教官と彼女の恋愛抄録 ― その後の二人―
カーリンとアレックスの電撃交際から一ヶ月、大きな変化があった。ビアンカはランディの部隊へ、カーリンはシャトレーズ軍人学校へ転属となる。両者ともそれぞれ納まる所へ納まったというところだ。
「リヒター伍長、調子はどうだ?」
パソコンの操作に悪戦苦闘しているカーリンに金髪の青年が声を掛ける。訓練生の頃、彼女に片想いだった同期のセドリック・マーティンだ。実技・学科ともに優秀な彼は教官見習いとして従事している。
「う……、頭がクラクラする」
「ははは、頑張れ。困ったら主任補佐に相談しろよ」
― ったく、他人ごとだと思って!!
労いだけで手助けしないセドリックを恨めしく睨んだ。これをクリアしないことには先に進めないので、仕方なくその主任補佐のデスクへおずおずと向かう。
「あの、この案件なんですが」
顔を上げた人物とバッチリ目が合った。無造作に上げた前髪から覗くグレーの瞳に心臓が躍り出す。それもそのはず、彼こそがカーリンの婚約者アレックス・ミュラー少佐なのだ。二人の歳の差は十歳で、カーリンは彼の教え子だった。
アレックスは無言で書類を受け取り、これまた無言で目を通している。我が恋人ながら素敵だとうっとりした眼差しで見つめていると
「おい、カーリン。よだれ、よだれ」とセドリックが囁いたので、慌てて口元を手の甲で拭いた。
「まだ時間はある。もう少し自分の力でやってみろ」
カーリンは突き返された書類を渋々受け取った。これでは教官と訓練生の延長である。
― 課業時間になると、やたら厳しいんだから。
二人っきりの時は甘々モードになるくせに、と心の中でぼやいた。
訓練生と教官の恋から上官と部下、そして現在もその位置は変わらない。相手は少佐で主任補佐、かたやカーリンは伍長で事務能力に難ありだ。実技はセドリックに並ぶほどの実力なので、努力次第では教官への道も開けるのだが本人にその気はない。
昼休みになり、一同は食事へと散らばっていく。
「ミュラー少佐はどうなさいますか?」
まだ席を立たないアレックスに、セドリックが声を掛けた。隣にいるカーリンに視線を移してようやく立ち上がる。
三人並んで食堂へ行く風景に、訓練生達の様子が俄かに騒がしい。精悍なアレックス、甘いマスクのセドリック、端麗な顔立ちのカーリンとくれば否が応でも目を引く。しかもそのうちの二人が恋人となれば、好奇心旺盛の訓練生達が黙ってはいない。
「そろそろ落ち着いてくれないかなあ」
アレックスとの交際が学校全体の知れると、行く先々で注目を浴びるカーリンはいささかげんなりしていた。
「ビッグカップルの誕生だから仕方ないさ」
セドリックは明らかに楽しんでいる風だ。若くして佐官のアレックスと貴族出身でこの学校の卒業生だったカーリン十八歳との熱愛は、シャトレーズロマンスとして訓練生達に語り継がれていくだろう。
上目遣いで恋人の反応を確かめると、相変わらずの無表情である。
「やりにくいなら異動願いを出すか?」
アレックスからの意外な台詞に、カーリンが大きくかぶらを振る。やっと傍にいられるのに、今更だ。わずかに頬を緩ます上官に、セドリックは盛大なため息をつく。
― あーあ。毎回あてつけられるこっちの身にもなってくれよ。
セドリックの恋人はカーリンが元いた部隊にいる。しかも、ここから車で片道三時間。カーリン等の熱愛に当てられて、やってられないと本当にさじを投げそうになったところに、アレックスの目線が向けられた。
「マーティン伍長、今回の士官昇任試験はどうする?」
「もちろん受けます」
「そうか。私もできる限りサポートしよう」
「本当ですか!? じゃあ、早速今日からお願いします!!」
身を乗り出すセドリックだったが、申し訳なさそうにカーリンを見た。
「あ、でもなんだか二人に悪いな」
「わたしのことは気にしないでいいよ。士官になるチャンスじゃないか」
軍人学校と士官学校の試験手続きさえ間違えなければ、今頃セドリックも幹部となり教官として勤しんでいるはずだ。それに彼にはその資格は充分ある。だから、自分のわがままで邪魔はしたくなかった。
寂しげにフォークで肉をつつくカーリンに、アレックスは軽く息を吐いた。
「リヒター伍長」
食堂を出たカーリンの背後から低い声が呼び止めた。振り向かなくともわかる愛しの上官様。
「なんでしょうか」
素っ気なく返事するカーリンに、少し戸惑った顔をしている。
「お前も来ないか?」
「わたしは試験、受けませんよ?」
「そうなんだが……」といつもより歯切れが悪いアレックス。
「ほんとにわたしのことは気にしなくていいですから」
「俺が一緒にいたい」
ぼそっと呟いた彼の台詞に、カーリンは血が逆流して体中が火照った。
― こういうところ、反則!!
