(7)
『わしは、おぬしが気の毒でならん
だが、おぬしが動き始めぬ限りはなにも始まらんぞ
急いで扉を探すのじゃ!』
俊太は夢と現実の狭間にいた。
あの時の痛み――そういえば、ああいった痛みを夢の中で感じたことがあったな。
そうだ、勇人と思しき人物に後頭部を鈍器で殴られたんだった。
でも、少し違う。何かが違う。
今回感じたのは頭の中で起きているような痛みだ。殴られた時は頭の表面が痛いはずである。
そして、あの時と大きく違う点――それは、気を失う直前の頭痛に襲われたときに誰なのか想像もつかない老人の声が聞こえたということである。
しかも、外から耳に吸い込まれていくというのではなく頭の中から聞こえてきて、内耳から外に抜けていくといった奇妙な現象が起きていたように感じた。
そして、老人が言い放った言葉の意味がなによりも不可解だった。
友達を不本意な形で失い気の毒なのは当然だが、〝扉〟とはいったい何のことだろうか。あの声の主はいったい誰なのだろうか。
夢から現実までの階段を上り終えた俊太は、ゆっくりと目を開けた。
見知らぬ灰色の天井が目に入り、その飾りであるかのように母と妹の顔も見えた。俊太の目が開くやいなや、二人は目を瞠ってホッと息を漏らした。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
妹が涙ぐんだ声をなげかけた。
「うん、平気だ」
「よかった」
妹はニンマリと微笑んだ。
「で、ここは病院だよな?」
「そうよ、あなた急に頭押さえて倒れたから、脳梗塞かなんか起こしたのかと思ってすぐに救急車呼んだのよ」
母が心配そうな口調で言った。恐らく妹と同じく涙を流したのだろうか、目元が腫れていて、鼻も少し赤らんでいた。今日にいたってようやく、素晴らしい家族に囲まれてきたんだなと俊太は初めて感じた。
「脳梗塞じゃなくて、ただの疲労からくる頭痛、眩暈だから安心してって先生が言ってたわ」
母は胸に手をあてて、椅子にへたり込んだ。
「明日にでも退院できるんだってさ。よかったね兄ちゃん」
六歳離れた妹が、コンパスで描いたかのような目を俊太に向ける。
絅絅と輝く妹の目を間近で見た俊太の腕に鳥肌が立った。今頃になって気付いたが、瑠花の目とそっくりだったのである。
俊太は動揺を隠し平静を装いながら、曖昧に相槌を打った。
長い付き合いからか、兄の怪しげな様子を感じ取った妹は怪訝な顔をした。
「どうしたの? やっぱりまだ気分悪いの?」
嫌な汗が俊太の額に流れた。
「い、いや。そんなことはないよ」
「仕方ないわよ。友達が二人もいなくなったら、誰だって精神的に参るわよ」
母は腰を上げて、妹の肩をぽんと叩いた。
「さ、そろそろ行きましょ。俊太も早く寝なさいよ」
「うん! じゃあお兄ちゃんまた明日」
と、母の真似をするかのように俊太の肩を叩き元気溌溂に返事した。
ドアが開け閉めされる音を耳にした俊太は少し、寂寥感に苛まれた。あれほど家族の一員から気遣いを受けれる人がいるだろうか。いや、なかなかいないだろう。もしも、そんな家族が勇人や達也みたく、いなくなってしまったら孤独に耐えられるだろうか。
俊太は戦慄いた。ぜったいに不可能だ。
しかし、大切な家族は本当にいなくなってしまったわけではない。明日からまた会えるのだ。
胸を躍らせながらも睡魔がやってきたので、そのまま身を任せて夢の世界へと連れて行ってもらった。
「警察が家に来たのか! で、どうだった?」
飲み干した炭酸飲料のアルミ缶を公園前のゴミ箱に捨てて、竜助は目を剝いた。
「どうって何がだよ? 主語をちゃんと言え」
「だから、どんなこと訊かれたんだ?」
