晏子と三勇士
今から2500年ほど昔、数十の国が割拠していた春秋時代の話です。
東方に斉という大国があり、景公という国君が治めていました。斉国は数代前の国君から武勇の士を優遇しており、景公にも三人の大漢が仕えていました。
一人目は姓を田、名を開疆といいます。
以前、景公に従って桐山で狩りをした時、西の山から突然一頭の猛虎が現れました。猛虎は景公に向かって疾駆してきます。
景公の馬車を牽く馬が猛虎に驚いたため、車が大きく揺れて景公が投げ出されてしまいました。
猛虎は地面に倒れている景公を狙おうとします。すると、後ろの馬車に乗っていた田開疆がとっさに車から跳び下り、素手で猛虎に立ち向かいました。猛虎が襲ってくるとさっと身をかわし、左手で虎の首の毛をつかんで右手で頭を殴打します。更に足で虎を蹴り上げ、横に倒れた虎に馬なりになって殴り続けました。やがて猛虎は息絶えます。
文武百官が凍り付いて動けなくなった中、一人で勇敢に景公を助けた田開疆は、朝廷に帰ってから領地を与えられ、斉国で一人目の勇士と称えられました。
二人目は姓を顧、名を冶子といいます。
以前、景公に従って黄河を渡った時、突然、大風雨に襲われました。水面が荒れて船が転覆しそうなほど大きく揺れます。景公が驚き恐れていると、雲霧の中で火の塊がひかり、水面に落ちてきました。
側にいた顧冶子が言いました「これは黄河の蛟に違いありません。」
蛟というのは龍の一種で水神といわれています。
景公が「どうする?」と聞くと、顧冶子は「主公が心配することはありません。臣が斬ってみせます」と言い、剣を持って黄河に飛び込みました。暫くすると風が止み、波も収まります。
水面に出て来た顧冶子は腕を上げて蛟の頭を景公に見せました。
大きく荒れた黄河の濁流も恐れず、蛟の首を奪った顧冶子も、領地を与えられて斉国で二人目の勇士と称えられました。
三人目は姓を公孫、名を接といいます。
ある日、西方の秦が斉の国境を侵したため、景公が軍馬を率いて迎撃しました。ところが斉軍は秦軍に大敗し、撤退した景公は鳳鳴山で包囲されます。
秦軍の包囲が厳しくなり、斉軍は進退に窮して全滅の危機に陥りました。すると、公孫接が巨大な鉄闋を握って秦軍に突入しました。十万の秦兵の中で公孫接が鉄闋を振り回します。
秦兵は公孫接の鬼気とした勢いを恐れて近づけません。公孫接が道を切り開き、景公はその後ろに続いて脱出しました。
敵の大軍に単身で飛び込んで景公を救った公孫接にも領地が与えられ、斉国で三人目の勇士と称えられました。
この三人は仲のいい友人となり、兄弟の契りを結びました。三人で困難に立ち向かって生死を共にすると誓います。
景公は三人を重用しました。
しかし三人は武勇に優れているだけで、学問がなく礼節も知りません。しだいに功績を誇って横行し、国君も群臣も草木を見るように軽視するようになりました。
景公は三人を徴用したことを後悔し始めます。
ある日、南方の大国である楚という国から、靳尚という使者が来ました。
斉と楚は隣国の関係にあり、二十余年にわたって戦争を繰り返していました。
今回、楚王が靳尚を使者にして斉に送ったのは講和のためです。
靳尚は景公にこう伝えました「斉と楚は不和のため、久しく兵を交えてきました。その結果、民に多大な苦難を与えています。よって、両国が講和して長く武器を休めることを望みます。我が楚国は三江五湖を擁し、その地は千里に及び、食糧も数年の蓄えがあるので、兵を養うには充分です。今回の講和は上国(貴国)のためを思ってのことです。斉国の主が和平による美名と利益を得られることを願います。」
これを聞いた三人の勇士は激怒し、靳尚に言いました「汝等の楚国は取るに足りない!我等三人が自ら雄兵を率いて楚国を蹂躙すれば、楚人は全て死に絶えるであろう!」
三人は宮殿を守る武士に向かって靳尚を斬るように命じました。
すると一人の背が低い男が進み出ました。
斉国の丞相で、姓を晏、名を嬰、字を平仲といいます。字というのは成人してから使う別名のようなものです。
晏嬰は武士を一喝して靳尚を釈放させ、自ら講和の使者となって楚に行くことを約束し、靳尚を先に帰国させました。
三人が怒って言いました「我々が処刑するように命じたのに、なぜ釈放したのだ!」
