『妹に婚約者を奪われたので、氷の皇子に嫁ぎます ~香草料理で冷たい心を癒していたら溺愛されました~』
第一話 泥濘のドレスと奪われた婚約者、氷の皇子を癒やす香草の温もり
エレノアは、胸の奥に広がる痛みを必死に堪えていた。十年間、幼い頃から慕ってきた婚約者のレイモンドが、義妹のマリアの腰を抱き寄せている。その光景を目の当たりにしても、不思議と涙は出なかった。ただ、かつて自分に向けられていた優しい微笑みが、今は別の女性に注がれていることが、冷たい針のように心を刺していた。
屋敷の大広間には、暖炉で燃える薪の香りと、磨き上げられた家具の蜜蝋の匂いが漂っていた。マリアは淡い薔薇色の絹のドレスをまとい、胸元には大粒の真珠を飾っている。それは本来、エレノアが結婚式で身につけるはずだった母の形見だった。
「お姉様、そんな悲しいお顔をなさらないで。レイモンド様が愛していらっしゃるのは、わたくしなのですもの」
マリアは勝ち誇った笑みを浮かべ、婚約者の腕に頬を寄せた。
「エレノア、すまない。君はいつも地味で、何を考えているのか分からない。マリアのように華やかな女性こそ、私の妻にふさわしいんだ」
レイモンドの言葉に、エレノアは静かに息を吸った。彼のために刺繍したハンカチも、病床へ届けた薬草茶も、領地の帳簿を夜遅くまで整理した日々も、彼にとっては何の価値もなかったのだろう。
「承知いたしました。婚約解消をお受けいたします」
「まあ、随分あっさりしていますのね。悔しくありませんの?」
「悲しくないわけではありません。ただ、心の離れた方を引き留めても、誰も幸せにはなれませんから」
その答えが気に入らなかったのか、マリアの笑顔がわずかに歪んだ。
父が重々しく口を開いた。
「婚約を失ったお前には、別の役目がある。隣国ガルディニアの第一皇子、アルヴィン殿下へ嫁げ。戦場で心を失った『氷の皇子』だ。お前のような役立たずにはお似合いだろう」
エレノアは、擦り切れた灰色のドレスの裾を握った。父は母の死後、彼女から宝石も衣装も取り上げ、使用人同然に働かせてきた。それでも耐えられたのは、前世で受けた成人教育の教えが心に残っていたからだった。
十三歳から十四歳にかけて学んだ、責任と自立の教え。誰からも愛されなくても、自分の尊厳と他者を慈しむ心を手放してはならない。けれど、それは理不尽に従い続けることではない。
「お父様、一つだけお願いがございます。亡きお母様の料理帳を持っていくことをお許しください」
「そんな古びた本など好きにしろ。二度と戻ってくるな」
「はい。これまでお世話になりました」
深く頭を下げたエレノアの背後で、マリアの笑い声が響いた。しかし彼女は振り返らなかった。胸は痛んでいたが、もう誰かの気まぐれに自分の人生を委ねるつもりはなかった。
数日後、冷たい秋雨の中を走り続けた馬車が、ガルディニア皇宮へ到着した。エレノアは緊張で冷えた指先を握りしめた。着ているのは、母の古い深緑色のドレスを自分で仕立て直したものだった。袖口には小さな白い花の刺繍を施し、色褪せた襟元には清潔な生成りのレースを縫いつけてある。
謁見の間で待っていたアルヴィンは、噂以上に近寄りがたい青年だった。黒銀の軍礼服に包まれた長身、銀糸の刺繍が施された肩章、そして冬の湖を思わせる青い瞳。美しい顔には深い疲労が刻まれていた。
「お前がエレノアか。私は愛情を求めて妻を迎えるわけではない」
「承知しております、殿下。私も、愛情を強要するつもりはございません」
「では、何を望む?」
「この国で、自分にできる仕事を見つけたいのです。それから、できれば温かい食事をいただければ幸せです」
アルヴィンは意外そうに眉を動かした。
「宝石でも衣装でもなく、食事か」
「はい。空腹では、良い考えも浮かびませんから」
彼の口元がほんのわずかに緩んだ気がして、エレノアの胸に小さな安堵が広がった。
離宮に案内された彼女は、その日の夕方、料理長の許しを得て厨房に立った。母の料理帳を開くと、懐かしい文字が目に飛び込んできて、思わず目頭が熱くなった。
「お妃様が料理をなさるなんて、聞いたことがありません」
侍女のリゼが戸惑うと、エレノアは微笑んだ。
「まだ正式なお妃ではないわ。それに、お料理は大好きなの。よかったら手伝ってくれる?」
