異世界(2)
俊太はゆっくりと目を開けた。爽快な青空に巨大な鳥が飛んでいる。だが、その鳥は耳を劈かんばかりの轟音を出していた。巨大な鳥が視界から消えると、地面に手をついてゆっくりと立ち上がる。すると、なぜか急にそれが鳥ではなく、飛行機だったのではと気付いた。遠くに目を凝らすと、やはりそれは馴染み深いジャンボジェット機だった。
飛行機のエンジン音が聞こえなくなると、次はもっと聞き慣れた音が聴覚を刺激する。
一定のリズムで刻まれる乾いた音とともに、人間の笑い声や叫び声も聞こえる。俊太がいたのはサークルの活動場所であるテニスコートだったのだ。
なぜ、このような場所にいるのだろうか。俊太は怪訝な顔で周りをぐるりと見回した。すると、数十メートル先で見覚えのある人物がボールを追いかけ、ラケットを振っていることに気付いた。間違いなく、勇人だった。
「勇人!」
殆ど無意識に大きな声で勇人をよんだ。だが、勇人は俊太のほうを一顧だにせず、ひたすらラケットを振っていた。そんな馬鹿なと俊太は呆然と立ち竦んだ。もう一度声を荒げて、勇人の名前を呼んだ。
「勇人ぉ!」
それでも、勇人は全く反応しなかった。痺れを切らした俊太は駆け足で勇人のほうに近寄った。せっかくの再会だというのに、なぜそんなにも無愛想なのだ。
ところが、至近距離での必死の呼びかけにも勇人は応じなかった。動きまわる勇人の肩を小突こうとした時、俊太は思わず、えっ、と声をあげた。
勇人の体に触れることができなかったのだ。目には見えていても、手が貫通してしまうのである。まるで立体映像のようだった。
なにより不自然なのは、俊太がまるで透明人間のような存在となってしまっていることだった。何をしても周りにいる人間は無反応だった。金切り声をだしても、奇妙なポーズをしても誰一人として、俊太のほうに目を向けることはなかった。強い孤独感に俊太は襲われた。
『何をしても無駄じゃよ。ここは現実の世界ではないからのう』
無頓着な口調でギンジが頭のなかで言った。そうだ、ギンジがいるから孤独ではない。安堵が俊太の心を包み込んだ。
『ここは、お前さんの記憶をもとに生み出された空間じゃ』
不思議そうな顔で俊太は鸚鵡返しにした。
「俺の記憶をもとにして生み出された空間?」
『そうとも。おぬしの記憶によって作られた映像を見せられているのじゃ』
「なんでそんなことをする必要があるんだ?」
『さあ、それは分からん。それを確かめるのはお前さんの役目じゃなかろうかのう』
苦笑いを浮かべ、俊太は首を捻った。
「なにをすれば良いのかさっぱりだ」
『取り敢えず、じっと見ておれば良いんじゃないか? ところでお前さん気付いてないのか?』
「何に?」俊太は訝しげな顔をする。
『ほれ、いま勇人とテニスをしておる者を良く見てみろ』
俊太は少し恐る恐るといった様子で後ろを振り向いた。刹那、俊太の顔が一気に凍り付いた。
「あれは……俺か?」
俊太の目線の先で勇人とともにテニスをしていた人物は紛れもなく俊太だった。俊太は瞬時に奇妙な感覚に陥った。自分の姿を鏡で見たことはあったが、鏡に映る自分はあくまでも同じ行動しかせず、違う動きをする自分というものを生で見るということは当然ながら初体験だった。
「目の前に俺がいる。信じられない」
『さっきも言ったが、ここはお前さんの記憶を材料として生み出されておる。その空間にお前さんがいないというのは矛盾しておるじゃろ』
「たしかに、いわれてみればそうだ」俊太は頷いた。