少しでも甘えた素振りをすると「課業中だ」と突っぱねるくせに、自分はさらりと嬉しい台詞を言ってのける。なんだか自分だけが損している気分で腹が立つ。
「今夜七時、自習室だぞ」と言い残す広い背中に、カーリンは舌を出す。
― 絶対、行かないんだから!!
「お、カーリンも来たのか」
教材を小脇に抱えたセドリックが自習室へ入るところだった。結局、恋人会いたさに来てしまったカーリンが罰悪そうに笑う。
「まあ、わたしがいてもなんの役に立たないけど」
「そんなことないって。ミュラー教官喜ぶぞ?」
「そうかな」
二人並んで座ったところへアレックスが現れた。前に立つ彼は、カーリンの教官だった頃を彷彿させて条件反射で姿勢を正す。
「課業外にすみません」
「もう一人生徒が増えたな」
アレックスはこちらを一瞥して教本を開いた。
「ほら見ろ。嬉しそうだろ?」
「気のせいだよ」
と、言いつつもカーリンもにやけた顔を教本で隠す。
今の件で甘々モード解禁と思いきや、師弟コンビは真剣な表情で私語すらない。静寂のなか、セドリックのペンと教本をめくる音だけが響き渡る。
カーリンはというと、あくびを噛み殺して教本を眺めていた。
セドリックが質問してアレックスが答える。言葉少なめだが、聡明な部下はすぐに理解して自分のものにする。正解を導き出したセドリックに、笑顔で応える恋人が少しだけ妬けた。
二時間の勉強会が終わり、セドリックが自習室を出るとカーリンは張りつめた息を一気に吐く。
「やっぱり二人ともすごいな。隣にいても全然分からなかった」
アレックスは苦笑いのカーリンを抱き締めた。この温もりに包まれると心から癒される。
「来てくれてありがとう」
「少佐が来いって言ったから」
「アレックス、だ」
ファーストネームで呼んで間もないカーリンは未だに照れまくりだ。体が燃えるように熱い。
「アレックスはずるいよ。わたしには厳しいのにセドリックには甘くてさ」
「そうか?」
「そうだよ」
拗ねた声色とは反対に、背中に回した腕にそっと力をこめると彼の厚い胸に顔を埋めた。トクントクンとリズム良く命を刻む音が心地良い。
アレックスは、絹糸のような美しい金髪を撫でた。
「自重しないと、カーリンを甘やかしそうだからな」
「今なら甘やかしていいんだよ?」
「では遠慮なく」
わずかに体を離して二人見つめ合う。そして、近づく唇と唇。
ガラガラッ!!
突然ドアが開く音に二人が顔を向けると、そこには息の荒いセドリックがいた。
「そこまで!! こんな所でなにやってんだ!?」
恐らく帰ったはいいが残った二人が気になり、ドアの向こう側で様子を窺っていたのだろう。真っ赤な顔で指を差すセドリックに、アレックスは呆れた視線を投げる。
― お前こそ、なにやってんだ!?
それから勉強会が続いたある日、カーリンに異変が起きた。
「リヒター伍長。『機密区分』ってなんですか?」
教官室に課業日誌を持ってきた女子の訓練生が、カーリンに訊いたのが始まりだった。彼女に悪意はなく、歳の近く聞きやすい同性がたまたまカーリンだったのだ。
静かな部屋にその声は意外と大きく響いたので、アレックスの耳にも届いている。隣りにいたセドリックはこの状況に焦った。
― おいおい、よりによってカーリンに訊くなよ!!
