(2)
目覚めると、わずかに黒ずんだ天井が目に入った。
朝陽に照らされた腕を見てみると、キラキラしていることに気づく。
だが、俊太は綺麗だなとは思わなかった。
じめじめしていて、悪臭を放っているからである。脇にも同じような感覚があった。
寝巻をすべて脱ぎ捨て、下着一枚となった俊太は少し爽快な気分となった。しかし、汗にまみれた服を全て脱ぎ捨てたからという理由だけではない。
家の屋根と外壁の隙間から漏れる小鳥たちの囀りが耳に吸い込まれてきたのである。
窓を開けその隙間を見上げると、たくさんの枝で作られた鳥の巣があった。あれほど立派な巣を作るには、余程の労力と時間を要したのだろう。
それにしても、あんなにも多くの枝は一体どこから運んできているのだろうか。
素朴な疑問がふと俊太の脳裏に浮かんだ。
俊太は、居間のある二階へと階段を降りた。
テーブルには母の置手紙がいつものようにあった。
『ダビング中!
昼頃までDVDは観れません』
俊太の母は、ほぼ毎日のように録画したテレビ番組をDVDにダビングしている。
しかも、ダビングしたDVDは殆ど観ていない。ダビングするだけDVDの無駄遣いである。
母にその意図を何度訊いても、「なんとなく」と答えるだけだったので俊太は苛々していた。父や妹も母の理解不能な行動に困惑していた。
今日の授業は昼休憩が終わってからすぐだった。
3時限目が倫理学、4時限目に英文学史があって今日の授業は全て終了だった。
英文学史は受講していて楽しかった。
もともと歴史は好きで、読書も趣味のうちの一つである。文学の歴史を学ぶことにはかなり関心が高かった。
問題は倫理学である。
この授業は通称、睡魔の授業と呼ばれている。
その名の通り、途中で寝ずにはいられない授業なのだ。
通称というだけに、途中で寝ずにはいられないのは俊太だけではなかった。開始から30分も経つと、半数程の生徒は夢のなかである。
それでも、温厚な教諭は全く眉間に皺を寄せることもなく、機械的に口を動かしていた。恐らくそういったことも、生徒のもとへ睡魔を呼ぶきっかけになっているのかもしれない。
だが、今日は少しいつもと異なっていた。
俊太は講義に集中するどころか眠れもしなかったのである。
頭の中で、ずっとあの夢がグルグルと回っていたのだ。
勇人と揉め事を起こし、最後は何者かに鈍器か何かで後頭部を殴られて終わるという悲劇的な悪夢――。
俊太は頬杖をつき、瞑目した。
自分を殴ったのは勇人だろうか。
もちろん、あの状況において、そうでない理由など考え難い。
しかし……。
親友の冗談を鵜呑みにして、その上、殺人未遂――いや、もしかしたら死んでしまったかもしれない――まで引き起こすほど、ショックを受けるだろうか。
あり得ない。
信じたくない。
閉じていた瞼を開けた俊太は、ふと心の中で呟いた。
「所詮は夢だ。なのに、なぜ俺はここまで真剣に悩んでるんだろう」
自然と口元が綻んでいたのだろうか、そんな俊太の顔を偶然にも見た倫理学の教諭は、眼鏡をクイッと上げて怪訝な顔をしていた。
「なんだって?」
勇人は目を剝いた。
「だから、お前とケンカしたんだよ」
ケンカというと少し大袈裟かもしれないが、少し誇張した表現を使ったほうがインパクトは強いだろうと俊太は思った。
4時限目の英文学史の講義が終わり、俊太は一目散に大学から徒歩15分のテニスコートにむかった。勇人や竜助、達也など、既に多くの会員が汗を流しているようだ。勇人は苦笑いを浮かべる。
「おいおい、なんたって俺がお前とケンカなんかしなきゃならないんだよ?」
「それは、その……」
俊太は思わず俯いて閉口した。
よくよく熟考してみると、至極、他愛もない理由で起きたケンカだからである。
しかも、他愛もないことに小学生のように本気で怒りをみせたのは紛れもなく勇人であり、夢とはいえ事実を言うのは勇人に無礼極まりなかったのだ。
無礼を承知の上で話したとしても、笑い話にはならないだろう。
俊太は冷静沈着に勇人の心を読んだ。
そして、嘘を吐こうと決心した。
「学園祭での出しものについてだよ。予算についてちょっと揉め事みたいになっただけだ」
すると、勇人は少し懐疑的な表情になった。
脂汗が背中をすっと流れる。
平静を装ったつもりが、少し怪しまれるような顔になっていたのだろうか。俊太の心で激烈な焦燥感が渦巻いた。
しかし、勇人の口から発せられた言葉は俊太を安心させるものであった。
「たしかにそれはケンカになりやすい問題だよな。まあ、仕方ないな」
「まあ、そうだな」
さっき勇人が見せた顔は疑いの表情ではなく、深く考え込む時の厳しい表情だったのか。俊太は安堵感から相好を崩し、相槌を打った。
「ところで、最近どうなんだよ?」
「どうって、何が?」
俊太は、逆に質問した。
しかし、何を訊かれるか大体の予想はついていた。
それほど整っているとも言い難い顔を歪ませて、唐突に投げかけてくる質問といったら、もはやアレしかなかったのである。
「お前とお前のガールフレンドとの関係だよ。分かってるくせにぃ」
俊太の予想は見事に的中した。そして、いつも通りの返答をする。
「特に目立った進展なしだ」
勇人は眉をピクリと上げ、ワザとらしく目を丸くしてみせる。
「おう、そりゃ残念」
鼻を鳴らした俊太は元気溌溂な口調で声をあげた。
「じゃ、ラリーでもしようか」
「おう、そうだな」
同じく元気な声が返ってきた。