あまりよくないフォームだな、とラケットを振る自分自身に駄目出しをした。部活の顧問にフォームについてはよく指摘されてはいた。しかし、自分の一番打ちやすいフォームで打って何が悪いのだといつも心のなかでぼやいていたことを思い出し、俊太は急激に恥ずかしくなった。そして、顧問にたいして申し訳なく思った。
「勇人、お前はもっとコンパクトなフォームに変えたほうが良いんじゃないか? 体が開き過ぎて、ラケットを振るのが遅れてるんだよ。だから、ボールのコントロールが定まらないんだ」
突如、ボールを打つのを止めた俊太が些か偉そうな口ぶりで言った。
「細かいことは良いじゃねえか。お前のほうが上手いからあんまり口出ししたくないけど、お前こそちょっと変な打ち方してんじゃないのか?」
「俺は打ちたいように打てればそれで良いんだよ」
勇人はポカンと口を開け、頓狂な声をあげた。
「はあ? なんでお前は良くて俺は駄目なんだよ!」
「俺はもうこのフォームが完全に定着しちまってどうしようもねえんだ」
「お前、言ってること支離滅裂だな」
肩をすくめた勇人はため息混じりに言った。
その会話を聞いていた俊太は思わず顔を赤らめた。いったい自分は何を言っているのだろう。
あんな発言をした記憶はないが、恐らく幾分か我を失っていたのだろう。人間は好きなことに夢中になり過ぎると、こうもおかしな言動をするようになるのかとむしろ感心出来るほどのものだった。もはや、酔狂した中年のオジサンか、耄碌したボケ老人のようにしか見えなかった。
突然、ギンジが高笑いし始め、俊太は体をビクッとさせた。
『お前さん見かけによらず、笑いのセンスあるのう』
「うるせえ! 別にそんなつもりで言ったんじゃねえよ……多分だけど。それに、そこまで面白くねえだろ」
『いや、わしは好きじゃよ。ああいう非論理的な発言をする人間は――』
「非論理的で悪かったな」
陽がかなり傾き始め、そろそろサークルが終わる時間となったのか、俊太や勇人といったサークルのメンバーがコートの整地に取り掛かった。終わるとすぐに他愛もない話で盛り上がるにも関わらずこの整地をする際に伴う一分程度の沈黙が、サークルメンバーの運動後の疲労を仄めかしていた。なぜ、特段真剣にやっているというわけでもないはずなのに整地の時だけみんな黙りこくってしまうのだろうと俊太はいつも不審に思っていた。『整地は沈黙を呼ぶ』という奇妙な諺のようなものを俊太は勝手につくりだし、自己満足に浸っている。
整地が終わり、友人と別れの挨拶を交わす自分を見ていた時だった。
テレビの電源を消して画面が真っ黒になるのと同じように、突然、世界が真っ暗になった。俊太は思わず、悲鳴をあげた。
「うわあ、何だ? 何も見えないぞ」
『落ち着くのじゃ。おぬしの別の記憶によって生み出された別の世界へと変わろうとしているだけじゃよ』
「なんだよそれ。とにかく、なにもせず突っ立ったままでいいんだな?」
『ああ、しばらく我慢するんじゃ』
こんな調子でずっと自分の記憶を見せられていくのかと思うと、俊太は気が遠くなりそうではあったが妙に高揚感も湧いていた。
悪の神とやらは、こんなことをして何を企んでいるのだろうか。苦しませるといっても、苦しんでいるという実感はそれほどなかった。苦しませるなら、もっと違う方法もあったはずだ。真意を探るのは自分の役目だとギンジは言ったが、今のところそれをするための道しるべさえも見当たらなかった。暗闇に覆われた大海で道しるべを見つけるなど至難の業ではないか。なるほど、その真意を探らせるということが自分を苦しませるために悪の神が用意した試練なのか。そう考えると辻褄が合う。
とにもかくにも、謎が多すぎる。あまり深くは考え込まず、まだ今は試練になすがままに身を委ねておこう。俊太はそう決心した。