晏嬰が言いました「両国が戦争をしていても、相手の使者を斬ってはならないという言葉を聞いたことがないのか?彼は単身でここに来た。それを捕えて斬ったら、隣国の笑い者になるだろう。晏嬰は不才だがこの三寸の舌によって楚国の君臣を跪かせ、斉を尊ばせてみせよう。私の計を使えば兵馬も武器も用いる必要がない。」
三人が怒鳴って言いました「汝は口が黄色い侏儒に過ぎない!国人には見る目がないから汝を丞相にしているが、我等の前で敢えて大口をたたくのか!我等三人は龍虎を殺す武威と、万夫に匹敵する武勇がある。自ら精兵を率いれば楚国を併呑することもできるだろう。汝の出る幕ではない!」
口が黄色いというのは成長していない小鳥を表します。侏儒は小男、小人の意味です。
景公が言いました「丞相が大言を吐いたのだから考えがあってのことだろう。丞相が楚に行ってもしも利を得ることができたら、兵を動かして得る功績にも勝る。」
三人が言いました「侏儒がどうするか見てやろう。もし我が国の気概を損なうようなことがあったら、必ずその命を奪ってやる。」
三人が朝廷を出ていくと、景公が緊張した面持ちで晏嬰に言いました「丞相よ。今回の使命はくれぐれも軽んじてはならない。」
しかし晏嬰は平然とこう応えました「主上は安心してください。楚の君臣を懼れる必要はありません。」
晏嬰は十余人の従者を連れて出発しました。
晏嬰の馬車が楚の都・郢に到着しました。楚国の臣が楚王に報告します。
楚王が群臣に言いました「斉の晏嬰は弁舌の士だ。計策を用いて先にその口を塞がせ、こちらが優位に立てるようにしよう。」
群臣が手はずを整えると、晏嬰を朝廷に招きました。
晏嬰が館舎を出て朝廷に向かいます。
晏嬰が門の前まで来ましたが、正門は閉じられており、門の横の下の方に小さな穴があけられていました。背が低い晏嬰を辱めるために造られた穴です。
晏嬰は意に介さず、穴をくぐるために腰を曲げました。それを見た従者が慌てて晏嬰を止めて言いました「楚人は丞相の背が低いことを辱めようとしているのです。なぜ敢えて彼等の計にはまるのですか!」
すると晏嬰が大笑いして言いました「汝にはわからないのだ。人には人が通る門があり、犬には犬が通る穴がある。使者として人の国に来たら人の門を進むが、犬の国に来たら当然犬の穴を通るものだ。何を躊躇する必要があるのだ。」
門の中でこれを聞いていた楚の臣下は急いで正門を開きました。
晏嬰は何事もなかったかのように胸を張って入っていきます。
晏嬰が使者としての外交辞令を述べ終ると、楚王が問いました「汝の斉国は土地が狹く人も少ないであろう?」
晏嬰が答えました「臣の斉国は、東は海に面し、西は晋国に接し、北は燕国を防ぎ、南は呉国と楚国を呑み込もうとしています。鶏が互いに鳴き、犬が吠え始めたら、数千里も途絶えることがありません。なぜ土地が狭いというのでしょうか?」
「土地は確かに広いようだが、人と物は稀少だろう?」
「臣の国では、人が息を吐けばその気が雲になり、汗を揮えば雨となり、歩く人は互いに肩をぶつけ合い、立てば脚と脚が接し、金銀珠玉は山のように積まれています。なぜ人と物が稀少だというのですか?」
楚王は晏嬰が計に落ちたと思ってこう問いました「そのように土地が広く人も多いのなら、なぜ一人の児童を我が国に送ってきたのだ?」
背が低い晏嬰を侮辱した言葉です。
すると晏嬰はこう言いました「大国に派遣する使者は大人を用い、小国に派遣する使者は小児を用いるものです。だから私がここに来ました。」
楚王は返す言葉がなく臣下を見渡しましたが、臣下も何も言えませんでした。
楚王は晏嬰を殿上に招いて座るように命じ、酒を勧めました。晏嬰は何事もなかったかのように平然と酒を楽しみます。
少し経つと宮殿の衛兵が一人の男を囲んで宴席に連れてきました。男は冤罪を叫んでいます。
晏嬰が顔を見ると斉国から一緒に来た晏嬰の従者でした。
晏嬰が従者の罪を問いました「私の従者が何の罪を犯したのですか?」
衛兵が答えました「宴が始まる前に盗みを働いたのです。酒器が持ち出されましたが、幸い我々が捕らえたので取り返すことができました。彼は盗人です。」
従者は必死に抵抗して言いました「私は盗んでいません!彼等が私に罪を着せているのです!」
