第八話 豪雨の中で-3
――頭がズキズキと痛む。
豪雨の中、俺とメリアは足場の悪い地面を走り傭兵を探していた。周囲の気温は雨の影響で下がり、否応なしに掛かる大量の水が全身を濡らしていく。この状況を、俺はどこか浮ついた状態で感じていた。
何か似たような経験を、俺は過去に経験しているような気がするのだ。雨の中、誰かを探して、走る……一般的にはそう珍しく無い状況かもしれない。だが、この身に残る記憶の残滓といったものが、その状況を強く想起させる。強い想いが、俺の中を駆け巡っていく。ドロドロとした何かが、体内を駆けずり回るような錯覚……頭が痛い。
「シェイド、向こう側に行こう」
「……あ、ああ」
隣を並走するメリアが足を止め、右方を指差し俺に同意を求めてきた。浮ついた状態の所為で、自分の体が自分のものではないような妙な感じがする。意識すれば手足を動かすことはできるが、ふと気を抜くと何かに突き動かされるように、勝手に動いてしまう。焦りから来る行動なのか、それとも本当に突き動かされているのか……とにもかくにも、まともに思考することができない。
今でさえ、メリアに話かけられてから返答するまでの間に若干の空白があった。それを彼女は対して気にしてはいないようだが、俺自身は困惑している。雨に濡れてしばらく眠っていたからか? 栄養状態が悪いからか? この状態は一体何なのだ。考えれば考えるほど、頭の痛みが増していく。
(……いまは、あの傭兵のことについて考えよう。俺のことは後回しだ)
先程の雨音をかき消すほどの轟音は、雷と似たようなものだが硬いもの同士がぶつかりあう音のほうが近かった。可能性としては傭兵と何かが戦闘状態になっているかもしれない。魔物の場合、この雨の中で満足に行動できるのは水の性質を持つ個体。人の場合、盗賊などが考えれるが……この悪天候で待ち伏せするメリットはあるのか? 魔物の可能性のほうが高いはずだ。そうなると、対人の仕事が多い傭兵は不利……あの人の戦闘能力はわからないが、速く探さないと手遅れになる可能性がある。
「メリア、何か人探しに使えそうな手段とか持ってないよな?」
「……あるには、ある。でも、いまはできない。まだ器が成就してない……」
「器? よくわからないが、無理なんだな」
段々と頭の痛みも去ってきた。手段がないとなれば、あとはもう運に任せて探すしかない。全然知り合って間もないが、死なれるのは心苦しい。まだ一言も会話というものを成立させていないんだ……声だけでも聞きたい。生きていてほしい。
そんな俺の勝手な願いが通じたのか。遠くに、巨大なシルエットが2つ……小さなものも含めれば3つ確認することができた。大きい方が魔物で、小さい方が人……のようだ。
「っ! きっとあれだ!」
「停止! まだ確信するのは……」
メリアから静止の声がかかったのにも関わらず、俺ははやる気持ちを抑えきれずに飛び出していた。武器はグラズ山で支給された粗末なもので、上位の魔物相手ではただのガラクタ同然だが……低位の魔物であれば十分対抗できる。過去の俺は騎士見習いだったと聞くし、体は少なからず武術というものを覚えているはずだ。過去に奴隷同士の喧嘩をしたことがあるが、その時は中々に動けていた。素人というわけではない。
そう自分に信じ込ませ、段々とシルエットに近づいていくが……俺はその途中でふと冷静になった。
雨は止む気配がなく、寧ろさらに強まっている。叩きつけるような勢いは、まるで過信する俺を戒めるような……そんな意思が感じられたのだ。
(この雨の中だ。無謀に突っ込んでも濡れた地面に足をとられるだけ。ここは、慎重にいこう)
あとから追いついてきたメリアが隣に並び、不思議そうな顔で俺を見てくるが、それに苦笑で答えて「ごめん」と謝罪する。彼女は事前に俺を止めてくれていた。何も状況がわからないまま突入するのは確かに危険で無謀なのだ。戦いは情報を制した者が有利となる、これは基本なのだ。冷静さを欠けばその基本すらままならない。過去の俺は、当然この基本を守れていたはずだ。ならば現在の俺もこの基本を守らないと。
「あの見た目からして、あれは恐らくウロッドスパイダー。でも、すごく変異している。何をするかわからない」
「あれがか? 実物はしょっちゅう見たことあるが……魔物の性質はわからんな」
「……恐らくは賢者の石の影響を受けていると推察できる。過去に何度も事例が発生しているし、わたしも何度か見かけたことがある」
「人間だけでなく魔物も影響を受けるのか……っと、マズイ! 追い詰められている!」
よく姿が見えるところまで迫ると、状況の悪さがすぐさま飛び込んできた。一体のウロッドスパイダーが傭兵を押しつぶし、もう一体も加勢しようと右方からゆっくりと近づいているのだ。
「くっそ! メリア、右のやつを頼む! 俺じゃあどうにもならないが、やるしかない!」
メリアは確実に俺よりも強い。けれど、二体もいるとなれば傭兵を守りつつ戦うのは難しいはずだ。対して戦力にならないかもしれないが、俺が片方の相手をする必要がある。ここにもう一人誰かがいれば傭兵を救出し、そのまま逃げてもらうこともできるが、居ない者は仕方がない。
「こっちだ! おい! お前の相手は俺だ!」