決して彼女を馬鹿にしているわけではないが、答えられなければ恋人の主任補佐も恥をかくことになり兼ねない。
「えっと……」
カーリンは、目を閉じると人差し指の額に当てて記憶の引き出しを探した。教官室が緊張に包まれる。
「機密は大きく三つに区分される。第一種は本部長以上の許可が必要とする。第二種は佐官以上の……」
なんと、彼女の口からスラスラと文章が流れ出した。しかも一字一句間違いなく。これには一同、唖然とする。現にセドリックは埴輪状態だ。
しんとした妙な空気が漂い、カーリンは困惑した。
「あれ? 間違ってたかな?」
カーリンから向けられたすがる目に、アレックスは軽く頷く。
「正解だ、リヒター伍長」
「本当ですか!? よかった」と安堵の声を漏らした。女子はぺこりと頭を下げて帰っていく。
「すげー!! まさかカーリンが答えられるとは思わなかった!!」
驚きのあまり本音をぽろりとこぼしたセドリックに、カーリンは顔を顰めた。
「褒められるのかけなされているのか分からないな」
「いやー、大したもんだよ。いつ勉強したんだ?」
「そりゃ、毎日隣で聞いていればいやでも覚えるよ」
「他には?」
セドリックは興奮して矢継ぎ早に問題を出すと、これまたカーリンが明快に答えていく。その様子にアレックスも「驚いたな」とぼそりと呟くほどだ。
「カーリンも試験受けてみろよ。実技はいいんだから、俺と一緒にやろうぜ」
「えー!! それはいくらなんでも無茶だよ」
最初は取り合わなかったカーリンも、あまりにも熱心にセドリックが説得するものだから段々その気になってきた。しまいには「やってみようかなあ」なんて眠っていた努力の芽が頭をもたげる。
士官になれば少しでもアレックスに近づける、彼の自慢できる恋人になれる。だから、カーリンはいつになくやる気だった。
目標を見つけたカーリンは、水を得た魚のように教本にかじつく。その勢いは凄まじく、アレックスですら声を掛けるのも躊躇うほどだ。お陰で甘い時間を共有できないのは残念だが、生き生きとした彼女を眺めるの悪くない。
アレックスが席を外して戻ってくると、机にうつ伏せで寝ているカーリンがいた。
「起こそうと思ったんですが、気持ちよさそうに眠っているんでつい。あとはお願いします」
そう言って、セドリックはそっと自習室を出た。カーリンを覗きこむと、確かに幸せそうな顔だ。
「カーリン、起きろ。風邪を引くぞ」
「アレックス、大好き……むにゃむにゃ……」
罪のない寝言にさすがの彼も頬に赤みが差す。隣に座って金色の髪を愛おしく撫でると
「自慢のカノジョになるから……、もう少し待っててね……」
― 俺のために頑張っていたのか。
この一言でアレックスの胸が熱くなった。
いつも彼女は全力投球だ。訓練生の頃も恋愛も。まっすぐで純粋な気持ちに応えてやりたい。叶えてやれるなら、どんなことでもやる覚悟もある。だが、今の自分にできることはこうしてそばで見守るだけだった。
全力で駆け抜けたセドリックとカーリンは、いよいよ試験本番を迎えた。午前中は学科、午後から実技の日程だ。
整列した机に受験者がそれぞれ席に着く。緊張を紛らわそうと辺りを見渡したカーリンだったが、皆賢く見えて逆効果になった。
― うう……、自信なくなってきた……。
肩を突かれて首を巡らすと、セドリックが親指を立てて励ましてくれた。
― そうだ、アレックスとセドリックで頑張ってきたんだ。わたしは大丈夫!!
学校時代の卒業試験を思い出して、自分を奮い立たせると配られた答案用紙にペンを走らせる。
いよいよ結果発表の日、主任のフレッド中佐がセドリックとカーリンを呼び出した。別室に移動する二人を目の端で追っていたアレックスは大きなため息をついた。
やがて、セドリックが小さくガッツポーズをして部屋から出てきた。
「ミュラー教官、お陰様で合格しました!!」
「おめでとう。これからも精進しろ」
「はい!!」
体全体で喜ぶセドリックだが、カーリンが現れると気まずい空気が流れる。
「カーリン……」
「おめでとう。わたしはまだまだだな」
不合格だったカーリンが小さく笑う。
「結構、頑張ってたのにな」
「こればかりはしょうがないよ」
一夜漬けの努力が通用するとは思っていなかったが、心のどこかで淡い期待があった。何よりも全力で指導してくれたアレックスに申し訳ない。
― ごめんね……。
ちらっと恋人に目をやると、何か言いたげな顔でこちらを見る彼がいた。
その夜、カーリンが教官室を覗くと一人だけ残っている者がいた。膝に置いたファイルに視線を落として、ため息とともに天を仰ぐ。
「まだ残ってたんだ?」
振り向くアレックスは神妙な面持ちだった。
「試験のことなんだけど」と切り出すと、アレックスの顔が歪んだ。
「カーリンに話がある」
「わたし? なに?」
アレックスが隣の席から椅子を持ち出して座るよう促す。それだけ込み入った話なのだろう。なかなか口を開かない彼に不安が募る。
― まさか、わたしの馬鹿さ加減に呆れて別れるなんて言わないよね……?
