(1)
パァーン。
俊太のテニスラケットから放たれたボールは、爽快な音を立てて相手コートの隅に突き刺さった。
「いやぁ、相変わらず凄い球だよな。どうやったらそんな球打てるんだ?」
「だから、感覚なんだって。どうやってって言われても教えようがねえよ」
俊太はげんなりした表情を浮かべて答えた。だが、口元には少し笑みがこぼれているようにも見える。自分の自慢のフォアハンドショットが褒められているのだから無理もない。
「いいよなぁ、抜群の運動神経があって……」
勇人は口を膨らませた。
俊太がテニスサークルに参加してから約四ヶ月間、勇人との会話はいつも同じような内容だった。
俊太が素晴らしい球を放ち、それを見た勇人が目を点にする。そして、勇人は賞賛の言葉を投げかけ、俊太の技術をわがものにしようと試みる。しかし、返ってくる答えは無駄なものばかり。運動神経だの、感覚だのと抽象的である。結局、試みは失敗し、唇をかみしめる。
ほぼ毎日、それの繰り返しだった。
だが、今日はそれだけでは終わらなかった。とある一人の人物が、その会話に口を挟んできたのだ。
「お前ら、いつもおんなじ会話してて飽きねえのか?」
俊太と勇人は双子のように全く同じ動作とタイミングで振り向いた。
すると、白く塗られた木製のベンチに腰掛けていた男が嘲笑しながら二人を見つめていた。
二人はとっさに何か言い返そうとしたが、しばらく出来なかった。少し間をおいて俊太が狼狽した様子で小さく口を開ける。
「い、いやまあ、飽き飽きしてることには間違いないんだけど……」
同じく、勇人も苦笑いを浮かべ、蚊の鳴くような声を出した。
「……そうだな。たしかに俺たち、毎日同じような会話してるな」
場にしばしの沈黙が訪れる。
沈黙を最初に破ったのは俊太だった。
「そうだ、竜助。ちょっと軽くラリーしないか? 勇人じゃ相手にならなくてさ」
「ああ、そうだな。俺も今日はお前が来るまで待ってたんだ。勇人じゃウォーミングアップにもならなくてな……」
すかさず勇人は鬼の形相で異議を唱えた。
「なんだとこの野郎。お前らは運動神経あるからいいけどな、俺はないんだぞ。仕方ないじゃないか」
すると、俊太は悪意のこもった平然たる顔つきで頷いた。
「うん。仕方ないな」
勇人は猛烈な勢いで頭に血が昇るのを感じた。完全に堪忍袋の緒が切れたようだ。
「よーし分かった。じゃあ、こうしよう。今から俺と試合しろ。先に6ゲームとったほうが勝ちっていう一般的なルールだ。ラリーで相手にならないぐらい俺がヘボだって言うなら、俺から1ゲームもとられないよな」
勇人の口調は半ば脅迫めいた口調ではあったが、俊太は余裕の笑顔を見せ、無言で腕を組んだ。
勇人は今にも俊太の胸倉を掴みそうな気持ちになったが、歯を食いしばって続けた。
「もし、俺が1ゲームでもとったら絶対テニスで俺を馬鹿にするなよ」
「いいぜ。さっそくやろうか」
隣でうっすらと笑みを浮かべていた竜助が審判をやろうかと提案してきたので、勇人は「よろしく」と答えた。
今日は2番コートと3番コートを借りていて、3番コートで練習していた他の会員たちが俊太と勇人の真剣勝負を見ようと休憩も兼ねるという目的でベンチに腰掛けた。
まさか、あんな展開になるとは思わなかった。勇人は確実に勘違いをしていたのである。
勇人は間違いなく本気で怒っていた。
俊太は後になってふと思い出した。勇人は冗談を真に受けるきらいがあって、何事も本気にしてしまうことが頻繁にあるのだ。
相手にならないなんて言葉をあんなにも真面目に受け取るとは、誰が予想しただろう。たとえ事実であっても、真剣に怒るとは誰もが予想しがたいことである。
要するに、勇人はピュアすぎるのかもしれない。
他人が観ているなかで、無様な格好を見せるわけにはいかなかったので、俊太は手加減なしで、容赦なく勇人をコテンパンにした。
そして、「残念でした、俺の勝ちぃ」などとふざけた口調で言おうととした瞬間だった。
勇人は黙ったまま早足でコートを去ったのだ。
その時初めて、勇人が本気で傷心していることに気付いた。
竜助や他の会員たちはなんともいえない表情で俊太を見つめていた。
2番コートと3番コートは寂寥たる静寂に包まれ、他コートで楽しげにテニスに夢中になる人たちの声と、ボールを打つ音だけが響いた。
俊太は心の深淵から急激に罪悪感が湧き出てくるのを感じた。罪悪感はたちまち、闇の世界を彷徨う魑魅魍魎に変化し、体内で跋扈し始める。
ふと気がつくと、目の前に竜助がいた。青褪めた俊太の顔を見て心配してか、近寄ってきたのである。
そうだ、竜助も同じようなことを勇人に言っていたではないか。彼も同じような感覚に襲われているはずだ。言うなれば、唯一の仲間である。
「ちょっと、ビックリだな……」
俊太が苦笑しながら言うと、竜助は首を縦に振った。
「ああ。でも、いつも通りあいつの悪い癖が出ただけだ。気にすることはないよ」
「今日は、特に度が過ぎてたけどな」
俊太と竜助は悪くなった場の雰囲気を和らげるかのように若干、大げさに笑った。他の会員たちもそれに呼応してクスクスと笑い声をあげた。
だが、俊太は思っていた。
本当にこれで良いのか。
笑って終止符を打つべき問題なのだろうかと――。
人間には抱くべきか否か審議を問われるような感情がある。
代表的なものが、嫉妬である。
嫉妬は完全に相反する二つの考えに派生する可能性があるからである。
一つは切磋琢磨による向上心である。
端的に言うと嫉妬を抱いた相手に負けまいと努力しようという考えである。
もう一つは、極度の負けず嫌いから生じる恨みである。
負けず嫌いはほどほどなら良い――つまりは、少なくとも嫉妬を抱いてから最初のうちは負けを認めることも仕方ないと割り切れるのなら良いのだが、負けず嫌いの感情を抱き過ぎると、それは相手への激しい怨恨に変化する。
次第に、常に相手の粗探しを始めるようになり、悪口を言ったりしてとことん蔑んでやろうという考えに至るわけである。
勇人がどちらの考えを抱くようになるのか、俊太は当然気にしていた。
だが、サークルに入って最も早く気を許した相手である。
本日のサークルが終わり、額から汗を滴り落としながら自宅へと足を進めていた俊太は前者であってくれと切に願っていた。
喧騒が煩い町の中心から人気の少ない閑静な住宅街に入った。
鈴虫が鳴いている。
嫌な気分を吹き飛ばすかのような癒しの鳴き声が俊太の聴覚を刺激した。
自宅まであともう少しだ。
自宅から五十メートルほど離れたところの三叉路にさしかかった。
刹那、後頭部に激痛が走る。
殴られたのかと自覚する間もなくその場に昏倒した。
なぜなんだ。
なぜ……なんだよ。
☆この物語はフィクションです。実在する人物・事件・団体等とは一切関係はありません