「そりゃあ、事件に巻き込まれるようなことについて何か心当たりはねえかとかだよ。だいたい分かるだろ」
苦笑混じりに俊太は答えた。
普段クールな性格をしている竜助が、これほど高揚した様子を見せることは滅多になかったので、俊太は珍しいものを見るような顔を作った。だが、警察が家に来たくらいで興奮している場合ではない。そのことに気づいていないのかと思うと、俊太は徐々に苛々してきた。
「ていうか、そういう話はぶっちゃけどうでも良いんじゃないのか。今日、お前とこうして会ったのは、あの二人になにか不審なことがあったかどうか訊くためなんだよ。俺が逆に質問されるのは甚だ心外だ」
俊太の剣幕に圧された竜助は思わず目を逸らす。
「ま、まあそんなに焦らなくても……」
ぎこちない笑みを浮かべて再び俊太のほうに顔をむけた竜助だったが、俊太は相変わらず仏頂面で黙りこくっていた。激しく吃りながら竜助はペラペラと話し出す。
「ちょ、ちょっと待てよ。あの二人とは俺よりもお前のほうが仲良いじゃんか。お、お前のほうがあの二人のこと良く知ってるだろ?」
俊太は鼻で深呼吸し、そのまま俯いた。
「まあ、たしかにそうだよな」ひどく落胆のこもった口調で口を開く。「俺が一番じっくり考えるべきだ」
「ああそのとおりだ。なにか思い当たることはないのか? たとえば二人が誰かと喧嘩してたとかさ……」
俊太は顎に手をやり、深く考えるようなそぶりをみせた。すると、次第に目頭が熱くなっていくのを感じた。すっと右の頬を一筋の涙が伝うと、涙声で俊太は答えた。
「さあ、なにもねえな。ホントになにもねえよ」
涙を流した俊太をみて竜助は猛烈な勢いで全身が熱くなり、脂汗を背中に滲ませた。
「お、おいおい。なに泣いてんだよ? 俺だって必死で堪えてたんだぜ。ふざけんなよ!」
なるほど、竜助のさっきまでの飄然とした態度は悲痛な気分を紛らわせるためだったのかと俊太は合点した。
「ごめん」
俊太は服の袖で涙を拭い、鼻をすすった。
「ところでさ、お前まさか二人を探したりはしてないよな?」
「えっ、なんで?」
竜助の意外な質問に俊太は逆に訊き返した。
「なんでってお前――」
一呼吸おいた竜助は呆れた表情で言った。
「危ねえからにきまってんだろ。いいか、せっかく警察っていうプロの集団がいるんだ。その警察を利用しないでどうする。捜索はあの人らに任せてたら良いんだよ」
理にかなった主張だと感じたのか、竜助の顔をを繁々と見つめた後、俊太は頭を垂れて閉口してしまった。狼狽する俊太にお構いなく竜助は続ける。
「もしお前も攫われることになったら本末転倒だぞ。だから俺たちは警察の言いなりになってればいいんだよ」
二人のもとに沈黙が訪れる。数匹のカラスの頓狂な鳴き声が真っ赤な夕空に響きわたった。蚊の鳴くような声で最初に口を開いたのは、俊太だった。
「俺、探すよ。絶対に見つけ出すからさ。だから心配すんな」
予想外の台詞に竜助は唖然とした。語調を荒げ言い放つ。
「お前、頭おかしいのか。なんでそんな自信たっぷりなんだよ。命に関わるかもしれないんだぞ!」
俊太は再び口を真一文字に結び、黙ってしまった。その俊太の様子を見た竜助は無言で眉間に皺を寄せる。
「俺はな、お前の身の危険を危惧して提案してやってるんだ。なにもせず、警察が勇人と達也を取り返すまで待つ――。たったそれだけのことだ。なにも難しくないだろ」
「警察はなんだかんだで信用できない」
がっくりと肩を落とした竜助はため息混じりに言った。
「もう呆れてものも言えねえよ」
そして、踵を返してその場を立ち去った。
その時の竜助の後ろ姿はひどく切なく、何かしらの虚無感に包まれているかのように俊太には見えた。