しかし晏嬰は従者を叱ってこう言いました「盗みを働きながらまだ嘘をつくのか!汝のような者は速く処刑されればいい!」
宴に参加していた楚の臣が晏嬰を嘲笑して言いました「丞相(晏嬰)ははるか遠くからここまで来たのに、なぜ誠実な者を同行させず、盗人を選んで来たのですか?従者が盗みを働くとは、主として恥ずかしくありませんか?」
すると晏嬰はこう応えました「この男は幼い頃から私と一緒だったので、心腹を理解しています。今日、盗人になったのも理解できます。彼は斉国にいた時は君子でしたが、楚国に入るとすぐ小人になりました。これは風俗によって変わったからです。江南の洞庭という地に橘という木があります。その実は黄色くて良い香りがし、味はまたとないほど甘美です。ところが、この木を北方に移すと枳となり、その実は青くて臭く、味も酸味が強いうえに苦くて食べられません。本来は同じ木なのに、南では橘、北では枳という全く異なる実ができるのは、風俗が異なるからです。よって、斉で盗人にならなかった者が楚に来たら盗人になるというのも、理解できます。」
楚王は恥じ入って従者を釈放させ、晏嬰に言いました「あなたは本物の賢士だ。我が国の公卿を全て集めても万分の一にも及ばない。あなたの教えを聞きたい。」
晏嬰が言いました「臣(私)には一つの希望があるだけです。斉国には三士がおり、どれも万人に匹敵する勇をもっているため、以前から兵を起こして楚国を併呑したいと考えていました。しかし私が力を尽くして反対しました。それは、楚と斉が不和であれば民が害を受けるからです。今回、臣が使者としてここに来たのは、講和を成立させたいからです。大王が自ら斉国を訪問し、和を結んで同盟の誓いを立てることができれば、万年の安泰が実現します。臣は大王の熟慮を願います。」
楚王が言いました「あなたの言う通りだ。寡人(私の意味)も貴国と和を結びたいと思っている。しかし斉の三士には仁義の心がないので、貴国を訪問することはできない。」
晏嬰が自信を持ってこう言いました「大王が心配することはありません。臣が大王を守り、小計を施して三士を大王の前で死なせてみせます。」
楚王は晏嬰の言葉を少し疑いましたが、「三士が死ぬのなら、あなたの言葉に従おう」と応えました。
この日、楚王と晏嬰は宴を楽しみました。
翌日、晏嬰は先に従者を斉に還らせ、楚王が講和のために斉を訪問することを報告しました。
晏嬰自身は数日後に帰国し、その後に楚王も斉に向かいます。
晏嬰の報せを聞いた斉景公は大喜びし、大臣群臣を率いて城を出て晏嬰を出迎えました。三人の勇士はそれを聞いて憤激します。
晏嬰が到着すると、景公は車を降りて慰労し、晏嬰を自分の車に載せて城に帰りました。
翌日、晏嬰が景公の宮殿に入りました。
三人の勇士が庭で武術を競っていたため、晏嬰は三人の前に進んで挨拶をします。しかし三勇士は晏嬰を無視しました。
晏嬰は暫く立って三勇士の反応を待ちましたが、あきらめて室内に入りましたが。
景公に謁見した晏嬰は三勇士の無礼を語りました。すると景公もこう言いました「あの三人は勝手に公宮に入り、剣を帯びて殿上に登ることもある。余を子供とみなしているようだ。いずれ、この地位を奪われてしまうかもしれない。内心では彼等を除きたいと思っているのだが、力が及ばないのだ。」
晏嬰は以前から三勇士を除く計を考えていたため、景公にこう言いました「主公が心を煩わせる必要はありません。明日、楚国の君臣が参謁に来るので、群臣を集めて宴を開きましょう。臣(私)が小計を設けて三士を除いてみせます。」
景公が晏嬰に顔を寄せて「どうするつもりだ?」と問いました。
晏嬰は「あの三人は勇猛ですが匹夫の仁義しか持たず、しかも謀略がありません」と言ってから、景公に計の内容を詳しく説明しました。
翌日、楚王が百余人の文武官僚を率いて斉の朝廷を訪れました。一行の後ろに十数台の車が並び、それぞれに斉に贈る礼物として金銀財宝が積まれています。
景公が楚王を招き入れ、外交上の儀礼を行ってから酒宴が始まりました。
楚王が拱手して景公に言いました「二十年にわたって戦争を繰り返してきましたが、今回、貴国の丞相のおかげで和平の機会を得ることができました。粗末ですが礼物を準備したので、お納めください。」
気分を善くした景公は自ら楚王に酒を注ぎ、遠路を厭わず斉国を訪問して来たことを感謝しました。
楽師が音楽を奏で、美女たちが舞を披露し、両国の君臣は気兼ねなく楽しみます。
宴もたけなわになり、両国の君臣に少し酔いがまわった頃、景公が楚王に言いました「公宮の御園で金桃が熟しました。楚王にも味わっていただきたいと思います。」
暫くして、宮人が金の皿に五つの桃を乗せて宴席に入って来ました。
景公が楚王に「今年の金桃は五つしか取れませんでした。味も香りも他の木とは全く異なります」と言ってから、晏嬰に命じて宮人が持ってきた桃を受け取らせました。
晏嬰は杯を持って立ち上がり、宮人の皿の上から一つの桃を取って楚王の前に行きました。
楚王に謝辞を述べて酒を勧め、二人一緒に飲み干してから一つ目の桃を楚王に献上します。楚王は桃を食べて絶賛しました。
晏嬰は次の桃を景公に献上しました。景公も晏嬰と一緒に酒を飲み干してから桃を食べます。
景公が言いました「これほどの桃はなかなか食べる機会がない。丞相は両国の和平を実現させた。その大功は金桃を食べるのに値する。」
晏嬰は跪いて景公に謝意を述べ、一杯の酒を飲み干してから桃を一つ取りました。
斉景公が群臣に向かって言いました「斉、楚二国の公卿の中で、勲功が特に大きな者にこの桃を下賜しよう。」
すると田開疆が進み出て言いました「かつて主公に従って桐山で狩りをし、勇力によって猛虎を殺しました。この功はどうですか。」
景公が言いました「汝は国君を危機から守った。これより大きな功はない。」
晏嬰が田開疆に酒を勧めて桃を一つわたしました。
すると顧冶子が憤って前に進み、「虎を殺すというのは珍しくもありません。黄河で長蛟を斬って主上を助け、大波に飛び込むのに平地を歩くように平然としていたこの功はどうですか」と言いました。
景公が言いました「それは世を覆う功だ。酒を勧めて桃を下賜しよう。」
晏嬰が酒を勧めて最後の桃をわたしました。
すでに桃がなくなりましたが、公孫接が大股で進み出てこう言いました「私は十万の敵に囲まれながら鉄闋を振り回して主公を助け出し、敢えて近づく敵はいませんでした。この功はどうですか。」
景公が言いました「卿の功は真に天のように高く地のように広い。他の者は足元にも及ばない。しかし今年の金桃は全て配ってしまった。一杯の酒を下賜するから、桃は来年まで待て。」
晏嬰が公孫接に酒を勧めて言いました「将軍の功は最大ですが、言うのが遅すぎました。小さな桃ならまだ残っているはずですが、最も熟した金桃はもうありません。桃がないということは、大功も認められないということになります。」
公孫接は怒って剣に手をかけてこう言いました「龍を殺したり虎を斬るのは小事だ!わしは十万の大軍の中を無人の野のように進み、主上を助けるために尽力した!大功を立てながらそれが認められないとは、両国の君臣の前で辱められたのと同じだ!万代の恥となりながら朝廷に立つことはできない!」
言い終わると剣を抜いて自刎してしまいました。
宴に参加した者が驚いて声を挙げます。
すると田開疆も剣を抜いて「我々は小さな功で桃を下賜されたが、兄弟は大きな功を立てたのに認められなかった。受け取るべきではない賞賜を得ながら譲らなかったら廉潔とはいえない!兄弟が死んだのに後に続かなかったら勇とはいえない!」と言うと、公孫接に続いて自刎しました。
顧冶子も大声で言いました「我等三人の義は骨肉(家族)と同じであり、生死を共にすると誓った!二人が死んだのにわしだけ生きるわけにはいかない!」
顧冶子も自刎します。
晏嬰が楚王と斉景公に向かって言いました「二つの桃で三士を殺しました。これで悩みはなくなりました。」
楚王は席から降りて晏嬰を拝伏し、「丞相の神妙な奇策にはかないません。今後は上国(貴国)を尊び、二度と侵犯しないことを誓います」と言いました。
こうして斉と楚が講和し、戦いがなくなりました。斉はますます大国となり、晏嬰は万世に名を留めます。
後に諸葛孔明が『梁父吟』という詩の中で「二桃で三士を殺す」と歌いましたが、この故事を指しています。
*以上、『喩世明言』の第二十五話に添削・脚色を加えました。