異世界(1)
光に包まれて何も見えなくなった俊太は一歩も動けずにいた。全く目が開かない状況だったのだ。盲目者はいつもこのような状況におかれているのかと思うと、俊太は驚きを隠せなかった。何か行動を起こそうにも体を動かすのが恐かったのである。
これではどうしようもない。俊太は勇気を振り絞り、巨大なドアがあるであろう後方に体を回転させ、ドアノブを手探りでさがした。丸くて熱いものが手に当たり、俊太はそれを捻ろうとした。だが、どれだけ力を込めても回らなかった。
すると突然、ドアノブが消えて、俊太は空を掴んだ。同時に信じられないことが起きた。
濃霧よりも激しく視界を悪くしていた光が消え、眼前に広大な草原が現れた。草の香りが鼻孔に吸い込まれる。青々とした空には雲ひとつなく、そよ風が無数にある草の一本一本を揺らした。しかし、無数にあったのは草だけではなかった。
縦長で人一人が入れる程度の無数の扉が浮遊していたのだ。左右に動くものもあれば、上下に動くものもあり、それぞれが意志を持っているかのように自由気ままに動いていた。どの扉も何の模様も装飾もないべニア板にドアノブを貼りつけたような簡素な造りだった。宙に浮いてるし、その先に部屋もないし、蝶番もない。もはや扉ではなかった。まるで絵として描かれた扉がそのまま具現化されたかのような、そんな物体だった。
「いったい何なんだ?」
げんなりした表情を浮かべ溜め息混じりに俊太は呟いた。もはや驚くことさえ忘れていた。
『ここは悪の神が想像で生み出した世界じゃ』俊太の頭の中でギンジが言った。『闇に心が染まっていく人間を見て楽しんだ悪の神が次の標的としたのが、お前さんじゃよ。精神的に苦しむお前さんをさらに追い込んで、より苦しむお前さんの姿を見て楽しみたいがためにこんなことをしたのじゃ。つまり二重に仕掛けを作りだしていたということだ。本当に狡賢い奴じゃ』
「おいおい、ちょっと話が違うんじゃねえか? 〝扉〟を開けたらすぐに拉致された人がいる監禁部屋じゃないのか?」
『一言もそんなこと言っとらんよ。ワシは悪の神と対決せねばならんと言ったはずじゃ。まさか、〝扉〟の先にある部屋に入るだけが対決で、それで、はいお終いだと思ってたのか? そうは問屋が卸さんぞ』
俊太は思わず苦笑した。
「ちょっと待て。分かったよ、たしかに対決っていうからにはこれで終わりなのは変だけど……肝心の悪の神がどこにも見当たらねえぜ。まさか、透明人間か!」
そう言って、俊太は忙しなくあたりをキョロキョロと見回した。
『あいにくワシらは透明にはなれんよ。瞬間移動で消えることはできてもな』
「わけが分からねえ。じゃあ、いったい何すれば良いんだよ!」
声を荒げた俊太の声が緑豊かな空間に響く。すると、山びことなって再び俊太の声が反響した。
『まあ、落ち着け――と言ってもお前の神経を逆なでするだけじゃな。じゃあ、あの扉を見ろ』
「どれだよ、いっぱいあるじゃねえか」
『全体じゃ。それで何か気付くことはないか』
「扉といっても、舞台かなにかで使われる偽物の扉みたいだな。五百円ぐらいで作れそうだ」
『そんなことではない。色を見てみろ』
「色を見ろ?」
俊太は目を細めて目の前に広がる光景を眺めた。
「そういえば、青い扉と赤い扉に分かれてるな。何か意味があるのか?」
『そうじゃ。もちろん意味はあるとも。青い扉が〝記憶の扉〟で赤い扉が〝創造の扉〟と呼ばれている』
「なんだそりゃ? 全く理解不能だ」
『百聞は一見に如かずじゃ。実際に開けてみると良い』
「開けるって何を?」
『扉にきまっとる』
俊太は顔をしかめた。
「おちょくってんのか? どうやって開けるんだよ。てか、心読めるんだから、俺の考えてること分かるだろ。茶番はよせよ」
『お前がいるのは異世界じゃ。姿が見えないうえに、異世界にいるとなると、さすがに読心はできん。いわば、電波のようなものを送って初めて人の心を読めるのじゃ』
「頭の中では喋れるのに?」
『ああ』
「めんどくさい能力だな」
『すまんな、めんどくさくて』
鼻で笑った後、俊太は扉の群れのほうに足を進めた。
人間の目というのはある意味ですごい。どれほど大きな物体でも、遠く離れた場所から見ると米粒のように小さくなるからだ。初めて遠近法を使ったことで有名になった絵画があるけれど、ごくごくありふれた当たり前の現象を描いただけなのに、なぜ有名になったのだろうか。ぶっちゃけそれがどうしたという感覚に俊太は陥った。有名になれるようなものではない。
とりあえず、妙に体力を消耗したが扉の群れにたどり着いた。そして、扉の大きさに俊太は圧倒された。
最初は人一人がぎりぎり入れるほどかと思っていたが、全くの勘違いだった。人一人どころか、縦に三メートル、横は一メートルはあろうかという、まさに巨人サイズだったのだ。
芒洋たる宇宙のような空間に、超巨大な扉の数々――俊太は自分が小さくなってしまったのではないかと錯覚した。
『では、まずは〝記憶の扉〟から行くかのう』
「ちょっと待て、『まずは』ってどういう意味だ? 他に何かすんのか? これで終わりだろ、冗談はよせよ」
『百聞は一見に如かず。さあ、触れる高さにある青い扉のノブを掴むのじゃ。〝記憶の世界〟に入れる』
「おい、ちゃんと答えろ! まさか、これ全部の扉に何かするのかよ? そんなわけねえよな。時間がいくらあっても足りないぞ」
『百聞は一見に如かず』
そう繰り返したギンジの口調はどこか飄然としていた。これは何かあるなと俊太は確信し、無言で最も近くにあった青い扉のノブに触れた。すると、揺り籠のような動きをみせていたその扉が、急に静止し俊太の目の前にすうっと天使のごとく舞い降りた。
刹那、青い扉が激烈な光を放つ。俊太は忽ち、光の渦潮に呑まれてしまった。