アルハンブラ物語─星の詩、平和の書
はじめに
この物語の舞台は、十四世紀のグラナダ――アンダルシアの山影に抱かれた都です。 1232年、ムハンマド一世(イブン・アル=アフマル)が建てたナスル朝(グラナダ首長国)は、イベリア半島で最後に残るイスラム政権として、北のキリスト教諸国(とりわけカスティーリャ王国)と向き合い続けました。十四世紀にはユスフ一世と、その子ムハンマド五世の時代を中心に、城塞宮殿アルハンブラは拡充され、今日私たちが思い描く輪郭へと近づいていきます。
グラナダは地理そのものが境界でした。シエラ・ネバダの雪解け水はダロ川とヘニル川に集まり、畑と庭園を潤し、やがて地中海へと向かいます。港のマラガやアルメリアには地中海の商人(ジェノヴァ人を含む)が出入りし、海峡の向こう――マグリブ、たとえばモロッコのフェズやマリーン朝の宮廷とも視線が結ばれていました。戦の兆しが立つときでさえ、物資と噂は、しばしば風より早く往来したのです。
この都には、アラビア語の碑文、カスティーリャ語(ロマンス語)の口調、ヘブライ語の祈りが同じ空気の層を共有していました。法や信仰は一枚岩ではなく、互いの境界で摩耗し、ときに新しい形を得ます。詩が政治の言い換えとして読まれ、星表や暦の計算が宮廷の実務を支える――そうした文化の混交が、アルハンブラの水盤や回廊の静けさの中に、ひそやかに折り畳まれていました。
しかし、境界の土地は、いつも穏やかでいられるわけではありません。対外戦の圧力、貢納や同盟の駆け引き、そして宮廷内部の派閥と疑念。平和を語る声が「弱さ」とされ、対話が「裏切り」と疑われる瞬間が、幾度も訪れました。本作は、そうした緊張の季節を背景に、言葉と星と、まだ名づけきれない忠誠のかたちを描こうとするものです。
ここに登場する人物や出来事はフィクションであり、歴史上の人物名や出来事に触れる場合も、物語のために配置と関係を組み替えています。それでも、石畳の冷たさや水の音、夜空の澄み方、そして「記録」としての詩が持ちうる硬さだけは、史実が残した輪郭から遠く離れないようにと願いました。 どうか最初の数頁は急がずに。水の反射と星の配置が、ゆっくりと物語の奥へ目を慣らしてくれるはずです。
【第一幕】 星と水の庭
第一場面:薄明の水盤
その夜、アルハンブラの空はわずかに霞んでいた。夕暮れが長く尾を引き、空はまだ青みを帯びていたが、西の端には早くも金星が輝きを放ち始めていた。月は昇っておらず、風は静かに石畳を撫でていた。
アブドゥルはライオンの中庭の柱の陰に立ち、誰にも気づかれぬよう、じっと水盤を見つめていた。星を映すにはまだ早く、今は薄明の色が映るばかりだ。だが、彼の目にはそこに別の光が宿っていた。母ライラが残したあの詩集、その最終頁に記された一行――それが、夕闇の底からじわじわと浮かび上がってくるような気がしたのだ。
「オリオンは、異なる道を、一つにする」 あの言葉が何を意味しているのか、アブドゥルにはまだ分からなかった。けれど、それが単なる詩ではなく、何かもっと深い意志のようなものだと、今日になって突然思えた。まるでその言葉が、今夜の星とともに何かを告げに来るような、そんな予感があった。
「殿下、まもなく詩の会が始まります」 側近の声に、アブドゥルはゆっくりと顔を上げた。中庭の奥では、白い衣を纏った朗読者たちが準備を整えている。誰もが静かで、控えめに談笑していたが、その静けさは仮初めのものだった。宮廷の行事とはえてして、沈黙の中にこそ多くが語られる。
その中で、ひときわ目を引く姿があった。遠巻きに見えるだけだが、ひとりの若い女性が、壁際の柱に身を寄せて星空を仰いでいた。彼女の衣はカスティーリャ風でありながら、その佇まいにはどこかアンダルスの風を含んでいた。風に揺れるその衣が、アブドゥルの視線に引っかかった。
「彼女は誰だ?」 アブドゥルがそう尋ねると、側近はわずかに眉をひそめた。 「キリスト教徒の娘です。ロペス・デ・アルバラード家の…ソフィア嬢。交易貴族の娘で、今宵は詩を朗読するとのことです」
アブドゥルはその名を初めて聞いた。だが、「ソフィア」という音の柔らかさが、何か心の奥に触れるような奇妙な響きを持っていた。彼は再び水盤に視線を戻した。空が少しずつ暗くなり、星の姿がちらちらと現れ始めていた。ライラが星図を好み、星座に詩を紡いだ理由。それが今夜、少しずつ輪郭を見せ始めるのかもしれない。
詩の朗読会は、宮廷の形式に従って始まった。最初の朗読者は、シャイフの老詩人だった。彼の詩は伝統的で敬虔だったが、アブドゥルの心には響かなかった。次々に朗読者が登壇するたび、アブドゥルの胸はどこかそわそわとしていた。期待とは違う、しかし何かを待っている感覚。 やがて、彼女の番がきた。
彼女は名乗ることなく、静かに一枚の羊皮紙を広げた。彼女の声は驚くほど落ち着いており、アラビア語で詩を詠み始めた。
文法は完璧だったが、それ以上に、発音にこもる柔らかな抑揚が、彼女がこの言語にただ通じているだけでなく、深く愛していることを示していた。 「天と地の狭間にて、星の名を呼ぶ 東より西へ、夢のように流るるその輝き 夜の息吹が耳元に告げる―― 星は、真実を知っている、と」
水盤の水が揺れたように、アブドゥルの胸の奥も静かに揺れた。その一節は、彼が幼い頃、母が星図を広げながら呟いた言葉と酷似していた。 その夜、彼は確信した。この娘は、何かを知っている――。母の詩に込められた願い、その続きを。
第二場面:静かな余韻と気づき
朗読会が終わった後も、中庭にはしばらく人々の気配が残っていた。星はすでに水盤の表にも現れ、かすかな波紋を揺らしている。人々は静かに席を立ち、低く語り合いながら、ひとつひとつ、灯の下へと散っていった。 アブドゥルはその場にとどまり、水に映る空を見つめていた。だが、それは星を見るためというより、自分の思考を沈めるためだった。
「殿下」 背後から柔らかな声がした。驚くほど控えめで、それでいて耳の奥にすっと届く声だった。振り向くと、ソフィアが静かに立っていた。衣の襞に残る夜気が、どこか異国の花の香りのようだった。 「詩に…何か、思い当たることがありましたか?」 その問いには、何重もの意味が込められているようだった。詩そのものの感想を問うには、声が低すぎた。だが、それは詩の奥にある何か――星図か、母の記憶か、あるいは別の真実かを探っているようでもあった。
「母が、かつて同じような言葉を使ったのです」 アブドゥルはゆっくりと語った。「“星は真実を知っている”と。幼い頃、よく星図を見ながらそう言っていました。」
ソフィアは静かに頷いた。彼女は何も言わなかったが、沈黙の中に確かな理解の気配があった。彼女もまた、その言葉の重さを知っているのだと、アブドゥルは直感した。 「ライラ王妃の詩は、夜空の中に隠された意志のようですね」と彼女は言った。「あれは…文学ではなく、記録です。時を越えて、何かを伝えようとする記号のような。」 アブドゥルはその言葉に目を細めた。
「あなたは…それを読めるのですか?」 「読むというより、感じ取るのです。私の故郷でも、交易の中で多くの言語や記号に触れました。詩も、星図も、時にそれらは…言葉より正確です。」 彼女の声には、確信と同時にわずかな哀しみがあった。まるで言葉で語られない何かに常に触れてきた者の声。
そのとき、廊下の奥で音がした。金属の擦れるような小さな音。アブドゥルがそちらを見ると、長身の男がゆっくりと姿を現した。鎧の縁に光がわずかに反射する。ハサンだった。 「殿下。夜風は体に障ります。ご婦人との歓談もそこそこに、そろそろお戻りください」 声は穏やかだったが、言葉の隙間にうっすらと冷気があった。ソフィアは一歩、控えめに下がった。
「ご無礼を。朗読の感想をうかがいたく思いましたが、長居をいたしました」 アブドゥルはうなずいた。「詩に…気づかされたことが多くありました。また、話を聞かせてください。」 彼女が去ったあとも、アブドゥルの視線はしばらくその場に残っていた。ハサンはその様子を静かに見ていたが、何も言わず、軽く会釈をしてアブドゥルに背を向けた。
その夜、アブドゥルは眠れなかった。母の詩、星の記録、そしてあの娘の言葉――それらが一つの軸で交差し始めていた。 彼は書庫へ向かい、古びた星図をひもといた。そこには、オリオン座が強調されたものが何枚もあった。日付が記されているものもある。母が最も注目していたのは、十年前の秋、ある特定の夜だった。 「それが……始まりだったのか」 アブドゥルは星図を机に広げたまま、そっと目を閉じた。星が、彼に語りかけようとしているように思えた。
第三場面:王の夜、音のない夢
ユスフ王は、あの詩が耳に残って離れなかった。 すでに夜は更け、周囲の廊下には下がり火が残っているだけだったが、彼はまだ眠りにつく気になれなかった。ライラが最後に残した詩、オリオン座を指し示すような言葉のひとつひとつが、かすかな鈴の音のように脳裏をかすめていた。
部屋の奥には、彼が若い頃から使っていた小さな撥弦楽器、クドゥムが置かれていた。ライラがまだ生きていた頃、よくこの部屋で彼女の歌に合わせて奏でた楽器だった。 王はそっとそれを膝に置くと、弓ではなく指先で弦をはじいた。かすかに鳴った音が、静寂の中に波紋のように広がる。音はすぐに消えたが、その余韻の中で、彼は不意に、十年前のあの夜の夢を思い出した。
夢の中で、彼はアルハンブラの中庭に立っていた。夜は深く、空は星で覆われている。だが空の一部に、大きな穴のような暗がりがあった。星がそこだけ、欠けている。 そこに、ライラが立っていた。白い衣をまとい、手には天球儀のようなものを持っていた。彼女は笑っていたが、その顔はどこかで見たことのある別人のようでもあった。 「星を読めば、わかるわ」 そう言うと、彼女は天球儀の上に指を滑らせ、ある一点――オリオン座の肩にあたる場所を指さした。するとその星だけが強く光り、他の星々がすべて闇に沈んでいった。
王は目を開けた。夢から覚めても、手がまだ楽器に触れていた。弦は静かだったが、耳の奥にはまだ、ライラの歌声の残響があった。 夢だったのか、それとも記憶だったのか。だが、確かなことがひとつある。あの詩は、ただの詩ではない。あれは何かを隠し、そして何かを示している。
彼は立ち上がった。帳簿を見せてほしい、と言おうか。だがそれを求めれば、何よりまず疑っているという意思表示になる。ハサンはすでに警戒を強めている。アブドゥルにはまだ何も話すまい。 代わりに、王はただ静かに、窓を開けた。夜気がふわりと入り、星が空に瞬いていた。 その星空を見上げながら、王は低く呟いた。 「ライラ。そなたは、わしに何を見せようとしておるのか…」
第四場面:沈黙の帳簿
その夜、風は静かで、トレドの街は闇に沈んでいた。どこか遠くで、教会の鐘が鳴ったような気がしたが、音はすぐに空に吸い込まれて消えた。 ソフィアは父の書斎にいた。窓辺の蝋燭の灯が、帳簿の革表紙に影を作っていた。 部屋には、香の名残と紙のにおいが混じっている。昔、グラナダで母と詩を書いていたときと同じ匂いだった。ソフィアは椅子の背に身を預けたまま、父の手元をじっと見つめていた。 ディエゴは何も言わず、丁寧に古い帳簿をめくっていた。紙はかすかに黄色くなっており、どの数字もインクが褪せ始めている。だが、その中に異なる色のインクで記された数行があった。
「ここだ」 父が、低い声で言った。 「ナスル歴725年、十月中旬。小型の荷。‘ヘルバ・デ・エストレージャ’とある」 「星草……ベラドンナの別名ね」 ソフィアは声を潜めて言った。 「送り先の名は?」 「Ibn Zayd――あのハサンの従者だ。書簡もある。だがこれは、我々の正規の取引ではない。私はその頃、グラナダにいなかった」
ソフィアは目を伏せた。掌の中にある世界が、少しずつ静かに傾いていくような感覚。帳簿の文字は冷たく明晰で、誤魔化しようがない。彼女の胸の奥にあった「もしかしたら何かの誤解で」という希望が、帳簿の紙のように淡く褪せていく。
「お父さま……私たちの家は、裏切り者だったと見なされていたのね」 それを口に出すと、思ったより声が震えていた。 ディエゴは何も答えなかった。ただ静かにソフィアの方を見ていた。彼の目には、怒りも悔しさもなかった。ただ、疲れた者が時に浮かべる、諦念に近い優しさがあった。 「私たちが取引していたのは、知識と信頼だった。だが、戦になるとそれはすぐに裏切りに変わる」 ディエゴは淡々と続けた。「その現実が、私にはまだ受け入れられん」
ソフィアは膝の上で手を組みながら、しばらく沈黙していた。心の奥にあった迷い――「もう関わらない方がいいのでは」という、あの夜ごとのささやきがまた浮かんできた。 けれどそれと同時に、ライラの詩の断片が、ふと脳裏をかすめた。 ――星は沈黙し、真実の夜を照らす。 詩を理解するのに、あの庭での朗読だけでは足りなかった。今こうして、証拠がある。あの死が、偶然でなかったかもしれない証拠が。
「お父さま。これ、カスティーリャの和平派に示せるかもしれない」 「まだ早い。言葉と意志が揃わねば、真実もただの疑惑にされてしまう」 「でも、準備だけはしておきたいの。私が……もし、グラナダと向き合うことになるなら」 父は静かに頷いた。そして机の奥から、厚紙の文書入れを取り出した。小さな鍵がかかっていた。 「これは、私がずっと保管していた書簡だ。お前には見せるべき時が来るだろうと思っていた」 ソフィアは鍵を受け取ると、指先でその金属の冷たさを確かめた。そのときようやく、自分の中の恐れが、意志に変わり始めていることに気づいた。
【第二幕】 追放の風
第一場面:王宮の孤独とハサンの影
翌朝、陽が昇るより先にアブドゥルは目を覚ました。だが、それは自然な目覚めというより、体が眠りを拒んだ結果に近かった。昨夜の星図は、今も彼の脳裏に焼きついている。オリオン座の線と、母の書き残した註釈。それが星の導きだったのか、それとも見えない者たちが用意した罠だったのか――彼にはまだ、わからない。
アルハンブラ宮殿の中庭は、いつもと変わらぬ静けさを見せていた。だがアブドゥルの目には、その沈黙がかえって不気味に映った。周囲が、彼を避けている。近衛の若者たちは、目を合わせることなく廊下を通り過ぎた。廷臣たちは、彼が挨拶を投げかける前に、わずかに首をかしげるだけで会釈を済ませていく。言葉は交わされず、足音だけが石畳に残った。
朝の会議――兵站と防衛線の配置について話し合われるべき重要な席にも、アブドゥルには声がかからなかった。かつては彼の意見に耳を傾けた老将軍も、今や目を細めて「体調を崩されたのでは」とだけ言った。それが嘘であることは、アブドゥル自身がよく知っている。問題は彼の身体ではなく、立場だった。
父、王ユスフの顔もまた、どこか険しくなっていた。昨夜、アブドゥルが「和平の道も、星は示している」と言ったときの沈黙――あれは、まるで感情を押し殺すようなものだった。 「お前は星の言葉を信じるのか?それとも、女の声を?」 ユスフは、冷たい声でそう言った。その問いかけに、アブドゥルは答えられなかった。答えれば、何かが壊れてしまう気がした。
そんな中、アブドゥルの元に一人の老従者がそっと近づいた。長年、王家に仕えてきたユダヤ人の書記官――名をイシュハークという。彼は誰にも気づかれぬように、手紙の入った小箱をそっと差し出した。 「殿下。これは……宮廷外の噂でございます。表立って申し上げることはできませんが……」 アブドゥルは手紙を受け取った。羊皮紙の封に、目立たぬ印が押されていた――鷹の爪。それは、ハサン派の間で使われる秘密印と知られていた。中には、ただ短い一文だけがあった。
「若き獅子の目は、星ではなく女に向けられている。王の血筋に傷をつけぬため、手立てを講じるべし。」 アブドゥルの指先が冷えた。噂ではない。これは脅しだ。ソフィアの名は書かれていない。だが明らかだった。宮廷内で彼とソフィアの関係を「軟弱」「国家の恥」と見なす者たちが、動き始めている。その中心にいるのが、将軍ハサンであることも。
ハサンは近頃、父王の傍に居続けていた。軍備の再編、国境線の巡視、そして「宮廷の浄化」と称した改革――彼の言葉は、王の耳にとって日々、心地よい毒となっていた。 アブドゥルは、彼らの目に映る自分が「敵の情婦に心を奪われた男」として映っていることを理解していた。今、王宮の石壁の裏側で、小さな声が編まれている。それはやがて、大きな判断に形を変える。
「ソフィアを、守れるか?」 それがアブドゥルの心に突きつけられた問いだった。過去に追放を止められなかったあの夜――あの時の無力さが、今も胸に沈殿していた。 だが、今度は違う。彼は母の星図を抱き、ソフィアから託された詩集を手に取った。風が、宮殿の中庭に吹き込む。風の音が、まるで遠くから誰かの詩を連れてくるようだった。 「星は、まだ沈んでいない。」 彼はそう呟き、封筒を衣の奥にしまった。敵は、外にはいない。ここに、王宮の中にいる。
第二場面:セビリアの影と光
セビリアの夜には、奇妙な音の粒子が混ざっている。人の声でもなく、風でもない。それはかつて、グラナダの星空の下で聞いた音楽とよく似ていた――どこか切り離され、けれど確かに残っている響き。 ソフィアは、市場の裏手にある古い宿に身を寄せていた。父ディエゴが築いた交易網の一部が、まだこの町に生き残っている。だが、グラナダを追われて以来、名前を出すことは許されなかった。ロペス・デ・アルバラードの娘としてではなく、ただの記録係として、彼女はここにいた。
その夜、帳簿を前にランプの火を落とし、月明かりだけを頼りに一枚の書簡を読み返していた。 ──カスティーリャの港から、香草を仕立てた木箱が出たのは、十年前の秋だった。船はセウタへ、そこからグラナダへ。記録には、受取人としてイブン・ザイドの名が記されている。 その名を、彼女がはじめて見たときのことを、ソフィアはまだ鮮明に覚えていた。朗読会の夜、詩を読み終えた自分に冷たい視線を送っていた男。ハサンの側近にして、書状の差配を担う者。彼の署名が、ディエゴの交易帳簿に残っていた。
あれが、母を殺した毒の始まりだったのかもしれない。ベラドンナ――星草。 採取の時期、流通の経路、そして用途を暗示する書簡の一節。「本品は夜空が低くなる季節に、最も力を持つ。摂取は慎重に。」 これは、薬草商がよく使う文句だが、詩人の目には違う意味に映った。「夜空が低くなる」――オリオン座が天頂を越える季節。母ライラが、あの星を見上げながら何かを伝えようとしていたことが、ようやく繋がってくる。
帳簿の端には、父の筆跡で小さくメモが残されていた。「取引には不安あり。書簡の複製を念のため保管。」 その書簡の複製を見つけたのは、ほんの数日前だった。セビリアの旧蔵書庫――ユダヤ人商人イツハク・ベン・ミリアムの協力があったからこそだ。彼はかつて、父の交易網の一部を支えていた人物。「戦に未来はない」と嘆いた彼の目には、どこかアブドゥルの父、王ユスフの面影があった。 書簡を受け取った日、イツハクはこう言った。「戦うために記録を使うのではない。真実を通すために使いなさい。」
その言葉が、ソフィアの胸に静かに沈んでいた。彼女は一枚の羊皮紙を開く。そこには、星図とともに採取された日付が記されていた。天文学者の目には、その夜空の動きがすぐに見えた。母の星図と一致していたのは、言うまでもない。 アストロラーベを手に、彼女は屋根裏の窓から星を見た。南の空に、オリオンが浮かんでいた。あの星座の中に、母の声を聴くような気がした。 「もうすぐです、アブドゥル。」 声には出さず、唇だけが動いた。彼の手のぬくもりも、声も、もう三年も前のこと。それでも彼女の中には、かつて朗読会の夜に交わしたあのまなざしが、消えることなく残っていた。
そのまなざしが導くように、今も証拠を一つずつ集めている。 敵は、王宮の奥にいる。ハサンが動いている以上、アブドゥルの立場も危うい。だからこそ、彼女が先に手を打たねばならなかった。 もうすぐ和平使節が出る。彼が来る。その場で、真実を伝え、戦争を止めるために。星は、すでに軌道にある。
第三場面:帳簿の夜
セビリアの冬は、静けさを装って忍び寄る。石畳を踏む音さえも、霧の中に溶けるように、柔らかく響く夜だった。 その夜、ソフィアは不安に押されるように、父のもとへ向かっていた。ディエゴは、古い蔵書庫の一室を借り、残された帳簿の整理をしていた。証拠となるあの一冊――イブン・ザイドの署名が残る帳簿と、その写し。 父の手が震えていたのを、昨日見たときから胸騒ぎが消えない。「遅くまで起きていてはいけない」。
そう言いながら、父は夜な夜な帳簿を見返していた。あれは、ただの記録の整理ではなかった。おそらく、心の中で何度も自分を問うていたのだ。この記録を提出することで、再び戦が起きるかもしれない。だが、黙っていれば、和平の未来が歪む。
扉を叩こうとして、ソフィアの手が止まった。建物の内から、小さな物音がした。話し声ではない――押し殺すような、軋む足音。一瞬の沈黙の後、乾いた音が響いた。何かが倒れ、誰かが息を飲んだ気配。 ソフィアはとっさに影に身を潜めた。路地裏から裏口へ回り、静かに扉を押す。鍵は外れていた。階段を登ると、かすかな灯りと、押し殺された呻きが聞こえる。父の声だ。 「お前の記録が、グラナダの平和を壊すとしたら、それでも書き残すか?」 低く、冷えた声が部屋の奥から響いた。声の主は、ハサンの部下である黒衣の男――ファーティフだった。その背後には、二人の兵が立っている。顔には覆面。目だけが鋭く光っていた。
床に膝をついているのは、ディエゴ。頬には傷が走り、胸元の帳簿が乱れている。しかし手は、それを決して放していなかった。 「その帳簿はどこだ」ファーティフが問う。 ディエゴは、ゆっくりと口元に血を拭いながら答えた。「お前たちは真実を恐れている。だからこそ、これは――守らねばならぬ。」 男がディエゴに一歩近づく。ソフィアの心臓が鼓動を早める。扉の隙間から見える帳簿。父の背後、引き出しの奥に押し込まれている。 そのとき、天窓の外に何かが通った。夜警の鐘の音が、遠くで鳴る。兵士たちが一瞬、耳をそばだてる。
その一瞬を逃さず、ソフィアは引き出しへ駆け込んだ。手を伸ばし、帳簿をつかむ。 「止まれ!」 叫びが上がり、兵士が手を伸ばすが、ソフィアは素早く横に転がり、狭い壁の間をすり抜ける。後方でファーティフが短剣を抜く音。 「ソフィア――!」 父の叫びが背を打つ。彼女は建物を抜け、夜の路地へ飛び出した。兵士の足音が追ってくる。しかしセビリアの夜は複雑で、道は幾重にも枝分かれしている。
彼女は、かつて母と歩いた小径へと走り込んだ。あのとき、母は空を見上げて言った。 「真実を守る者は、いつか孤独に耐えねばならない。けれど、星はそのすべてを見ている。」 その言葉が、息切れする胸に蘇る。数分後、彼女はようやく灯りの消えた倉庫に身を潜めた。震える手で帳簿を抱く。ディエゴの手の温もりが、まだそこに残っている気がした。 父を助けられなかった自責と、奪われなかった証拠の重みが、ソフィアの胸に沈む。今や、敵は動いた。もう、和平交渉の場に遅れは許されない。
第四場面:声を持たぬ者たち
朝の光が差す前、セビリアの町に一筋の鐘の音が響いた。それは祈りの始まりではなく、裁きの時を告げる音だった。 ソフィアが目を覚ましたのは、その直前だった。夢の中で父の声を聞いた。低く、ひどく疲れた声だった。「誰かが言わねばならない。だれも言わぬのなら、わたしが……」。その声は途中で途切れた。 冷たい朝の空気が、彼女の背を震わせた。父が捕らえられたという報せは、夜明けとともに届いた。街の広場の近く、小さな公文書所に連行されたと。表向きの理由は“反グラナダ的発言”――和平交渉を扇動した疑い。だが本当の理由は明らかだった。帳簿をめぐる証拠潰し。ハサン陣営が、ついに表に動いたのだ。
それでもソフィアは泣かなかった。祈りのような沈黙の中で、手紙と文書をそっと箱に納める。彼女は、目の前の恐怖に目を逸らさなかった。震えながらも――星が導く方角へ、足を進めようとしていた。
同日午後、セビリア旧市街・サンタ・マリア修道院。小さな礼拝堂の奥、ひときわ質素な部屋で、ソフィアは沈黙の中にいた。対面するのは、カスティーリャ王宮の和平派として知られる老貴族――ドン・フアン・デ・ナバーロ。白髪と深い皺に覆われたその顔は、しかし鋭い観察眼を曇らせてはいなかった。 「……あなたの父上が捕らえられたとな?」 ソフィアは、短く頷いた。「捕らえられました。和平交渉を“危険思想”と結びつけて。けれど本当は……帳簿のことです」
彼女は書類を差し出す。精密に写された交易記録、ベラドンナの出荷日、イブン・ザイド宛の符号、そして星図の注釈。 「これは、グラナダの王妃・ライラ様が残された星図です。毒が混入された時期と、王妃が記録していた星の配置が一致しています。そして――私の家の帳簿に、その同じ日時に同じ薬草が、特定の人物宛に出荷された記録がある」 ドン・フアンは書類をゆっくりと読み進めながら、静かに言った。「あなたのような若き女性が、こうして戦の背後に潜む“論理”を持ってくるとは……時代が変わりつつあるのかもしれん」
「時代が変わる前に、人が死にます」ソフィアは声を低くした。「父も。アブドゥル殿も。王たちも、無用な血に目を塞がれたままです。でも私は、帳簿と星を照らし合わせることができます。そして、“事実”がある限り、和平の可能性もあります」 ドン・フアンはしばらく沈黙し、やがて微笑のようなものを浮かべた。 「……よろしい。あなたは話すに値する“証拠”を持っている。交渉の場を、我々が準備しよう。あなたと、あなたの父のためにも。そして、まだ戦っていない者たちのために」 ソフィアは頭を下げた。彼女の頬には汗とも涙ともつかぬ滴が残っていたが、その目には確かな決意が宿っていた。
その夜、修道院の屋上にて。屋上からは、冬の星がはっきりと見えた。彼女はアストロラーベを手にしながら、記録を見直す。星々は、変わらぬ秩序でその位置を示している。ライラがかつて「予言のように」残した星図――オリオンの傾き、秋の入り、そして毒草の採取時期。 「これは、ただの空ではない」彼女は独り言をつぶやいた。「これは、母の言葉であり、父の証であり、未来への地図なの」 星は語る。けれど、語らせるには「声」が要る。彼女は今、その声になろうとしていた。
【第三幕】 星の導き
第三章:再会と決意
前夜:薄闇の中の時間
石の冷たさは、不思議と時間の感覚を奪う。どれほどの時が過ぎたのか、彼にはもう分からなかった。壁の苔が乾いたかと思えば、また濡れている。それだけが、一日の経過を示す目印になっていた。 何もない空間に横たわっていると、不意に思い出すのは、小さな娘が縁側で星を指差していた夜のことだった。
「あれが、ベテルギウス?」「違うよ、ソフィア。それはアルデバランだ」「でも、赤くて明るいよ?」「……そうか、君の目にはそう見えるのか」 細い指で夜空をなぞる娘を、彼は静かに見守っていた。その姿は、まるで彼女の母――ロサが、若き日の夢をもう一度描いているようだった。知識への渇望と、世界に向けたまなざし。グラナダに暮らすにはあまりに“鋭利すぎる”ものだった。
そして彼は、もう一つの記憶に触れる。それは王妃ライラとの邂逅。十数年前、まだ若かった頃。和平の“火種”が生まれるよりずっと前。彼女はある夜、取引の席を辞して彼にこう言った。 「あなたは敵でも味方でもない。けれど、“星の言葉”を理解する人間だ」「娘に、それを教えてあげてください。男たちが剣を磨く時、誰かが空を見上げていなければ」 その言葉が、今日までの指針となっていた。
だが今、彼は暗い牢で独りだった。――本当に正しかったのだろうか? ソフィアに“危険な知”を手渡し、娘が戦いの渦に巻き込まれてゆくことを、彼はどこかで恐れていた。だが、もう戻れない。すべては、彼女に託されている。
やがて牢の扉の向こうで、看守の足音が止まる。差し入れの紙と墨が滑り込む。彼は、それを静かに手に取ると、筆を持った。 「ソフィア、 星はすでに動き出している。それを読むことができるのは――お前だけだ。」 闇の中で、墨の音だけが、かすかに響いていた。
第一場面:夜明けよりも前に
中庭の泉は、今夜も音を立てていた。月の光を受けて揺らめく水面が、まるで誰かの眠りのように浅く、絶えず脈打っている。アブドