雪の精霊
この国の空気は身を切るように冷たい。
マイナス五十度を下回る寒さの夜道を、僕は防寒具を着込みひとり歩いていた。
深い森に囲まれた夜道は薄暗く、人ひとり見かけることはない。踏みしめる足下の雪はシャーベット状で、吐く息はすぐさま凍っていってしまう。
北国の夜には、時折美しいオーロラが現れるという。僕はそれを見るために、遠く日本から旅行に来ていた。どうしても叶えたい願いを、オーロラに願掛けするためにこの国へやって来たのだ。
僕には恋人がいる。もう三年も昏睡状態の恋人だ。彼女の回復を待ち続け、かたわらで話しかけるだけの日々をずっと過ごしてきた。いっこうに目覚めの気配すらない彼女の看病生活に、僕は疲れきっていた。彼女が目覚める日を諦めたわけではないが、いずれと信じて祈り続ける毎日や、ぴくりとも動かない恋人を眺め続けることに、僕はいつしかため息すら出なくなっていた。そんなときに友人からオーロラの話を聞いたのだ。北国のオーロラには、願いを叶える不思議な力があるのだと。僕はその話にさんざん迷ったあげく、結局この国へ渡航することを決めた。
ホテルから夜道を歩くこと数十分、誰もいないと思っていた前方の雪道を少年が歩いているのが見えた。同じ方角へ進む彼は雪に足を取られぬよう、ゆっくりと動いている。小さな赤いとんがりニット帽の頭が、後ろから近づく僕の足音に驚いたように振り返ってきた。無理もない、こんな夜更けに森の中を歩く人間がいるとは僕も思わなかったくらいだ。振り返り立ち止まった彼は十歳くらいだろうか、青いろの瞳を丸くして興味深そうにこちらを見てくる。
「ハロー」
僕はできるだけ彼を驚かさないように、優しい音になるよう祈りつつ挨拶をした。一定の距離を取り立ち止まった僕に、少年は怪訝な顔だ。
「ジャパニーズ?」
あどけない声と好奇の乗る瞳で問われ、僕は頷く。すると少年は僕を急かすように手招いてくる。どうやら一緒に歩こうというジェスチャーのようだ。
オーロラを見に行くのだ、と少年は言った。
レイと名乗る彼は話してみれば饒舌だ。やはり僕と行く先は同じで、オーロラの良く見える丘上の公園へ向かうという。
「お兄さん、オーロラにお願いをしに行くんでしょう?」
ゆっくりと進むレイに合わせて横並びに歩いていると、彼は確信めいた口調でそう言った。ずばり目的を言い当てられて僕が驚いていると、レイは笑っている。
「異国から来る人はみんなそう。オーロラなんか意味もないのにね」
「意味もない?」
「だって珍しくないよ。簡単に見えるものに、お祈りしたって叶うわけない」
レイは辛辣だった。その声はまだ幼く、けれど少年特有の大人びた物言いだ。それを聞いて僕は苦笑してしまう。おそらく彼はこの近辺に家があるのだろう、地元民にはオーロラは珍しくないのかもしれない。それこそ年中舞い落ちるこの国の深雪のように、ありきたりな自然現象なのかもしれなかった。
「そうか……叶うわけがないか」
冷静に考えれば、僕も血迷った行動に出たものだ。日本から数千キロ離れた北国で神頼みをするくらいなら、病院で彼女の手を握っている方がいくぶんましだったろう。ゆるりと首を振る僕を、レイが少しばつが悪そうに見上げてくる。
「どんなお願いごとだったの?」
「それは、……そうだね。君は?」
なんとなく言いづらくなり、質問に質問で返した僕にレイはむくれた。
「僕は願掛けしに来たわけじゃないよ! ただオーロラを見に来たんだ」
「ふうん。珍しくもないものを、こんな夜更けにわざわざ?」
少しの皮肉をこめて言ったのに、少年は気付かなかったようだ。純粋な疑問のみを受け取られて淡々と返されてしまう。
「そうだよ。もう見られなくなるから。僕、引っ越すんだ」
俯いたレイは、雪の塊を片足で蹴りころがしながら言った。彼の父親の都合で近いうちにこの国を去るのだと。そのことに納得がいかず、少年はこっそりと家を抜け出してきたのだと言う。
「どこへ引っ越すの?」
その問いに、レイはなぜかまじまじと僕を見上げてくる。カコガワ、としばらくしてその小さな顔がそらされ、憎たらしそうに告げられた。
「え、カコガワ? 日本なの?」