「もちろんです!」
鍋には牛肉、人参、蕪、玉葱を入れ、じっくり炒めてから澄んだ出汁を注いだ。乾燥させたタイムとローズマリーを指先で揉むと、爽やかな香りが立ち上る。煮込んだ牛肉が柔らかくなったところで塩と黒胡椒を加え、最後に刻んだパセリを散らした。
焼きたての全粒粉パンには、蜂蜜を少し混ぜたバターを添えた。厨房には香ばしい小麦と肉の旨味が満ち、リゼのお腹が可愛らしく鳴った。
「ふふ、まずは皆で味見しましょう」
「まあ、こんなに美味しいスープ、初めてです!」
そのとき、厨房の入口から低い声がした。
「随分と楽しそうだな」
アルヴィンだった。書類を抱えた彼の目元には疲れが滲み、長い指先は冷えきっているようだった。
「殿下、お帰りなさいませ。よろしければ、お召し上がりになりませんか?」
「私に食事を勧めるのか。毒が入っているとは考えないのか?」
「それでは、私が先にいただきますね」
エレノアが自分の器から一口飲むと、アルヴィンは困惑したように息を吐いた。
「お前は変わった女だ」
彼は銀のスプーンを取り、琥珀色のスープを口に運んだ。途端に青い瞳がわずかに見開かれ、強張っていた肩から力が抜けた。
「……温かいな」
「はい。お腹の中から温まりますでしょう?」
「昔、母が作ってくれた料理を思い出す」
思いがけない言葉に、エレノアは胸が締めつけられた。彼の瞳には、冷酷な皇子という噂からは想像できない寂しさが浮かんでいた。
「殿下のお母様も、お料理がお好きだったのですね」
「ああ。私が戦場へ出る前は、よく……いや、何でもない」
「またお作りします。今度は殿下のお好きなお味を教えてくださいませ」
アルヴィンはしばらく彼女を見つめ、静かに頷いた。
「……楽しみにしている」
その夜、エレノアの部屋には、柔らかな藍色の羊毛の夜着と、銀糸で小花を刺繍した室内履きが届けられた。添えられた短い手紙には、ただ一言、「寒さを我慢する必要はない」と記されていた。
エレノアは夜着を胸に抱き、久しぶりに涙をこぼした。誰かに何かを与えるばかりだった自分にも、こんな温もりが返ってくるのだ。
一方、遠く離れた実家では、マリアが苛立ちを隠せずにいた。
「どういうことですの! 婚約式の費用が払えないですって?」
レイモンドは青ざめた顔で帳簿を握っていた。
「エレノアが管理していた領地の収支が、まるで分からないんだ。取引先からも問い合わせが殺到している」
「そんなもの、使用人にやらせればよろしいでしょう!」
「彼女が自分で作った帳簿の写しも、取引先との交渉記録も、こちらにはない。しかも君の父上が約束した持参金まで用意できないという!」
マリアは唇を噛んだ。姉から奪った婚約者も、華やかな未来も、思い描いていたほど輝いていなかった。
さらに翌朝、ガルディニア皇宮から正式な通達が届いた。
『第一皇子妃となるエレノア殿下の実家における待遇について調査を開始する。また、本人の所有物および母方の相続財産について、正当な返還を求める』
父の手から書状が滑り落ちた。
「まさか……あの役立たずが、皇子に気に入られたというのか……」
レイモンドもマリアも、言葉を失った。
その頃、何も知らないエレノアは、離宮の窓辺で朝日を浴びていた。昨夜贈られた温かな夜着に包まれ、庭から漂うローズマリーの香りを胸いっぱいに吸い込む。
「今日は、殿下に林檎の焼き菓子を作って差し上げようかしら」
窓の向こうでは、冷たい秋風に揺れる木々が金色に輝いていた。奪われた婚約を嘆くよりも、新しい日々を自分の手で育てていきたい。そう思えることが、今の彼女には何より嬉しかった。
そして本宮では、アルヴィンが侍従長に静かに命じていた。
「エレノアの実家について、徹底的に調べろ。あの娘がどのような扱いを受けてきたのか、一つ残らずだ」
「御意にございます。殿下、そこまでお気になさるのですか?」
アルヴィンは昨夜のスープの温もりを思い出し、窓の外へ目を向けた。
「あの娘は、自分がどれほど粗末に扱われていたのかさえ、当然のことだと思っている。……それが気に入らない」
氷の皇子の胸に芽生えた小さな感情は、まだ恋と呼べるものではなかった。けれど、誰にも守られずに生きてきた少女を、今度こそ大切にしたいという願いが、確かに生まれ始めていた。




