現実世界(5)
嫌な思い出ほど記憶に残りやすい。そして、良い思い出は嫌な思い出によって自動的に上書き保存されるかのように抹消される。全員がそうとは限らないが、少なくとも猛はそのタイプの人間だった。なんとも皮肉な現象である。そのせいで、猛の記憶には常に嫌な思い出しか残っておらず、良い思い出をいくら作ろうと、いつの間にか消えてなくなっていた。猛にとって良い思い出は水の泡みたいに儚い存在だったのだ。
パソコンの操作に疲れた猛はベッドに寝転がり、目を閉じてあることを試した。沈んだ気分の時こそ、良い思い出とやらの出番だ。何か一つ良い思い出を頭に浮かべてリフレッシュしてみようと試みたのである。
「良い思い出かぁ」
独り言を呟きながら記憶の抽斗をガサゴソと探る。ところが、なかなか見つけることが出来ない。思い出したとしても途方もないありふれたものばかりで、格別に良かったと思えるものがどうしても思い出せない。結局、頭をフル回転させても納得のいく結果は得られなかった。
何気なしに悪い思い出を頭に浮かべようとした。すると、急激な闇の渦に呑みこまれたかのような気分に陥った。邪な悪魔たちが巣から出てくる蟻の大群のように記憶の抽斗から次々と現れたのだ。
俊太との喧嘩や交通事故に遭ったこと、学校の教師が三十分も授業を延長したことなど様々であった。
人間万事塞翁が馬などという言葉があるが、単なるハッタリじゃないかとつくづく思っていた。そう思わざるを得ない人生を送っていたのだ。
そもそも、こんなふうに自分の人生を悲観的に捉え始めたのは、いつからだろう。そんなことを思い悩んでいるうちに、猛は眠りについてしまった。
目を覚ました猛はあくびをしながら階段を降り、リビングへのドアを開けた。
「おはよ――」
と、快活な声を発すると同時に、ソファーに見知らぬ男が座っているような気がした。その人物が誰かはっきりと認識した猛は体の動きを一瞬止めて、無言でテーブルの椅子に腰かけた。その人物とは一切目を合わせず黙々と朝食を平らげていった。
食べ終わり食器を流し台に置いた猛は、リビングを出て行こうとドアノブに手をかけた。すると、背後から低めの声が響いた。
「……待て」
猛は足を止めて振り向いた。
「無言の再会は悲し過ぎる」
「何しに来たんだ? もうアンタとは縁を切るつもりだったのに――」
少し俯き加減で猛は言った。すると、長い沈黙の後にソファに座っていた人物が重苦しい口調で答えた。
「少し会話しよう……猛」
「兄貴と話すことなんか何もない。まあ、会うことすら絶対にないと思ってたよ」
「おい、いい加減にしろ!」
目を三角にして立ち上がった自分の兄の顔をチラリと見て、猛はリビングをあとにした。
勢いよく玄関の扉を開け、早足で駅に向かった。再び、俊太の家の周りを捜索することにしたのである。
「しかし、なんで兄貴が……」
猛は兄が自分の家にいることをどうしても受け入れられなかった。あの事件以来、もう兄を家族として認めることができなくなったのである。あの事件こそ猛にとって最も悪い思い出であり、悲劇だった。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。一刻も早く俊太の安否を確認したくてならなかった。〝赤い雷〟が俊太の家の近所にある廃墟と化した豪邸に落ち、豪邸は火事で焼け崩れた。その火事が起きるほんの少し前には、俊太と同じ年代ぐらいかと思われる怪しい人物が目撃されている。〝赤い雷〟など普通ならあり得ないが、俊太やその周りの人間の失踪など特異な超常現象が起きているのは間違いない。失踪が奇妙な色の雷が発生したことに関連があるとは思えない。しかし、それら一連の事件がほぼ同時期に発生しているのだから、〝赤い雷〟も一定の信憑性を持っていて、全て関係しているのではないかと考えるのが明らかに妥当だった。
奇怪な雷に打たれた豪邸は撤去作業が終えられていて、跡形もなくなっていた。建てられていた地面の部分が露出し、いかに土地が広大だったのか改めて思い知らされた。
俊太の家はやはり誰もいないようだ。二階の窓には白っぽくて生地の薄いカーテンがかかっているが、一切電気の光が見えない。玄関の傍にある植木鉢の花も全て枯れていた。インターホンを鳴らしてもやはり、誰も出なかった。
猛は少し天を仰ぎ、途方に暮れた。
手がかりを掴んでも利用できなければ意味がないことを痛感した。〝赤い雷〟について周辺の人に訊いても恐らく意味はないだろう。きっと怪訝な顔をされるだけに違いない。
もはや、なにをすれば良いのか皆目見当もつかなくなった。未知の領域に達しようとするということは、こういうことなのだ。
猛はもう逃げ出したかった。逃げ出すという判断を下すには早すぎるかもしれない。いや、どう考えても早すぎる。だが今の状況は、教科書を一切見ていないがために数学の応用問題を解けないという状況と同じである。
泣きそうな顔で踵を返し足を進めようとしたその時、どこからか声がした。
「なるほど、この時点で限界を悟るのか――」
「誰だ!」