「お兄さん日本人でしょう。日本人ならいいなって、僕最初に見たときに思った。ねぇ、日本ってどんなところ?」
「うーん……そうだねぇ」
僕にはなんと言ったものか分からない。日本は確かに良い国なのだが、そこから抜け出すようにして旅行へ来ている僕に、とっさに思いつける、彼に紹介できるような自国の美点がなかった。そんな僕を見てレイは言う。
「もういいよ。あんまり良い国じゃないから、お兄さんもここへ来たんでしょう」
「いや、そんなことは……」
言いかけた僕を無視してレイは走っていってしまう。思わず視線で追ったその先に、見晴らしの良い公園が見えていた。
公園に立つレイは空を見上げていた。レイの立つ丘の下には大きな湖が広がっており、その上を黒い空が覆っている。静かな湖面に映りこむ星々は雑多で、誰かが適当に投げ入れた白砂が固まったみたいだ。
ほう、と吐き出した自分の白い息を透かしてオーロラも空に見えていた。星と空気を優しく撫でるようにして、ライムグリーンの薄いカーテンがゆらめいている。それは僕が人生で初めて目にする最高に美しいものだったけれど、いざ目の前にすると味気なさと後悔だけが残ることになった。それどころか、僕は今すぐ日本へ帰りたいと思った。いつものように彼女の眠るあの暖かな病室で、彼女の手を取り寝顔を眺めて過ごしたい。僕がオーロラを前にして思ったのは結局、その美しさや願掛けのことではなく、病室にいる彼女の寝顔のことだったのだ。
「お祈りした?」
レイが振り返りそう聞いてくる。鼻がしらを赤くした少年は僕が何を祈ったのか知りたそうだ。丸く大きな青い瞳でそわそわとこちらを見てくる様子に、僕は聞かれる前に告げることにした。
「してないよ。僕はここへ来るまで、恋人が目覚めることを祈ろうと思っていたんだけど」
「目覚める……眠っているの?」
「もう何年もね。彼女は病気で、目を覚ませないんだ」
それを聞いたレイは申し訳なさそうな顔になる。気にしないでと声をかけようとしたら、少年は何を思ったのか、その場に屈みこんで足元の雪を掻き集めはじめた。
「お兄さん、恋人の名前は?」
「え?」
「名前、教えてよ。お祈りするから」
僕が戸惑いつつ口にした彼女の名を、レイはたどたどしく音にのせた。その両手にはこんもりと凍りかけた雪が取られており、それを額の前に掲げるようにして少年は瞳を閉じる。その青い両目がゆっくりと開かれて、ひとつ瞬いたところでようやく僕は言うことができた。
「祈っても、意味はないんじゃなかったの?」
「それはオーロラの話だよ。僕はいま、雪の精霊に祈ったの」
レイは手にしていた雪をそっと元の場所へ戻して言った。この国では、願いごとは雪の精霊へするものなのだと。僕はそれを聞いて首を傾げてしまう。オーロラをありきたりで珍しくもないといった彼が、もっとありきたりな雪に祈りをささげている。その矛盾の答えは、少年の気遣うような視線にこめられている。レイは僕を励ますように笑った。
「雪の精霊なら大丈夫。きっと彼女は良くなるよ」
「ありがとう。でも、もっと良い願掛けをいま、思いついたよ」
不思議そうなレイに僕は笑って言った。
「きみ、加古川へ来るんだろう。日本へ来たら一度、僕の恋人に会いにきてよ」
レイが彼女の手を握ってくれたなら、彼女の目もきっと覚める。そう微笑んだ僕を見て、レイは不安げだ。
「行くのはいいよ。けれど僕が行っても」
「別に構わないさ。君が来てくれたことを知れば、彼女が目覚めた後で、君がしてくれたことを知ってきっと喜ぶ」
レイはじっと足元の雪を見つめていた。やがてこちらへ向けられた瞳には、重大な役割を背負ったといわんばかりの決意が見て取れる。
「わかった。僕、絶対に行くよ!」
「……ありがとう」
僕はその純粋な決意に苦笑した。レイが来てくれるのはいつ頃になるのか、そもそも本当に来てくれるのかすら分からない。けれどその曖昧さがひどく心地よい。レイはいつか、僕の恋人を訪ねてきてくれることだろう。あの暖かな病室で、レイと彼女が手を取り微笑みあっているのが目に浮かぶ。僕はオーロラのもと、そんな風にして幼い雪の精霊と約束を交わした。