第三話 解放
別の場所視点になります。
「ぁ…………」
男のうめき声が“空中”から聞こえる。その声に目を向ければ、そこには全身が銀色の剛毛で覆われた猛猿が確認できる。魔の眷属として名高い、“喰獣”だ。過去には奇跡の力を扱う勇者を苦戦させる程の実力を持って、暴れまわっていた。
その喰獣の全身から、夥しい程の血液が地面へゆっくりと流れ落ちていく。
――その血は、先ほどまで果敢に挑んでいた奴隷達のものだった。
勝てる見込みなどないが、自由を求めて半ば強引に突入した強行。初めは壊れた祭壇の上で眠りにつく獣を見て、奴隷達はその表情を明るくしたものだ。これならば勝てる。寝込みを襲い、その首を掻っ切ればいくら生命力が溢れる魔物といえど無事ではすまない。そう考え、彼らは起こさないよう慎重に近づくと、腕力の一番強い奴隷が思いきり剣を振り下ろした。
結果は、いくら粗悪品とはいえ皮膚ぐらいは切断できる威力を誇る剣の刃が、まるで奴隷達の心を示すかのようにあっさりと折れた。宙に浮かんだ刃の破片、それが地面に落下した瞬間……剣を振り下ろしたまま硬直していた男は、攻撃の衝撃で目を覚ました喰獣に体を貫かれ、その命を落とした。
そこからは、一方的な食事が始まった。逃げ惑う奴隷達を1人1人喰獣は拾いあげ、生きたまま咀嚼を始めたのだ。周囲に飛び散る血液に奴隷達はさらに顔を青くさせ逃げ惑うが、喰獣の素早い動きに追いつかれては捕食されていく。結局、数分の間に運よく逃げることに成功した2人以外はすべてが腹の中に収まった。
逃げた2人を、喰獣は追いかけようとはしない。否、できなかった。この祭壇のある場所に封印された喰獣は、自身の体を縛る封印を解くことには成功したが、体内に残る微量な封印因子を消化できずにいる。
封印因子とは、対象を一時的にこの世と切り離す技術である封印術の成果物で、万が一封印が解かれた場合でも対象を限定区内に縛り付けることができる。例え封印術の触媒として使用された物質――今回の場合は祭壇――が破壊されても、作用し続けるのだ。
とはいえ、その時間は無限ではない。因子は対象の胃腸内にとどまるのだが、時間の経過共に徐々に吸収され消化されていく。生物の構造上、排泄物として排出されてしまうのだ。
それを理解している喰獣は、なんとしても胃腸を活性化させようよりと多くの生物を喰らっているのだ。人間を喰らう前は、好みでない木々や虫などを食した。ただ、性質上やはり動物の肉が必要で、無駄な行動に終わってしまった。そこに現れた大勢の人間だ。無我夢中で喰らいつくした。
だが……足りない。僅か数10人程度の人間を喰らったところで、封印因子を消化できるほどに胃腸が動いていない。膨大な量を食すこの喰獣にとって、その数は人間で言うところの砂糖ひと舐めといったところ。全くといっていいほど足りないのだ。だから、喰獣は苛ついていた。
「ぐ、がぁああああああ!!!!????」
握りつぶさない程度の握力で握っていた最後の獲物が、喰獣がふと怒りを露にした瞬間に、僅かな力が加わっただけで壮絶な悲鳴を上げる。全身の骨が軋み、折れ、筋肉が断裂する。その痛みは、到底我慢できるものではなかった。呆然として今にも気絶しそうだった奴隷は、強制的に覚醒せざるを得ない。
「イタイ、イタイイタイタイイタイタイタイィィイイイイイイイ!!!!???」
喉を張り裂けんばかりに叫ぶ奴隷は、喰獣の拳のなかでどうにか逃れようと暴れまわる。しかし、人間のそれと違い喰獣の手はあまりに大きく、そして握力も比較でき無いほどに強い。逃げ出すことは、困難だった。
「なんぶぇ!? なんえ……僕がこんぶぁ、ごんなめに!」
奴隷は、まだ成人の儀を執り行ったばかりの青年だった。名前はエルビス・フォーク=ブライド。ブライドという家名がついている通り、彼は元々帝国に住む貴族の一員だった。貴族とはいえ、家系は代々準男爵の位を持つ程度の小さな家庭で、一般家庭よりも少しだけ裕福なだけで後はそう変わらない。
両親のほかに妹と弟がおり、彼は次期当主となる長男だった。昔から商いについて学ぶことが好きで、本人は貴族よりも商人になりたいと両親に進言したが、反発されてしまいその衝動で家を飛び出た。
家を飛び出てからは、持ち前の商才で当時大商人と呼ばれる男の元で付き人として修行を重ねた。2年、3年と時間が経つに連れてその商才は飛躍的に伸び、大商人の男から見ても天才と呼ぶに相応しい可能性を秘めていた。
だが、その才能に嫉妬した男はある日、エルビスを遠征商隊の一員に組み込み、自らが手配した傭兵に襲わせた。自身を師匠として慕う弟子を、男は築き上げた商会を乗っ取る敵と見なし、間接的に排除することに決めたのだ
エルビスは、そんな事情を知らないまま嬉々として遠征に出発し……道中に馬車ごと砲撃に合い、崖から川へと落下した。それでも彼は運よく生き延びたが、そこで奴隷商に捕まりこうしてこの場にいる。
いま思えば、貴族としてあのまま生活していれば幸せな日々を過ごせた。自分の好きなことを棄て、両親に従えばこんなことにはならなかった。後悔が、全身の痛みと共にエルビスを襲う。「死にたくない」ただその思いが、募っていく。
『フルルルゥ……』
遠くを見据えていた喰獣が、こちらに顔を向けまるでため息をついたかのように息を吐いた。それは、エルビスに対して一切の興味が無く、ただの塵としか考えていないからこその行動だった。この塵を喰らっても、何の意味が無い。腹の足しにもならないどころか、苛立ちが増すだけだ。
「ッ!?」
そんな喰獣の行動に、エルビスは痛みを忘れて目を見開いた。なんだ、ここまで僕達を蹂躙しておいて、その態度は。理不尽にも程がある。お前の餌になるために、僕は生まれてきたんじゃないッ!
