現実世界(2)
マンガ喫茶で何時間か過ごし、猛は店の外に出た。ふと空を見上げると、夜空を美しく照らす満月が浮かんでいることに気付き、うっとりと感慨に耽った。
月の光ほどこの世に綺麗なものはない。妖艶で神秘的な輝きを放ち、太陽をも圧倒する存在感があると猛は信じていた。それほどの力を持っていながらも、ある一定期間の短い夜にしか顔を見せない謙虚さは猛にとってまさに理想的だった。
そういう存在が猛の好みだったのだ。思春期からそういう人間と親しみを持てることを望んでいた。謙虚なだけではなく、人間としてのなにか光り輝くものを持った者と出逢えることをなによりも楽しみにしていた。どういった形でも構わない。友人としても恋人としても――。とはいえ、思春期にはやはり恋人が欲しかった。だが、それほど魅力的な異性がそう易々と見つかるわけもなく、見つかったとしても振り向いてくれることはなかった。
自分にそれ相応の長所がないとは思っていなかった。勉強も運動もそこそこ出来たし、性格だってごくごく普通だ。しかし、あと一歩が足りないのか恋人寸前の異性は何人かいたが、ゴールインを果たした者はいなかった。無念なことだった。その頃から、ずっとその問題に頭を悩ませていた。
そんな時に突如現れたのが俊太だった。整った顔立ちで文武両道。性格もフレンドリー。偉そうにすることも時々あるが、概して驕ることのない精神を持ち合わせているといってよかった。
異性ではないが、いわゆる猛が描く理想の人物だったのである。部活で知り合ってから互いのことを深く知ることとなり、俊太のことを理解するにつれ彼にたいする好感度はうなぎ上りに上がっていった。結局、高校を卒業するまでの三年間、かなり仲が良かったのは俊太だけだった。
さすがに大学は同じ所へ行けなかった。俊太のほうが僅かに偏差値の高い大学へ進学した。学力で劣ったことも悔しかったがなによりも、俊太と別れなければならないことが我慢ならなかった。遠く離れるわけでもないので、別れるという表現を使うと大袈裟かもしれないが、共に過ごす時間は短くなるに違いなかった。
大学に入学すると、さっそく友達が何人かできた。嬉しかったことは言うまでもない。しかし、俊太ほど絆の深い仲となれる友達をつくることはできなかった。なかなか、理想的な人間がいなかったのだ。理想のハードルを下げようと試みたものの、それでもなお納得のいく人と出逢えなかった。なんと不条理な世界なんだと猛は悲しみに暮れた。贅沢で我儘な文句に神様はもう耳を傾けてくれないのだろうか。それなら神様もどうかしている。猛は完全に自暴自棄に陥った。
どうしようもない寂寥感や虚無感に耐えられなくなった猛は俊太の携帯にメールを送った。内容はもちろん再開を願うものである。しばらくして、メール受信を知らせるメロディーが鳴った。少し返ってくるのが早過ぎる気もしたが、胸を躍らせながらメールをみた。だが、予想していたものと全く違うメールが返ってきた。猛は思わず目を疑った。
『エラー
ただいま送信したメールアドレスは現在使われておりません』
猛は半狂乱になって、携帯電話を床に叩きつけた。液晶の画面が割れ、内蔵されていた部品が飛び散った。
なぜ、アドレスを変更したのに伝えてくれなかったのだろう。自分が何をしたというのだ。猛には皆目見当もつかなかった。家に押しかけようとも思ったが、さすがに度が過ぎるということで、そこまではしなかった。
その日から、何日か正確には分からないが、長い月日が流れた。偶然にも俊太の住む街に寄ることになり、ぶらぶら散歩していた。途中、小さな公園を見つけて足を踏み入れた途端、ベンチに一人ポツンと同じ年頃の若者が座っていることに気付いた。以前は満月のような輝きをみせていた俊太が、その面影をなくしたかのように半ば放心状態で居座っていたのだ。俊太から見捨てられたと確信していたので、少し不安げに話しかけたところ、俊太は意外にも朗らかな表情を向けてきた。その瞬間、心の中で蓄積していたしこりが一気に消え去った。同時に、本人に確認することなくメールアドレスの変更の知らせがなかったのは単なるど忘れだと猛は断定した。
改めて、メールアドレスを聞こうかと思ったが、俊太の様子が不穏だったのでまずはその事情を訊くことにした。険悪な雰囲気が俊太に漂っているのに、いきなりアドレスを聞くのは癪だったのだ。すると、友達や家族がいなくなってしまったというのだ。これには猛も開いた口が塞がらなかった。そんな馬鹿な! まさか、そんなことになってしまっていたなんて。全く予想できなかった。その後、意見の食い違いから口論になった。そのせいで、アドレスを聞く機会を逃してしまった。
友人として助け船を出そうかと提案したが断られ、もう一度説得しようと今、猛は俊太の家に向かっている。時刻は深夜の十一時だった。さすがにもう帰っているはずだ。捜索するにも、こんな時間帯では不可能に近い。
初夏の涼風を思わせるような神の息吹が音を立てて猛の髪を靡かせる。その風は少々、焦げ臭かった。猛は鼻をつまみ、顔をしかめた。
夕方に火事で燃えていた廃墟はすっかり塵灰となしていた。老朽化が手助けしたのか、消防隊が完全に鎮火する前に燃え尽きてしまったのだろう。もはや、原形を留めていなかった。幸いにも類焼は免れたようだ。
炭となった豪邸を無表情でしばらく見つめ、猛は再び足を動かし始めた。俊太の家まではもう目と鼻の先だ。
俊太の家の前に着くと、胸の鼓動が微かに速まった。深呼吸して息を整えつつ、インターホンのボタンを人差し指でゆっくりと押した。聞きなじみのある電子音が小さく鳴る。ところが、いくら待っても俊太は出てこなかった。再度、ボタンを押すが結果は同じだった。あり得ない、アイツはいったいこんな時間まで何をしているのだ。猛は落胆の表情を浮かべ、肩を落とした。
ふと猛は上を見上げた。よく見ると、部屋の明かりがついていなかったのである。大きく溜め息を吐き、猛は踵を返した。
「さて、明日また来ようかな」
小さく独り言を呟き、腕時計に目をやった。終電がまだあるのかどうか心配したからだった。
その日の夜の静けさは不吉な気配を孕んでいた。猛は再度、心の中で呟いた。
「俺の心に巣を作り始めている得体の知れない怪物よ。お前はいったい何を知っているんだ?」