(4)
「自分の人生に真っ向から立ち向かおうとする気持ち――」
猛は小さな声で鸚鵡返しをした。
「そうだ、そういう気持ちを持つことがどれほど重要かお前は分かっていない」
無自覚だった欠点を指摘され少し呆気にとられたが、無性に苛立ちがこみ上げてくるのを猛は感じた。同年代なのに、まるで先生に説教されているかのような口ぶりだったからだ。
「まあ、たしかにそれは重要なことだよ……その重要性については否定しない。でもな、自分の兄貴が事件起こしたのにそれを隠さずに生きていけるか? もしバレて非難されるようなことがあったら、信頼も名誉も矜持も何もかも失うことになるんだぞ」
すると、俊太は数秒ほど猛を見つめた。なにか醜いものでも見るかのような冷淡な眼差しだった。そして、重苦しく口を開く。
「自分を偽ることに何の意味があるんだ。仮面をかぶって何になるんだ。少なくとも俺は、仮面をかぶったまま人と接するほうが抵抗感があるな」
「そうだよな、お前には何も分からない。お前を取り巻く環境は平和で良いよな」
「でも、お前のせいで平和をぶち壊された」
俊太の冷静な態度に猛はとうとう耐えきれなくなった。凄まじい剣幕で俊太の胸倉を掴みにいく。俊太はバランスを崩し、仰向けに倒れた。
「いい加減にしろよ! 俺たち友達だろ。なんで助けてくれないんだ」
「また、俺を苦しめるのか? さっき謝ったばかりじゃないか」
「うるせえ、お前が俺をつき放そうとするからだろ」
「つき放す? 何のことだよ」
「俺は全部分かってるんだ。お前が俺にメールアドレス変えたの教えてくれなかったのもワザとなんだろ」
思わず俊太は瞠目した。猛は完全に誤解している。あれは本当に忘れていたのだ。
「違う、あれは俺のミスなんだ。一斉送信で送ろうとしてボタン押すのが面倒になってきて慌てたから――」
「嘘つけ、不自然なんだよ」
俊太はげんなりした。確かに不自然といえば不自然だ。だが、ここまで猛が錯乱状態になるとは想像もつかなかった。どうする、どうすると心の中であれこれ思案した。いっそのことワザと教えなかったことにするほうが楽なのかもしれない。諦めてその方法を取ろうとした時、突然ギンジが口を挟んだ。
「待て、猛よ。俊太は決して嘘は言っておらん」
怪訝な顔で猛はギンジのほうを向いた。
「耄碌ジジイは黙ってろ!」
暴言を吐かれてもギンジは冷静に説明した。
「まあ、落ち着け。もう俊太から聞いたとは思うが、ワシは人間の心を読むことができるんじゃよ。それで、俊太の心を読むと俊太が嘘をいっておらんことが分かるのじゃ」
「戯言はよせ、俺は信じないぞ。ちなみに俺はそんな能力がなくてもお前が嘘ついてることが分かるぜ。凄いだろ」
揶揄するかのような発言にギンジはムッとした。すると、俊太が突然「ん?」という声を微かに漏らす。その俊太の声を聞いたギンジは即座に、
「俊太、それ以上は何も言うな」
と、半ば叫ぶようにしてしわがれた声を発した。俊太はギンジの意図を察し、すぐに黙った。
「猛、ではその能力を今から見せよう。とりあえず、俊太を放してやってはくれんかのう。苦しそうな顔をずっとしておる」
猛は無言で俊太の胸倉を掴んでいた手をゆっくりと放した。
「今、俊太はあることに気付いたようじゃ。間違いないな、俊太」
俊太は首を縦に振る。
「お前さんが気付いたことは以前ワシが話したことと、さっきワシが話したことが食い違うということじゃな?」
「うん、そのとおり」
すると、猛はフンと鼻を鳴らした。
「嘘だ、くだらない二人芝居はよせ」
「往生際の悪い奴じゃのう。仮に最初から口裏を合わせていたとして、ワシと俊太は一体いつそれをしたのじゃ」
「今だよ」