大声を出して傭兵を圧殺しようとするウロッドスパイダーの注意を引く。その間にメリアは俺の横を素早く疾走し、雷を纏う個体に肉薄して行った。あちらは任せておこう。下手に心配して様子を見れば俺が殺される。
と、意識を少し反らした瞬間……
「ッ!?」
まるで予備動作の無い状態から、一瞬にして距離を詰められた。少し距離が空いていたため激突されることは無かったが、距離という死の境目があっさりと消えた。もう互いに獲物を振るい、近接戦闘が行えてしまう。
クモ独特の八つの目が視界に入り、その巨体さと強い死の気配に膝がガクガクと震え始めた。粗末な鞘から剣を抜き、前方で構えるものの、剣先が震えている。そんな俺をまるで嘲笑するかのごとくゆっくりと迫る敵に、俺は感じたことのない恐怖を抱いていた。
(あれが、魔物……)
人間と体の作りからして違いすぎる。足の一本一本が全て凶器で、口からは粘着性のある糸を放出し獲物を捕えられる。人間がネズミを罠にかけて殺すように、敵は俺を容易に殺すことができる。この場合、ネズミは俺なのだ。だが、世の中には窮鼠猫を噛むという言葉がある。絶対に勝てない、ということではない。
震えが止まらない……今にも逃げ出したい。けれど、俺が逃げたらあそこで倒れている傭兵は殺される。少しでも助かる道があるのならば、そちらに賭けるしかないんだ。
「……来いよ! 化物!」
恐怖を振り払うために大声を上げ、剣を横に大きく振り敵を威嚇する。それでどうにかなるわけではないが、気持ちとして少しはマシになる。
ウロッドスパイダーは俺の行動を挑発と取ったのか、本来備わっていないはずの声帯を震わせ奇声を上げながら突っ込んできた。
「おもッ……!?」
体重をかけ剣で防ぐが、あまりの強い衝撃にあっさりと吹き飛ばされてしまった。
(あそこは回避を選択し斬りかかるのが得策だったか……)
えらく冷静に取った手段の反省をしながら、剣を落とさないように強く握り、どうにか拙く受け身を取る。足を少しくじいてしまったが、我慢すればまだ動ける程度だ。問題ない。
「シェイド! 上!」
体制を立て直そうとしたが、メリアの声に反応し大きく横に転がることで、上空から飛びかかってきた巨体をどうにか回避することに成功した。水たまりが大きな音を立て、一瞬視界を水しぶきが覆う。
(チャンスッ……!!)
互いに少しの間視界が塞がれ、隙ができた。この瞬間を逃すわけにはいかない。
すぐさま立ち上がり、前傾姿勢でできるだけ速くウロッドスパイダーに接近する。人間の胴体程の足がいくつも襲いかかるが、うまく距離を取り全て回避。攻撃の中に存在する僅かな隙を縫い、両手で構えた剣をがら空きの胴体へ振りかぶる。
『キシャァアアアアアアアアア!?』
流石に大きなダメージが入ったのか、緑色の体液を撒き散らしながら甲高い音を立て大きく怯む。ここは追撃をするべき瞬間で、ヤツを仕留める最大のチャンスなのだが……先の衝撃で俺の剣は根本からパッキリと折れていた。元々耐久性に難のある粗悪品だったが、まさか一発で折れるとは誰も思わないだろう……。
攻撃の手段を失った俺の隙を、ダメージを負っていてもウロッドスパイダーは見逃さなかった。元々緑色であった瞳を血のように赤く染め上げ、先程よりも俊敏な動きで急加速し、俺の胴体めがけて突っ込んできた。これを避ける体力も手段も持たない俺は、意識がブレる感覚と共に大きく吹き飛ばされる。
「ッア…………」
飛ばされた最中に意識を失っていたようだが、着地の衝撃でどうにか意識を取り戻し視線を先程まで俺が居た場所に移す。そこに、奴の姿はなかった。一体どこへ……と視線をずらし、後方から迫る足音を聞いた。ゆっくりと迫るその姿は完全に抵抗の力をなくした餌に対する態度。事実全身の力が抜け何もできない俺は、あの速度からも逃げることはできない。けれど、不思議と恐怖はなかった。
「う、ぁああああああああ!」
ヤツの背後から迫る傭兵が、完全に舐めきった態度にお灸を据えてくれたからだ。逃げてくれてよかったのだが、ここに来て一撃を入れるという行動に救われた。奇声を上げるウロッドスパイダーは臀部に突き刺さる剣と傭兵を回転することで吹き飛ばすが、そこに上空から強烈な一撃を御見舞されて地面に深く沈み込む。もう一体の個体を倒したメリアがその小さな足でかかと落としを食らわせたのだ。その可愛らしい容姿からは想像もできない力により、あれほど苦戦していたウロッドスパイダーは動かなくなった。
メリア、強すぎ……。
「ごめん、ちょっと苦戦した。大丈夫?」
「大丈夫じゃない……すまんが運んでくれ。あっちの人も頼む」
今は男とばかり思い込んでいた傭兵が女であったこととか、かかとおとしを御見舞したメリアのパンツがモロ見えであったことは些細な事だ。全身が悲鳴を上げている。痛い、痛すぎる。
こうして、大の男一人と子供一人分以上の重量の鎧をまとった女を、見た目成人に満たない小さく可憐な少女が運ぶ構図が生まれたのだった。雨でぬかるむ地面をもろともせずに移動するその余力に、俺は男としてのプライドをズタズタに引き裂かれた。
これに懲りたら少しトレーニングでも始めて戦えるようにしないと……女の子に背負われるのはこれで最後にしよう。恥ずかしすぎる。