(3)
サークル活動が終わり、俊太は駆け足である場所にむかった。
鮮やかな青色のカンバスに綿飴がぺたぺたと貼り付けられたような空が、知らぬ間に神秘的な朱色に染められていた。雲も同様に染められていたので、もしあの雲が本当に綿飴だとしたらミカン味なんだろうなと、俊太は走りながらとりとめもないことを考えていた。
そういえば、あの時もこんな空だったなと思い出しもした。半年前のことである――。
「あれ、もしかして英書講読の授業にでてました?」
背後からの澄み切った綺麗な声に反応した俊太は、後ろを振り向いた。刹那、体中を稲妻が走る。
「たしか、今宮瑠花さん……」
すると、瑠花は小さな笑窪を伴って笑った。
「はい、やっぱりそうですよね。というか、私のことを覚えててくれてたんですね。ありがたいです」
「いえいえ。出欠確認のために先生が名前を呼んだ時に、かわいらしい名前だったから偶々、覚えていたんですよ」
俊太は赤面した顔を下に向け、手をひらひらさせた。
英書講読の授業は4つにクラス分けされ、1クラスにつき約30人という小集団式の授業であった。俊太のクラスはBクラスで、瑠花も同じクラスだったのだ。
電子辞書を貸してほしいと、少し申し訳なさそうな表情をしながら、俊太に話しかけてきて始まったのが最初の会話だった。
そして、授業終わりに電子辞書を返してくれた時に見せた彼女の笑顔に、俊太は不覚にも惚れてしまったのである。
再び、あの時の笑顔を間近で見れるとは夢にも思わなかった俊太は明らかに狼狽した口調となった。
「の、乗る電車同じだったんですね」
急ブレーキがかかったため、バランスを崩さないように吊革を持った瑠花は、乱れた前髪を整えて言った。
「ええ、私も驚いてます。家も近いかもしれませんね」
残念ながら、電車で30分の距離ということだったのでそれほど近くはないということが、その後の会話で分かった。そのせいか俊太は、少しブルーな気分になった。
憂鬱となってしまった気分を紛らわせるために、話題を変える。
「今日は綺麗な夕焼けですね。なんだか、幻想的で――」
車窓の外を覗いた瑠花の顔が瞬く間にミカン色に染まり、大きくて丸い瞳も同色に輝いていた。
「たしかに、美しい夕焼け空ですね」
瑠花に共感してもらえた俊太は、その些細な返答をうけることでさえ心が浄化されたように感じることができた。
「明日も晴れるんでしょうか」
瑠花は大きく頷き、自信ありげに答えた。
「ええ、きっと……」
その後も会話は弾み、俊太は思い切って瑠花の携帯電話のメールアドレスを訊くことにした。訊こうと思い立った瞬間、俊太の心臓は激しく踊り始め、いきなりメールアドレスを訊きだすなど厚かましいのではないかという不安感があった。しかし、瑠花は意外にも快諾してくれたのである。
ぽつりと心にあった蕾が瞬時に満開まで花開いたかのような感覚を俊太は覚えた。こんなにもうまく、ことが運ぶのかと不気味な感じもしたが、心臓の鼓動はより速くなるばかりで、嬉しさが不安感を完全に抹消してしまうほど激しく高揚していたのだった――。
俊太は走るのを止め、少し離れた人物に手を左右に振った。
すると、肩で息をしている俊太を見るやいなや、瑠花は嫣然と微笑む。
「ごめん、待った?」
緑色の地味な金属製の椅子に腰かけていた瑠花にむかって、俊太は手刀の形にした手を縦に何度か振った。
「そんなには待ってないかな」
「そう、良かった」
俊太は安堵の表情を浮かべたが、胸の内では芳しく思っていなかった。
待たせたことは当然良くないのだが、実は瑠花が嘘を吐いていると気付いたのである。
つい最近発見したことだが、瑠花は嘘を吐くときは必ずといっていいほど、右目の泣き黒子を触るのだ。
つまり、長いこと待たせてしまったに違いなかったし、余計な気遣いも同時にかけさせてしまったのである。
ここで雰囲気を乱すのは無論、癪だったので敢えて嘘に気付いてはいないふりをした。
「ところで、瑠花ってホラー映画とか見れる?」
瑠花は蜂の羽音のような声を発し、顔をしかめる。
「うーん、あんまり好きじゃないわね。だって、グロテスクで気持ち悪いもん」
瑠花の言葉はあまりにも単刀直入で、ホラー好きの俊太の心にその言葉はナイフとなって突き刺さった。しかし、本当の恐怖はそれからだった。矢継ぎ早に瑠花の口からナイフが飛び出してきたのである。ホラー映画以上の恐怖だった。
「だいたい、幽霊とか非科学的で、しかも恐怖心を煽るだけのくだらないものには飽き飽きしてるの。もし幽霊なんていたら、いま私たちがいるこの辺にだってウジャウジャいるじゃない。だって、戦争とか自然災害で何人も死んでるのよ。つまりは幽霊なんていないってこと!」
清楚なイメージとはかけ離れ、語気を荒げた瑠花に俊太は圧倒されてしまった。しかし、幽霊という言葉に対して異常なまでにナーバスになっている瑠花が俊太には可愛らしくみえた。
たかが、映画である。なにも、実際に心霊スポットだとかそういった類の場所に行こうとも言っていないのに、とり乱しているのだ。
今日にいたって、瑠花が極度の幽霊恐怖症であることに俊太は気付いたのであった。
「分かったよ。じゃあそうだな、……水族館は好き?」
すると、瑠花は急に満面の笑みを浮かべた。目を吊り上げていたさっきまでの瑠花とはまるで別人だった。
「うん、魚は大好き。わたし、前からジンベエ鮫見てみたかったの」
「ジンベエ鮫? ああ、あの大きいやつね。いいよ、じゃあ水族館でも行こうか」
「賛成!」
瑠花は元気な声で相槌を打った。
「分かった。じゃあ、また今度連絡するよ」
その後も、テレビによく出ているタレントの話などで会話は盛り上がり、気付けばあっという間に別れの挨拶を交わす時がきていた。
ちゃんとしたデートの約束は、意外にも初めてだった。恐らく次の日曜日に初デートがついに出来るだろう。
それまで、待てるだろうか。絶対にその日がくるまで、長く感じるのだろう。
ふと、俊太は空を見上げた。ミカン色の綿飴が悠然と空を泳いでいる。
心配ないさと小さく囁いているかのように俊太にはみえた。