りました。追い越すことも出来たのに……悲鳴が聞こえてしまったのです。
軽の前には、黒い車。そこから男が出て来るのが見えました。手には、何かを持っています。
ゲンちゃんは、
「降りるなよ、今、警察呼ぶから」
と、ポケットから携帯を出そうとしたその時、男に気付かれてしまったそうです。とにかく、車の中の人に、通報してもらうまでは、なんとか時間を稼がなくてはと、
「どうしましたか?お困りですか?」
と、すっとぼけた声で、尋ねたそうです。が、その時、軽のドアが開く音が、暗闇に響きました。
「だめ、閉めろ」
と、叫んだゲンちゃんに、男はバールで襲い掛かりました。逃げようとしたゲンちゃんの背中に、グチャっという鈍い音が、ゲンちゃんの悲鳴が
後日、ゲンちゃんは、
「きっと、俺を心配して、ドアを開けちゃったんだよな~可哀そうなことをした、怖いもんを見せちゃったよ」
と、もう二度と歩けなくなってしまったというのに、軽の家族を心配していました。ゲンちゃんには、自分の悲鳴より、あの家族のあげた悲鳴の方が、大きく聞こえたのでしょう。
ルミさんは、自殺しました。すっかり気配を消して、静かに息子の後を追いました。
ルミさんの息子、ケンゴ君は、中学生。聞こえてくる声を、まだ上手くさばけなくて、いつも、びくびくしている、そんな印象でした。それでも、お母さんとここに遊びに来ると
「僕もここで働くからね。これから、まだまだ、勉強だね」
と、はにかんだ顔が、忘れられません。少し、同年代からすると、幼い感じ。でも、お母さんの荷物を持ってあげる、優しい子でした。
そんな彼が、自ら命を絶った。
ルミさんは、もちろん、息子の異変に気づいていました。彼が、語ろうとしない「いじめ」についても、把握していました。それが、教師によるものだということも。
「指導死」
自死を選ばないように、命を大切にするように、指導するのが教師でしょう。死なせてしまう「指導」って、一体何?
心を大切に思わない、感情を受け取れない指導者から、大事な大事な息子を、守れなかった。そのことは、ルミさんの心を、壊してしまいました。自分には能力があるのに、一番大切な子供を、守れなかった、と、生きる力を、失いました。本当は、当事者である教師の脳を、焼き切るぐらいの力を持っていたのに……彼女は、執行しませんでした。そんなことをしても、息子は、喜びはしない、戻ってはこないと、知っていたので。
でも、私達は、終わらせられない。このままでは、いけないと……
最後の事件は、トワの母、ミドリさん。このことが、「分ける」という発想を、決定付けました。