(4)
「ジンベエ鮫って意外と可愛いね」
「そうかぁ? でかすぎて怖いよ」
ジンベエ鮫など、なかなか見れるものではない。
たしかに水族館はたくさんあるが、ジンベエ鮫のいる水族館はかなり限られている。それを確かめもせずに、最寄りの水族館にジンベエ鮫がいると根拠なく確信をしていた俊太だったが、幸運にもジンベエ鮫はいたのだ。
「性格も穏やかだし、動きも緩慢。とてもじゃないけど、鮫とは思えない」
「鮫って獰猛なイメージあるもんね。人食い鮫とかも実際にいるし……」
「うん。あと、あの背中の模様も星空みたいで綺麗だね」
瑠花は目を輝かせて言った。
たしかに、あの背中の模様は特徴的でチャーミングポイントの一つである。
「ジンベエ鮫のジンベエっていう名前の由来はあの模様らしいんだ。甚兵衛っていう着物があって、その着物の模様がああいうのなんだってさ」
「へえ、そうなんだ。よく知ってるじゃん」
得意げに雄弁な口調で話す俊太を瑠花はまじまじと見つめた。その丸い目がより一層丸みを帯びている。
「まあ、偶然かな」
俊太はどや顔で答えた。そして、思わず笑みがこぼれる。
自分に対する瑠花の評価をまた一段階上げれたように感じたからである。
だが実は、珍しい海洋生物を紹介するテレビ番組を偶々、前日に観ていた。さらに、瑠花がそのテレビ番組を偶々観ていなかったことも幸運なことである。
俊太は、『偶々』に心の中で感謝の意を述べた。
その後もクリオネといった珍しい生物を中心に見て回り、充実した一日となったが、水族館を出ると突然、瑠花が愚痴りだした。
「クリオネが貝の仲間だなんて、ホントに信じられないわ。あれのどこが貝よ!」
「なにをそんなにムキになってるんだ? 貝だろうが何だろうが構わないじゃないか」
「嫌よ、絶対に嫌! だってメチャクチャ可愛いんだもん」
目を三角にして語気を荒げる瑠花に俊太は半ば狼狽えていた。無論、なぜ腹を立てているのか皆目見当もつかなかったので、声を震わせて訊いた。
「だ、だからなんで嫌なんだよ?」
「だって、貝が大っ嫌いだもん。食中毒になって三日間、死ぬんじゃないかと思うほどお腹痛くなったのよ。それ以来、貝恐怖症なのよ」
俊太は開いた口が暫く塞がらなかった。正直、理解不能だった。
「ち、ちょっと待てよ。別にクリオネを食べるわけじゃないんだから良いじゃないか。だいたい――」
「あぁ、もういいわよ。貝だからって何でもかんでも嫌うなって言いたいんでしょ。それぐらい分かってる」
「わ、分かってるなら良いけど……」
可愛いから貝じゃないというのは、支離滅裂な理論だ。しかし、俊太はそういう支離滅裂な考え方をするのもまた、瑠花の魅力だと感じていた。
「でもホントに可愛かったなあ。流氷の天使なんて呼ばれてるって水槽の前の紹介文に書いてたけど、まさにピッタリだよ」
「うん、そうね。貝じゃなかったら完璧だったのになあ」
「まだ言うか」
俊太は苦笑いを浮かべた。
「だって、ホントに嫌いなんだもん」
瑠花は小さく舌を出す。
まるで、クリオネの翼足のような舌だった。
「なんか、腹減ったな」
俊太が頓狂な声をあげた。
「私も」
と、瑠花が同意する。
時刻は夜の六時半を回っていたが、それほど暗くなかった。道路を走る自動車もヘッドライトをつけていない。
水族館が最寄りとはいえ、互いに自宅から30分ちょっとの距離だったので、レストランに寄って帰ることにした。
「この辺って美味しい店あったっけ?」
すると、瑠花は深く考え込むような顔をした。
「うーん、居酒屋ばっかりのような気がする。あとは、私たちの手には負えないような超高級レストランならあるかな」
二人は歩きながら、うーんと蜂の羽音のような音を口から発しながら、どうしようかと悩んでいた。そして、沈黙が二人を包み込む。
「まあ、居酒屋でいっか」
「うん」
「『マイド』っていう居酒屋あったよな?」
「ああ、チェーン店の……」
「そこで良い?」
すんなりと「うん」という返事を俊太は期待していたが、瑠花が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あそこ、安いけど料理があんまり美味しくないの。まあ、だから安いんだけどね」
「行きたくないってこと?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど――」
煌々と輝いた街で犇めく雑踏に揉まれながら二人は悩んでいた。
俊太は安ければ味はどうでも良かったが、瑠花はそうでもないらしい。僅かに不穏になった雰囲気を俊太は感じたのか、鬱然とした顔つきになった。
しかし、その後の瑠花の言葉に俊太は唖然とした。
「貝で食中毒になったの、その店なの」
刹那、俊太の怒りの火山が噴火した。怒りの対象を燃やし尽くそうとマグマが噴き出る。
だが、マグマの餌食となったのは瑠花ではない。
燃やし尽くされたのは貝だった。いや、というよりも無理やり貝にした。
「じゃあ――」
と、言葉を続けようとしたとき、喧騒に混じって聞き覚えのある声が聞こえてきた。しかも、俊太の名前を呼んでいるようだ。
二人して後ろを振り向くと、たしかに見知った人物が二人のほうを見ながら早足で歩いて近づいてきていた。
サラサラとした前髪が眉毛を覆い、猫のように円らな目をしている。目立ちたいわけではないだろうが蛍光色の服を身にまとっていた。
俊太とは知り合いだが、瑠花にとっては全く面識のない人物である。
「間違いない、達也だ」
俊太は顔をしかめた。
「めんどくさいことになりそうだな」
瑠花は目を細めた。蛍光色の服を来ている人を見て気分を害したのか、単に誰であるか怪訝に思ったから目を細めたのかどっちなのかは俊太には分からなかった。
「え、なに、知ってる人?」
「もちろん。サークルが一緒なんだ」
と、頷いた。
「もしかしてデートか? 羨ましいぃ」
達也は素っ頓狂な声をだした。
瑠花のほうに目をやると恥ずかしくなったのか頬を紅潮させていた。
同時に俊太も顔を紅潮させた。だが、恥ずかしさのためではない。怒りがこみあげたからである。
「ほら、めんどくさいことになった」
そして俊太は、全力で達也を睨めつけた。