そこまで心が狭い恋人とは思いたくないが、この状況ではあり得るかもしれない。
「昇任試験の結果なんだが、実技は文句なしに合格で学科もラインすれすれだった」
思わぬ報告にカーリンの顔が輝いた。
「ほんと!?」
「ただ……」とアレックスの言葉が続く。
「同レベルの受験者がいた場合、訓練生だった頃の成績が決め手になる」
つまり、軍人学校時代の学科が壊滅的に悪かったカーリンが真っ先に落とされたのだ。
「そっか。なら仕方ないな」
「俺はお前の元教官だった。当時の成績に手心を加えれば合格できたかも知れん」
カーリンは目の前の上官を凝視した。鈍感な彼女でも何が言いたいのか理解できたからだ。
「……つまり、ズルするってこと?」
誰よりも不正を嫌うアレックス・ミュラーの台詞とは信じられない。だが、苦悩に満ちたグレーの瞳を見た瞬間、カーリンの胸が締めつけられた。
カーリンの頑張りはそばにいたアレックスが一番知っている。広がる可能性を踏みにじるのも彼で羽ばたかせるのも彼だ。データを改ざんしようとすればできる立場にいるアレックスは、何度もパソコンのキーボードに指を伸ばし掛けて躊躇う。
たかが数字だ。試験の結果が良かったのだから過去を変えても問題はない。以前の彼なら見向きもしなかった悪魔の囁きに理性が奪われる。
しかし、アレックスは最後までそうしなかった。カーリンの笑顔で踏みとどまった。
過去があるから今の自分がいる。訓練生のカーリンと出会ったから今の幸せがある。不正で得た肩書になんの意味があるというのか。
「軽蔑したか?」
重く苦しい声色に、カーリンは首を横に振る。
「でも、アレックスはしなかった」
「しようと思ったのは事実だ」
「でも、しなかった」
カーリンは繰り返し言うと微笑んだ。その笑みは、彼の淀んだ闇を一掃して胸の奥まで光をもたらす。
「わたしのために随分苦しんだよね? ごめん」
「どうしてカーリンが謝る?」
「だって、学校でちゃんと勉強していれば問題なかったんだろ? 今回だってやればできたのに、あの頃のわたしは努力すらしなかった」
講義も居眠りせずに真面目に聞いていれば、最低限の努力をしていればこんなに恋人を悩ますこともなかった。
全ては自分が招いた因果応報。
「カーリンは偉いな」
意外な台詞に、カーリンは目を白黒させる。
「なんで? アレックスの方が偉いよ?」
「自分の非を素直に認める勇気がある」
― それはね、アレックスと一緒だからだよ。
彼に出会わなければ、一生この勇気に気付かなかったかもしれない。
「わたしはね、本当はずるい人間なんだ。嫌われたくないから、薄っぺらな見栄で自分を良く見せようとする」
カーリンは小さく笑って俯いた。
― 嫌な自分を曝け出す。カーリン、だからお前を愛したんだ。
金色の髪に手を差し入れて引き寄せると、彼女の唇に自分のそれを重ねた。最初は驚いた様子だったが、目を閉じて受け入れる。
長いキスをして、やがてお互いの唇が離れた。
「ここでするのは初めてだな」
「アレックスって時々大胆だよね」
「恋人同士なんだから構わんさ。なんならやめてもいいが?」
意地悪い笑みのアレックスに、カーリンが頬を膨らます。
「……いやだ」
アレックスは笑いを堪えて、真っ赤で熱いカーリンの額にキスをすると立ち上がった。
「今日はここまでだ」
「えーっ!! そっちからその気にさせといてズルいよ!!」
「帰るぞ」
「ちょっと待って!!」
カーリンも立ち上がると、アレックスを後ろから抱き締めた。ずっと追い続けてきたその広く逞しい背中を……。
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