痛みを超えてふつふつと沸き起こる怒りに、エルビスは恐怖を忘れて喰獣を睨みつけた。ただ、その巨大な瞳は、矮小な人間の姿など当に目もくれていない。先ほどと同様にどこか遠くを見据えているだけ。
その姿を見て、エルビスはふと大商人の男に姿を重ねた。よくよく考えれば彼も、この喰獣のように自分を見てはいなかった。ただ、才能のある自分に金の匂いを感じていたに過ぎない。師匠などと慕ってはいたが、彼はエルビスのことを弟子などとは思っておらず、ただの道具としか見ていなかった。
そう考えると、それは……家族についても同じことが言えるのではないか。自分は、ただ家系を守るための血筋を持つ道具で、両親は愛など感じては居なかったのではないか。弟や妹についても、自分は将来の食い扶持として形だけの兄として思われていたのでは。
エルビスは、死の間際にしてそんなことを考え始めていた。そして、それは自身の存在意義を否定していく。自分は必要とされていなかったのではないか。生まれてこなければよかったのではないか。
考えないようにしてきたことが、あふれるように彼の胸中を渦巻いていく。過去に経験してきたことすべてを、彼自身が否定していく。……悪い方向に、向かっていく。負の感情が、あふれていく。記憶が、混濁していく……。
――アハ、アハハ、アハハハハハハハハ!
記憶が、何かに吸い取られていく。黒い笑みを浮かべるナニカが、エルビスの体に進入していく。ズブリズブリと、体の奥深くへと影が這っていく。エルビスの体は、異物に侵入されたことに異常を感じて小刻みに痙攣し始める。瞳から絶え間なく涙をあふれさせ、尋常ではない量の汗が全身から滲み出る。
これには、遠くを見据えていた喰獣も何か不穏なものを感じ手中に目を向ける。
と、その瞬間……
『グルァアアアアアアアア!?』
親指から小指にかけて、猛烈な痛みを感じて思わず叫びをあげる喰獣。ぼたぼたと粘度の高い血液が地面へ流れ落ち、遅れて五指が大きな音を立てて落下した。
強靭な耐久力を誇る喰獣の体毛と皮膚が、あっさりと突破され切断された。見れば、黒い煙のようなものが五指を切り落とされた手から発生しており、残った部分に触れてはたちまち爛れさせていく。焼けどなどと生ぬるいものではない。これは、明らかに2度と直らないほどに後遺症を残す傷だ。
久々に感じる痛みに動揺して、傷を負った右手から忽然と姿を消した人間の姿を見失う喰獣。目は血走り、鼻息が荒くなっていく。何が起こったのか分からないが、自分を傷つけた者に対して激しい怒りが湧き起こる。その場で何度も何度も地団駄を踏み、抑えきれない怒りを発散させる。
そして、少し冷静さを取り戻した喰獣は、こちらを怯えた表情で見る人間2人を見つけた。腰が抜けたのか、そこから逃げようと立ち上がろうとして何度も転んでいる。お互いの体を押し合い、どちらかを囮にして逃げようとしているようだが……喰獣の移動範囲内にいるのではどちらも餌に過ぎない。
「や、やめ、やめっ」
「いやだいやだいやだしにたくないしにたくな、」
最後まで何かを喚いていた人間は、少し指でつぶしただけであっさりと静かになった。対して腹の足しにはならないだろうが、右手の傷が思ったよりも深い。少しでも栄養を補給しなければ。
『ッウゥウ……』
体内に2人の人間を入れた途端、全身に少しだけ痺れが生じた。過去に、数回経験したことのある感覚だ。“賢者の石”と呼ばれる人知を超えた能力を発現する特異な石を取り込んだ、世間一般では有恵者と呼ばれる者達。
これは、その優れた能力を持つ有恵者を喰らったときに生じる、拒否反応。通常、賢者の石を取り込み得た力はその者にのみ限定され、譲渡や略奪ができないようになっている。だが、喰獣にはその力を吸収することのできる力がある。魔物には上位のモノとなればいくつか固有な能力が備わっているのだが、喰獣にはその名前の由来となった“捕食”能力がある。
体内に取り込んだ者の力を全て自分のものとするある意味最強の力。勿論制約はあるが、この能力が過去に勇者を苦戦させた要因でもある。長い月日封印されていたせいで、過去に得た力は全て失ったが……今回吸収した力があれば、またその力を取り戻すことはたやすい。
喰獣は獰猛な笑みを浮かべると、体内に燻る因子を得た力で消滅させ、移動を開始した。しばらくの目的は、力の貯蔵。そして、十分力を蓄えれたら……右腕を使い物にならなくしたあの人間を喰らう。その先は、主である魔族の元へ赴くことにしよう。
――全身を蒸発させ、赤い霧を発生させながら喰獣はどこかへ消えていった。
「……アララ。変なのが解き離れちゃったワ」
今回登場した謎は、物語の中心部分に関わるものですので、後々判明していきます。