「もしそうだとして、俊太が『ん?』という声を出したことがその合図ならば、完璧な以心伝心じゃ。それこそ、すごい能力じゃと思うがのう」
猛は言い返せず黙りこくってしまった。
「で、教えてくれよ。なんで食い違うのかを……」
俊太は訊いた。
「うむ。確かにワシは以前お前さんに、異世界では人の心を読むことはできないと言った。では、どうして今使うことが出来たのか――単純なことじゃよ、あれはハッタリだったのじゃ」
俊太は不思議そうな表情を浮かべる。
「ハッタリ? なんでそんなハッタリを言ったんだ」
ギンジは思案顔で顎ひげを触った。そして、答えた。
「うーむ、なんとなくじゃ」
予想外の返答に俊太は吹き出した。
「なんだそりゃ」
ギンジも高笑いした。その二人の様子を見た猛は呆れた顔になった。
「分かったよ……分かったから。嘘じゃないのは分かったよ。咄嗟にそんな嘘は思いつかないよな」
「分かればそれで良い。で、どうするんじゃ? お前さんは本当に俊太の言っていることに納得いっておらんのか。もし不遇な人生にどうしても耐えらないのなら、いっそのことこの世界にずっといたらどうだ? この世界ならなんでもありじゃぞ。ワシが生み出した世界じゃ。要望があればなんでも創造することができる」
猛は俯いた。その時間は長かった。ずーっと下を向いていた。俊太が何か言おうとすると、ギンジが手を伸ばして制した。そして、遂に猛が顔を上げた。目にはうっすらと涙が滲んでいる。
「そんなつまらない生活はお断りだ」
「そうか、じゃあ――」
と、言ってギンジは指をパチンと鳴らした。すると、巨大な扉がギンジの背後に現れた。その扉からは太陽のような光が溢れ出ている。
「この扉は現実世界へと通ずる扉じゃ。その扉の向こうに行けば、この世界ともワシとも永遠にお別れすることになる」
猛は扉をじっと見つめたまま、沈黙した。そして、大粒の涙が頬から落ちた。
「どうした? ワシと別れるのが惜しいか」
「俺の大切な友達を苦しめたお前とおさらば出来て嬉しいんだよ」
すると、俊太は猛のほうへゆっくりと足を進め、肩を少し押した。
「先行けよ。後で行くから」
猛は小さく頷き、扉の奥に消えていった。
猛がいなくなったのを確認した二人は同時に溜め息を吐いた。苦笑いを浮かべながら俊太は口を開いた。
「まさか、あそこまで猛が怒るとは予想できなかった。ギンジが咄嗟に機転を利かしてくれて助かったよ」
「まあ、お前さんの一瞬の勘違いもなければマズかったのう」
俊太はこの異世界でも能力が使えるとギンジが言ったことを束の間ではあるが、確かに不審に思った。だが、それは勘違いだとすぐに気付いた。
この異世界に入り込んだ時、確かにギンジは俊太が異世界にいるので能力は使えないと言った。しかし、その理由としては俊太がギンジの近くにいないということだった。ということは、異世界であろうがなんだろうが姿がはっきりと見えれば能力は使えるのだ。別に、異世界に〝おいて〟使えないわけではない。そのことを一瞬ではあるが俊太は勘違いしたのである。そこで、ギンジはこのことを利用して猛を納得させようと考えた。あたかも、異世界においては能力を使えないと言ったことがあるかのようなギンジの口ぶりによって俊太はギンジの作戦に気付き、見事に成功したというわけである。
「でも、まさか全部あんたが陰で糸引いてたとはな。青天の霹靂とはまさにこのことをいうんだろう」
「本当に迷惑かけたな。ワシでもこんなことになるとは予想外だったのじゃ」
俊太は人さし指を立てた。
「一つ訊いていいか? どうしてあんたはあの時この世界に入れないなんて嘘を吐く必要があったんだ? ほら、悪の神が結界を張ってるとかどうのこうのって言ってただろ」
