現実世界(1)
猛は悩んでいた。
ようやく空いた座席に腰掛け、車窓から景色を眺める。一人の老人が湖の傍に座り込んでいるのが見えた。どうやら釣りをしているらしい。しかし、その湖は魚がいるのかどうか疑わしいほど汚かった。底の見えない泥沼のような湖だったのだ。ピクリとも動かないので老人は暇すぎて寝ているのかもしれない。とりとめもないことを猛は考えていた。というよりはむしろ、考えていたかった。陰鬱な気分を晴らしたくて仕方がなかった。
急ブレーキがかかり、立っていた乗客が一斉に態勢を崩し、体をぶつけあった。将棋倒しのようになりかけたが、紙一重で免れた。四方八方から、「すいません」という声が聞こえる。しばらくすると車掌のアナウンスが流れた。
『ただいま、前方の踏切で無理な横断があったため自動的に急ブレーキかかりましたことを深くお詫び申し上げます』
猛は車掌を不憫に思った。無理な横断をしたどこかの馬鹿がお詫び申し上げなければならないはずだからである。そしてなぜか、無性に腹が立った。
その後、トラブルが発生していないかどうかを確認するため車掌が見回りにきた。それぞれの車両を隔てる扉を開け、軽く一礼してから猛のいる車両を淡々と歩く。猛は半ば無意識に車掌に対して頭を少し下げた。車掌はそのことに気付くことなく猛のわきを通り過ぎて行った。
ふう、と猛は溜め息を吐いた。今も懲りずに、俊太は捜索を一人で続けているのだろうか――なにをやっていてもそのことが恒星の周囲を公転する惑星のようにグルグルと頭の中を回っていた。
サークルも授業も何一つ身が入らなかった。
いったいどうしてこんなことが起きてしまったのだろう。猛は信じられなかった。大学の友人を失った俊太の気持ちを推し量ると、どうしようもないほどの沈痛な感情が胸の奥で渦巻いた。
協力できることならなんでもすると言い張ったものの、命の心配をされて断わられた。さらには、あの日以来、連絡もいっさい取れていない。この状況をどのように打破しようかと猛はずっと思い悩んでいたのである。
門前払いをうける可能性は大きいが、俊太の家に押しかけてでも、もう一度会って説得しようと猛は思った。いくら俊太とはいえ、不眠不休で捜索活動をすることは不可能である。家の前で待ち伏せをしていれば、いつかは会えるだろう。
電車を乗り換えて、俊太の家のほうへ向かうことにした。
俊太の家の近くにある三叉路に差し掛かった途端、何かが焦げたような嫌な臭いが猛の鼻を突いた。近づくにつれて、人々の喧騒も大きくなっていった。
しばらくして、目に入ってきたものに思わず唖然とした。目を瞠るほどの大きな火柱が立っていたのである。火事が発生しているようだ。途端に猛は強い焦燥感に苛まれた。まさかと思い、全速力に近い勢いで走った。
だが、猛の嫌な予感は幸いにも杞憂となる。燃えていたのは俊太の家ではなく別の家だった。不謹慎だが、内心ホッとした。
「ねえママ、あの赤い光は何だったの?」
その場を去り俊太の家に向かおうとしたとき、小学生ぐらいの幼女がその母親にふと投げかけた質問を耳にし、思わず猛は足を止めた。
「さあ、何だったのかしら? ゴロゴロって鳴ったから雷の光かなあ……」
母親は明らかに困った表情を浮かべて答えた。すると、あどけない顔で調子はずれな声を幼女が発した。
「えーっ。でも、おへそあるよ」そう言うと、服の裾をめくりあげて臍を堂々たる様子で見せた。大人の女性には到底できない荒技である。「ほら、あるでしょ」
母親は慌てて、裾を元に戻すよう促した。
「こら、お腹冷えるでしょ! なおしなさい」
「はーい」
幼女は頬を膨らませた。
「しかし、怖いわねえ。雷が落ちて火事になるとか聞いたことないわ」
幼女の母にしかめっ面で別の女性が話しかけた。恐らくママ友だろう。
「ええ、私もよ」
「木に落ちるっていうのは良く耳にするけどね」
「うんうん」
「ところで、あの噂は知ってる?」
「あの噂?」幼女の母が怪訝な顔をした。
「あの火事が起きる直前に、この界隈に住む大学生ぐらいのひとがあの屋敷に侵入したっていう噂よ」
「まさか、放火?」
「かもね」
猛は尋常ではない程とり乱した。再び、激しい焦りが精神を支配した。だが、そんなことはあり得るはずがない。たしかに、俊太の精神状態は不安定かもしれない。犯罪に手を染めたくなるかもしれない。廃墟なんだから燃やしても良いだろうと思ったかもしれない。しかし、そんなことするはずがない。
俊太は頭の良い人間だ。偏った個人的な見解に過ぎないかもしれないが、打算的で狡猾な人間だ。
そんな無意味なことをして他人に迷惑をかけるような奴ではない――猛はそう信じきっていた。
だからこそ、猛は思い切った行動にでた。
「あの、その大学生の名前とか容姿って分かりますか?」
突然見知らぬ人に声をかけられたせいか、幼女の母はすこし狼狽した顔つきをして吃りながら答えた。
「さ、さあ。ちょっと分かりませんね」
「そうですか、ありがとうございます」
どうせこれも杞憂に終わるさ――猛は颯爽と俊太の家へ再び足を進めた。
無駄な行為と分かっていたものの、猛は取り敢えずインターホンを鳴らしてみた。しかし、いくら待っても俊太は現れなかった。予想は見事に的中したが、猛は深く溜め息を吐きたくなった。
俊太の母が大事に育てているであろう花壇の花々は心なしか元気がないようにみえた。まるで猛がいま抱いている気持ちを投影しているかのようだった。
今から俊太が戻ってくるまでどのくらい待たねばならないのだろうかと、猛は疑問に思った。夜中まで帰ってこないとなると、四時間は待機時間が生まれる。そんにも長時間こんなところで待てる気力もなければ、周りの人間から不審な目で見られることに耐える精神力もさすがになかった。
そもそも、俊太はいったいどのような捜索活動をしているのだろう。ふと、素朴な疑問が頭に浮かんだ。
やはり目撃情報を集めるなどといった、警察の真似事をしているのだろうか。それなら、どう考えても警察に任せたほうが効果的ではないのだろうか。友人がいないのを寂しく思い、助けたいと願うのは至極真っ当なことである。しかしなぜ、あれほどまでに狡い俊太がムキになって自らの労力を無駄に費やしているのか猛には理解できなかった。
様々な思念が頭の中で交錯し、猛は少し苛々してきた。俊太を気遣う一心でここまでやって来たが、徒労に終わるような気がしてならなかったからである。
とにもかくにも、こんなところで突っ立っているわけにもいかなかったので近くのマンガ喫茶で暇を潰すことにした。




