現実世界(3)
学校の授業が全て終わり、猛は再び俊太の家に向かっていた。アスファルトの地面に夕日が作りだした自分の影を見下ろしながら、猛は歩いていた。なぜか自分の影を見ることに夢中で交差点を赤信号で渡っていることに気付かず、車のクラクションでようやく正気付いた。
「ちゃんと前向いて歩け、バカやろう! 赤信号だろうが」
歳は四十代ぐらいで、タンクトップを着た強面の男が車の窓から顔を出して、大声で怒鳴った。
猛は軽く頭を下げ早足で交差点を渡りきると、心臓の鼓動がかなり速くなっていた。だが、怒られたことに狼狽しているのか、少し走ったから心臓がドキドキしているのか、どちらかどうかは分からなかった。
俊太の家が見えると同時に、猛はある異変を感じた。何やら赤い光がグルグルと回っているような気がしたのだ。もしやと思い、猛は小走りで足を動かした。すると、案の定、二台のパトカーが俊太の家の前に止まっていたのである。そして、猛の頭に稲妻が走った。瞬く間に稲妻は頭から足まで駆け抜ける。
俊太、なぜなんだよ。なぜ、こうなる前に俺を頼ってくれなかったんだ。こんなことになるなら、公園で会ったあの時、もっと必死になって説得すればよかった。
猛烈な悔恨が悪霊のような恐ろしい姿となって猛を襲い始める。
間違いない、俊太は何らかの犯罪に手を染めてしまったのだ。もしかしたら、放火かもしれない。そう思わざるを得なかった猛は、襲い来る悪霊になす術なく呑まれていった。その場にへたり込み、動けなくなった。すると、やけに聞き心地の良い見事なバリトンボイスが猛の耳に吸い込まれ、思わず垂れていた頭を持ち上げる。
「おい、君! どうしたんだ?」
顔を上げた猛の目の前には、立派な無精髭を口元に蓄えた、刑事と思しき人物が立っていた。そのすぐ隣にも誰かいたが、とても刑事には見えなかったので、聞き込みに協力している一般人だと勝手に猛は判断した。
「そうか、じゃあ君は俊太くんの友人なんだね」
「はい、そうです。あの、勿体ぶらないで早く教えてくれませんか。俊太は何かやらかしてしまったんですか?」
「まあ、落ち着きなさい」
猛は目を三角にした。
「落ち着いていられるわけないでしょ!」
猛は激しく腹を立てていた。
それほど有力な情報を持っているわけでもないのに重要参考人などという奇妙な扱いをうけ、半ば強引にパトカーに乗せられて警察署に行くこととなったからである。
そもそも、今、俊太について何か訊きたいのはむしろ猛のほうだったにも関わらず、矢継ぎ早に色々と質問されては堪ったものではなかった。しかも、猛からの質問は後回しにされる一方であった。猛が怒りに震えるのも無理はなかったのだ。
バリトンボイスの刑事は神妙な顔つきとなり、机上に置かれた麦茶に手をのばした。ズズズという音を立てて一口飲んでから、ようやく口を開いた。
「今から言うことに君は大きくとり乱すかもしれない。それでも良いかな?」
猛は無言で顎を引いた。
「俊太くんは残念ながら今、行方不明だ。さらに、手がかりも何も見つかってはいない。有用な目撃情報も皆無だ」
猛はあんぐりと口を開けた。茫然自失といった様子で言葉もでなかった。底しれぬ奈落の沼に突き落とされたかのような感覚に陥る。
「ほら、言わんこっちゃない」
刑事は溜め息を吐き、肩を落とす。
「しかも、俊太くんだけではなく彼の身の周りの人間も次々と姿を消している。我々も捜索に全力をあげているが、さっきも言ったように何一つ手がかりを見つけることができていない。まさに五里霧中といった状況だ」
猛は沈痛な面持ちで麦茶を喉に流し込んでから徐に口を開いた。
「そんななか、ようやく有力な情報を持っていそうな僕に出逢った。でも、結局は期待外れだったというわけですか……」
少し皮肉のこもった口ぶりに気色ばんだ刑事は鋭い目つきで猛を睨んだ。
「べつにそんなことは言ってないだろ。少し口を慎んだらどうだ」
「すいません、つい――」
「たしかに我々は完全に捜査に行き詰ってしまっている。でも、必ずどこかに進むべき道はある。その道を見つけるためにも、もし今回の事件に関して何か気付いたことがあればすぐに連絡してほしい」
そう言って、刑事はスーツの胸ポケットに手を突っ込んだ。
しばらくガサゴソと胸ポケットの中を探った後、あれ、と声を出した。露骨に動揺が顔に現れていた。思案顔で少し間を空けてから、ズボンのポケットに手を入れる。ところが、探しているものは見つからないようだった。
「おかしいな、なんでないんだろう」
「いったい何を探しているんですか?」
「いや、俺の携帯番号が書いてある紙切れなんだが――おかしいなあ」
すると、取調室の隅のほうに小さな机で殆ど喋ることなくパソコンを終始見つめていた、いかにも優等生タイプで眼鏡をかけた人物がバリトンボイスの刑事に蚊の鳴くような声で冷静に的確な助言をなげかけた。
「また、電話番号を紙に書いて渡したら良いんじゃないですか?」
バリトンボイスの刑事は間抜け面で、
「おう、そういえばそうだな」
と言って、右手で作った拳で左手を叩いた。
猛は首を傾げつつ、ずっと抱いていた疑問をぶつけた。
「あのう、そちらのかたも刑事さんですよね?」
呆気にとられたような表情でバリトンボイスの刑事は答える。
「ああ、もちろん。いったい君は誰だと思っていたのかね?」
「一般のかただと思ってました……すいません。僕以外の重要参考人なのかと――」
猛の意外な返答にバリトンボイスの刑事は鼓膜を破らんばかりの大きな笑い声をあげた。
「だってさ。やっぱりお前、潜入捜査とかやったら天下一品なんじゃねえのか?」
バリトン刑事からの揶揄嘲弄に一切動じず、優等生風の刑事は少しも顔を変えることはなかった。毅然とした態度でパソコンのキーボードを黙々とピアニストのようにタイピングするその後姿には天下無双の覇気が漂っているかのように猛には思えた。覇気といっても、強い格闘家にあるような覇気ではなく、アニメオタクやアイドルオタクが尊敬の念を抱くような異様なものだった。
そして、決して揺らぐことはないであろうある一つの確信が猛の心に生まれた。それは、この二人の刑事に任せっきりでいては埒があかないという確信だった。