「ああ、それはな猛の心を読むためじゃ。窮地に立たされた時、人間はどういうことを考えるのか、どういう行動をとるのかを知るためじゃよ」
「なら、他の人でも……いや、というか俺で十分だったんじゃねえのか。なんで、わざわざそこまでする必要があったんだ?」
「人間は十人十色と良くいうじゃないか。色々な人間の心というものを知りたかったのじゃよ」
「欲張りだな」
「ああ、欲張りじゃよ」
俊太は肩をすくめて微笑んだ。
「ワシは欲張りじゃから他にも色々と策を練った。例えば、お前さんがこの世界に来て無数の扉を見たじゃろ? あの扉の数をあんなにも多くしたのも意味がある。つまり、お前さんが諦めないかどうかを確かめたかったのじゃ。どんな心の動きをするのか確かめたかったのじゃよ。結果、お前さんは怯みはしたが諦めなかった。途方もない時間がかかるだろうと分かっていても諦めなかった」
「なるほどな」
「猛にも実は同じような試練を与えた。何もない草原での坂を何度も上り下りさせた。しかし、彼は諦めなかった。諦めるような心の動きはいっさい見せなかった」
刹那、俊太の心で何かが響いた。
「お前さんたちに共通する長所じゃな。絆というもので真価を発揮するいう、ワシにとっては興味深い発見だった。ちなみに、お前さんにはもう少し試練を用意していた」
俊太は怪訝な顔をした。
「ほれ、あの扉のうち〝創造の間〟に通ずるものがあったじゃろ? 〝記憶の間〟をいくつかまわった後、〝創造の間〟にも行かせようとしたんじゃがその前に猛に限界が訪れてしまった。それで、急きょ終わらせることにした」
猛やその兄とテニスのダブルスをする自分の記憶を見ている時、突然視界が真っ白になりなぜか気を失ってしまった。あの時に、猛はどうしようもなくなってしまったのだ。
「猛は本当に極限の極限まで頑張った。余程、自分のしたことを後悔したのじゃろう。せめてもの償いで身を粉にしたのじゃ。そして、なにより猛はお前さんのことをかなり親しく思っていた――異常なまでにな」
俊太は猛の顔を頭の中に浮かべた。やはりそうだったのか。
「ともあれ、お前さんたちには酷い迷惑をかけることになった。ほんとうに申し訳ない」
「もう良いよ。むしろ、あんたには感謝するべきかもしれない。猛を救えたのはこの事件がなければ不可能だったからな。猛は絶対に自分の人生に悲観的だったと思う。でも、猛は気付けたんだ。仮面を外しても友達でいてくれる人もいるんだってことを――。さっき、猛がこの世界を出ていく時に、俺のことを大切な友達って言ってくれただろ。それが確固たる証拠だよ」
「そうじゃな」ギンジは相槌を打った。
「アンタは猛を強くしてくれた。俺に猛を強くさせたんだ」
「ワシのやったことは間違ってはいなかった。むしろ、一石二鳥だったんじゃな」
「そういうこと」
すると、俊太は何かに気付いたように急に語気を荒げて訊いた。
「そうだ、失踪した人たちはどうしたんだ? 無事なんだろうな」
「ああ、勿論無事じゃよ。もうとっくに現実世界に戻っておる。とはいえ、異世界にいたときのことは綺麗さっぱり忘れておるがな」
俊太はホッと溜め息を漏らした。
「そうか、よかった」
その後、二人はしばらく黙りこみ場に沈黙が舞い降りる。最初に沈黙を破ったのは俊太だった。
「俺、そろそろ皆に会いてえな。ずうっと会ってなかったし」
「そりゃ寂しくなるじゃろ。皆、お前さんの大事な人ばかりじゃからのう」
「てことで、もう行くよ」
俊太は満面の笑みで別れを告げた。
「ああ、たっしゃでな」
「ありがとう」
そう言って、俊太は扉の奥に消えていった。扉の放つ光は干したての布団のように優しい温かみがあった。
「こちらこそ、良い勉強をさせてもらってありがとな」
ギンジは言った。もちろん俊太の頭の中で――。