異世界(3)
まわりを取り巻いていた暗闇がゆっくりと薄くなり、二つの人影が目に映る。俊太は目を凝らして、その二人が誰なのか確認しようとした。そして、自分自身と瑠花だということが分かった。
しかし、俊太はさっきまでいた世界と今いる世界の様子が全く違うことに気付いた。もちろん場所が違うということもある。だが、自分と瑠花の周りにある、ありとあらゆるものが霧がかかったようにぼやけていて、色ぐらいしか認識できなかったのだ。
普段から慣れ親しんだ場所であり、ガタンゴトンという独特の音がしていたので俊太は電車の中であるとすぐ気付けたが、もしも疎遠な場所だったら、どこなのか予想を立てるのは難しかっただろう。
ところで、なぜこんなにもぼやけているのだと俊太は怪訝に思った。異様な光景をずっと見ていると気分が悪くなりそうだと言わんばかりに、俊太は顔を歪める。
『なぜこんなにもぼやけた世界になってしまってるのか、気になっているのじゃろ?』
急に頭の中でギンジに話しかけられたからだろうか、俊太の肩が僅かに跳ねた。図星だったので俊太は大きく首を縦に振る。
「ああ、なんでだ? こんなのずっと見てたら頭が痛くなりそうだ」
『それは我慢するしかない。ところで、ぼやけてしまっているのは実はというとお前さんに責任があるといっても過言ではない。というよりも、お前さんのせいじゃ』
俊太はむっとした。全く身に覚えのない罪を自分が犯したかのように断言されたからである。
「どういう意味だよ。ちゃんと説明しろよ」
『何度も言うが、お前さんが今いる世界はお前さんの記憶をもとに生み出された世界じゃ。つまり、お前さんの記憶が忠実に再現されているのじゃよ』
「うん、それで?」
『察しが悪いのう。つまりじゃ、お前さんの記憶が曖昧ならば、それをもとにして生み出された世界も曖昧になるということだ』
合点がいったのか、俊太は頷いてから言った。
「なるほど、そういうことか」
曖昧である理由は、当時、瑠花にしか意識がなく、彼女以外のあらゆる万物は眼中になかったからである。俊太はそれついてはすぐに察しがついた。
しばらくすると、話し声が聞こえてきた。その瞬間、俊太は目を見開いた。今、目の前で見せられているのは、記念すべきあの日の出来事だったからだ。
「あれ、もしかして英書講読の授業にでてました?」
瑠花が今となっては決して使うことのない敬語で俊太に声をかけた。奇妙な感覚に陥った俊太だったが、しばらくは静かに二人の会話を見守っていることにした。
「たしか、今宮瑠花さん……」
能面のような顔で会話を聞いていたものの、瑠花を〝さん〟付けで呼ぶなど笑いでも取ろうとしているのかと俊太は思わず自分自身に対して吹き出してしまった。
「はい、やっぱりそうですよね。というか、わたしのこと覚えててくれたんですね。ありがたいです」
「いえいえ、出欠確認のために先生が名前を呼んだ時に、かわいらしい名前だったから偶々、覚えていたんですよ」
『人間というものはホントに面白いのう』
突然、ギンジが笑いながら喋り始めた。
『時間の経過とともに言葉遣いとか呼び名を変えて、最初は余所余所しかったのに次第に仲を深めていく。なにゆえ、あそこまで互いの関係に変化をもたらすことができるのかワシにはどうも理解できん』
ギンジが抱いた予想外の疑問に俊太は声を裏返した。
「はあ? 友達になるってそんなもんだろ。ごくごく当たり前のことだよ。俺にはアンタがそういう風な疑問を持つことが理解できねえな」
『そうか、人間とはそういうものなのか。実に愉快じゃな』
「知らなかったのか? 神に〝近い〟存在のくせに――」
『ああ、知らなかった。お前さんから答えを訊けて嬉しいよ』
「そりゃどうも。ところでよ、俺も一つ質問していいか?」
俊太は人差し指を立てて言った。
『もちろん、いいとも。答えられる範囲内ならなんでもオッケーじゃ』
「あのさ、アンタって今どこにいるんだ?」
『あれからずっと、お前さんの部屋にずっと籠りっぱなしじゃよ』
「じゃあさ、なんで今俺が見てた俺と瑠花との会話がアンタにも見えてるんだ? おかしくないか」
たしかに、俊太の言うとおりだった。心を読めればなんとか見れるかもしれないが、それは異世界にいるから不可能だとギンジは明言した。当然、近くにギンジがいるわけでもない。状況からして、俊太の今見ているものについては一切、分からないはずだった。しかし、ギンジはあたかも見ているかのような反応をしてみせたのだから、俊太が不審に思うのも無理はなかった。
『実はだな、お前さんの目を借りているのじゃよ』
俊太は呆れたように口元に微笑を浮かべた。
「目を借りるだと? そんなことも出来るのか」
『出来るとも。お前さんの目を介してお前さんの眼前にあるものを見とるのじゃ――容易いことじゃよ』
「そんな能力も持っているんだな」
俊太は苦笑した。
『そうじゃ、今ふと思い出したんじゃが……どうやら、お前さんが失踪したことに警察とやらが気付いたようじゃ』
「警察が?」
『うむ。あと、お前さんを追っている人物が警察の他にもいるようじゃ』
俊太は思案顔を宙に彷徨わせる。
「いったい誰だろ」
『猛という名のようだ。お前さんの旧友ではないのか?』
刹那、俊太は体全体が熱くなるのを感じた。
あれほど首を突っ込むなと釘を刺したではないか。なのに、どうしてなんだよ。
心の深淵より湧き出た焦燥と憤怒が高い壁のように積み上がっていく。その壁をまえにして、俊太はただただ惘然と立ち尽くすほかなかった。




