異世界(4)
「見てほら、なんたらかんとかだ!」興奮気味に瑠花が水槽で泳ぐ生き物を指差した。
「オニイトマキエイだよ」
「うん。ていうか今、宙返りしたよね!」
「この巨体でよくあんなアクロバティックな動きするなあ」
「一反木綿みたいな体してるのにね――」
苦笑混じりの口調で瑠花は言った。
「マンタをバカにしてるだろ? あんな鈍間な妖怪と一緒にしてもらっちゃあ困るな」
「べつにバカにしてるわけじゃないわ。あんなに大きいのに凄いなあって感心してるのよ」
「ならいいけど――」
自分と瑠花との会話を間近で聞いていた俊太はやはり、多少の恥ずかしさを感じずにはいられなかった。何とも他愛のない会話だからである。
瑠花と水族館を訪れたこの日はまだ記憶に新しかった。瑠花との初デートの日でもあったので、まだ鮮明な記憶として心に残っていた。
神秘的な雰囲気を醸し出すためか水族館の中は薄暗く、微かに青や赤の照明がつけられた場所もいくつかあった。まるで深海にでも潜ったかのような気分に浸れたのだ。そして、水族館のそういった様子を見て、真珠のごとき輝きを放っていた瑠花の目は最も印象的だった。目を閉じると、たまに脳裏で反芻されるほどだった。
「そろそろメインイベントだな」
すると、瑠花は訝しげな表情をした。
「メインイベント?」
「ジンベエ鮫だよ。瑠花が見たいって言ったんじゃないか」
「そういえばそうでした」
瑠花は惚けたように舌を出した。
それほど遠く離れた記憶ではないが、俊太は会話を聞いていて懐かしさから終始、顔を綻ばせていた。
一方で、どす黒い蟠りが不吉に体全体を取り巻いていたことも事実である。やはり、猛のことがどうしても気になっていたのだ。
大学の友人が一人残らず消えていき、悲しみに暮れる人のもとへ助け船を出そうという気持ちは理解できる。善意に溢れた真っ当な行動であるのは言うまでもなかった。
ところが、今回の事件には誰も踏みこんだことがないであろう未知の世界でしか起きないような現象が絡んでいるのであって、猛にとっては完全に先の見えない――いや、それどころか、恐らく猛には永遠に解決できない問題が含まれているのだ。猛の行動が全て無に帰することは明らかだった。
そのことを知らずに躍起になって、終わることのない階段を猛は昇っているのだと思うと、俊太は歯がゆくて仕方なかった。ギンジと同じ能力を手に入れ、猛の頭のなかで真実を伝えたかった。お前がやっていることは何もかも無駄なのだと――。
『人間というのはホントに面白いのう。魚なんぞ見て何が楽しいのじゃ?』
猛のことで深刻に頭を悩ましていた最中に、突然拍子抜けな質問をしてきたギンジに俊太は業を煮やした。
「ちょっと黙っててくれないか! そんなのどうだっていいだろ」
『何をそんなに苛立っておるのじゃ。友人に救われるのがそんなに嫌か?』
「そういうわけじゃねえよ。ただ……」
『ただ?』
「ああもう、めんどくさい!」
『なんじゃ、教えてくれぬのか?』
「なんでこういう時に限って心読めねえんだよ」
『さっきも言ったように――』
「もういいよ! とにかく、黙っといてくれ」
俊太は頬を紅潮させて叫び壁を拳で思いっきり殴ろうとしたが、拳はあえなく壁をすり抜けた。だが、俊太は少し安心した。もし、現実世界だったら弁償することになっていたからだ。さらには、器物損壊罪で警察行きとなっていたかもしれないのである。
その後、俊太と瑠花は夕食の時間を共に過ごすこととなった。そして、レストランに向かう道中で、青天の霹靂ともいえる事件が起きた。
「もしかしてデートか? 羨ましいぃ」
憎らしい口ぶりでそう言い、俊太と瑠花の前に姿を現したのはサークル仲間の達也だったのだ。俊太はあの時の達也の顔をまだ覚えていた。何とも醜い悪意に満ちた顔だった。その達也の顔も酷いものだが、達也を睨む嫌悪に汚染された自分の顔を見た俊太は思わず、眉を曇らせた。
何という顔を自分はしているのだ。負のオーラに包まれた自分の顔というのは、これほどまでに汚らしいのか。
たしかに、茶化してきた達也に非があるのは明らかだった。しかし、そこまで嫌な顔をするべきではないだろうと自分の行為に不快感を募らせるほど、大袈裟極まりなかったのだ。そんな顔で睨まれた時の達也の顔は、たしかに異常な狼狽を孕んでいた。当時は気にしなかったが、改めて見ると達也が気の毒で自分も悪いことをしてしまったなと痛感した。気付かずして他人を傷つけるとはまさに、こういうことを言うのだと俊太は身にしみて感じた。
『よほどお前さんはあの達也とかいう奴を憎んでたようだな』
「たしかに、あの時はそうだったよ」
『無理もない、交際中の相手との初めてのデートじゃったのだろ?』
「まあ、そうなんだけど……。ていうか、デートとか異性との交際とか、そういう概念はあるんだな」
『まあな』
「友達っていう概念はなさげなのに、妙な人だな」
『そりゃあ妙じゃろ。住んどる世界がまるっきり違うのじゃからな』
「ふーん」俊太は腑に落ちないような表情で相槌を打った。
「そうだ、ところで猛の様子は今どうだ?」
『うむ、どうやらお前さんと関わりのある場所を探しまわっとるようじゃな。大学やら家やら店やら――』
「そうか……まあ、そりゃそうだよな」
刹那、頭の中に稲妻が走った。
「そうだ、猛に会ってくれないか? よくよく考えてみたら、アンタが猛に伝えてくれたら良いじゃないのか。何をしても無駄だってことを――」
『たしかにそうじゃ。だがのう、ホントにそれで良いのか?』
俊太は首を傾げる。
「どういう意味だ?」
『猛はお前の身の危険を酷く案じて、必死に頑張っておるのだぞ。なのに、それが全て水の泡となってしまうことを知ったら、彼はどんな気持ちになる? 絶望して発狂するやもしれん。それでも構わんのか』
「お前こそ良いのかよ? 分かってて放っておくのか」
『ああ、放っておくとも。少なくとも、ワシがお前さんならそうする』
返す言葉を思いつかず、俊太は黙りこくってしまった。しばしの沈黙の後、ギンジが口を開いた。
『なあ、俊太よ』
「なんだよ」
『――友情とやらは美しいのう』
涙腺が緩みかけたが、俊太は奥歯をかみしめて堪えた。