(11)
リビングのテーブルに毎朝置いてあるはずのものがなかった。
その理由を俊太は知っていたが、どうしても受け入れることができなかった。その事実を認めたくはなかったのだ。
昨日の夜十時をまわった頃、俊太は金切り声をあげた。
いつものようにテレビを三人でみていた。最近流行りのクイズ番組である。番組が終盤にさしかかり、エンドロールが流れている最中、突然目の前で魔法のように母と妹が消えたのである。なんの前触れもなかった。父も帰ってくる時間はとっくに過ぎていたが、いっこうに帰ってくる気配はなかった。
その後、俊太はソファーに寝転がって目を閉じた。そして猛烈な虚無感から逃れるようにして眠りに落ちた。思いのほかぐっすりと眠れたのか、体はかなり軽い。
俊太はふとあることを思い出し、慌てるように自分の寝室へとむかった。ベッドの枕元にポツリと置かれた携帯電話を手にとり、慣れた手つきでメールを打った。
『無事なら返信してください』
大学の親しい友人全員に同じメールを送信した。無事であってもすぐには返ってこないと思い、散歩でもして時間を潰すことにした。
玄関の扉を開くやいなや、雨の匂いが鼻を突く。眠っているちょうどその時間帯に雨が降ったのだろう。
空は鈍色の厚い雲によって覆われ、青々とした精気に満ちていた世界は完全に崩壊している。木々の葉脈を美しく浸す朝露の様子は、まるで葉が零す涙のようだった。艶やかな光沢をみせていたはずのアスファルトも元気がなく、どす黒い血でペンキ塗りされたかのような色をしている。
俊太の眼前に広がる世界はまさに地獄の異世界だった。ギンジがわざわざ呼び寄せなくても赤い雷を発生させるという雲がその辺を泳いでいるのではないかと俊太は思わず錯覚した。それほどまでに、いま自分がいる世界が現実世界ではないかのように俊太は感じていたのである。
なじみ深い公園が目に入ると、俊太は半ば無意識にそこへ足を進めた。
公園の周りをぐるりと取り囲むようにして鬱蒼と桜や松の木々が生い茂っている。それらの葉っぱが公園には入るなと言わんばかりにざわざわと音を立てた。不吉な予感を抱きつつも、公園に入りベンチに腰掛けた。
鬱然とした顔で俊太は空を見上げる。焦燥や不安が心を包み込み、頭の中も混沌としていた。
赤い雷の落ちた場所に〝扉〟が出現するとギンジは言っていたが、実際に肉眼で見てみないとイメージが湧かないというのが正直な感想だった。
失った大切なヒトを助けたいと一心に願いながらも、いざそういった奇異な現象を目の当たりにすると足が竦まないだろうか。結局は何もできないのではないだろうか。協力してくれるギンジの足を果たして引っ張らないでいられるだろうか。
肝心な時に限って不安を誘発するような考えが心の深淵から溢れ出て犇めいていることに俊太は惨めさを覚えた。
ふざけるなよ。どうしていつもこうなんだ――。
俊太は徐々に苛々してきた。
憤懣とした様子で立ち上がろうとした時、前方からどこかで聞いたことのある声がした。
「もしかして俊太か?」
顔を上げた俊太は目を丸くする。
「た、猛なのか?」
猛とは高校時代の同級生で、親しい友達だった。
一緒に人気歌手のライブを見に行ったり、他の友達も連れてカラオケや遊園地で楽しい時間を共に過ごしたりと、紛れもなく大親友といえる仲だった。決して誇張ではない。
そして、良きライバルでもあった。
二人が初めて出会ったのは学校からすこし離れた、学校専用のテニスコートだった。同じテニス部に所属していたのである――。
「ほんなら、新入生の諸君。先輩たちに軽く自己紹介してくれるか? 緊張せんでもええで」
顧問は関西弁を話し、明らかに関西出身だった。関西弁の人とあまり関わったことがなく、俊太は自己紹介することよりもむしろ、その顧問に対して緊張した。ぎこちない口調で俊太は自己紹介した。
「はじめまして。テニスは中学一年から始めましたが、未熟なところもまだまだ多いので色々と先輩方に教わりたいと思っています。よろしくお願いします」
極めて月並みな自己紹介に先輩たちや顧問の表情は心なしか少し憮然としていた。
「じゃあ次は本田猛くん」
少し動揺した様子で猛がコクリと頭を縦に振った。
「えーっと、本田猛です。よろしくお願いします」
猛の余りにも素っ気ない自己紹介に顧問は思わず苦笑いを浮かべた。
「おいおい、もうちょっと何かないんか? 抱負とか目標とか……」
抱負と目標は同じ意味ではと口から出そうになったが、なんとか俊太は堪えた。
「まあ、別にええけどな」
「いや、良いんかい」と俊太は心の中で呟いた。
体育会系のクラブのわりには間抜け面した顧問だなと俊太は感じた。だが平安も束の間、練習が始まると誰か分からないくらいに鬼の教官に豹変したのである。
「なにやっとんねん! しっかりせんかい。もっと膝曲げろや」
顧問は一年生から三年生まで全く容赦なかった。球拾いする初対面の一年生に対する態度もかなり厳しい。
「とっととせんかい、どアホ! 球ないと練習でけへんやろ」
ヤクザさながらの怒号が終始乱れ飛び、一年生はすっかり委縮してしまった。俊太もずっと表情を強張らせていた。三年生はさすがに慣れているのか、平然とした顔をしている。
黄昏時に記念すべき第一回目のクラブが終わった。いわゆるクレーコートと呼ばれる砂のテニスコートだったので、シューズや靴下は茶色っぽく変色していた。シューズの中に入った砂利を出すためにシューズを脱いでいた俊太の隣で猛も同じことをしていた。徐に俊太が声をかける。
「厳しい顧問ですね」
猛は眉根を寄せて頷いた。
「たしかに。三年間もつのかどうか心配ですね」
「テニスはもうずっとやってるんですか?」
「僕も中学からやってますが、それほど上手くないですよ」
「謙遜してますね?」
「いやいや、とんでもない」
猛は手をひらひらさせた。
「今日はラケット握れなかったので、ちょっとどこかのテニスコートを借りて少しやりません?」
「いいですね。ぜひやりましょう」
学校専用のコートはナイター設備はなかった。俊太は鞄から携帯電話を取り出し、近くにある別のテニスコートを管理するところに電話をかけた。
あたりはうす暗く、コートを照らす証明が必要となり、その分レンタル料は通常よりもかなり高めだったが、30分なら二人の財布が許す料金におさまったので、さっそく借りることにした。
テニスコートに着くやいなや、二人は高揚した。今からテニスコートでボールを打てると思うと嬉しかったのだ。
最初のうちは七割程度の力で打ち合っていたが、次第に二人は本気でラケットに力を込め、鋭い球を打ち始めた。互いに互角である。汗が少し体から滲んできて、楽しさがピークになったぐらいで運悪く、30分が経ってしまった。
大きな整地用のブラシでコートを整えてから、二人は自販機で缶ジュースを購入してコートそばの赤いベンチに座った。
「やっぱり謙遜してたじゃんか」
肩で息をしながら俊太は口を開いた。
「自分は上手いとか、いきなり初対面の相手に豪語するやつなんていねえよ」
猛は白い歯を見せて答えた。
「たしかに」
その日から二人は親しくなり、良く行動を共にするようになった。テニス以外の趣味も同じものが多く、驚くべきスピードで二人の仲は深まっていった。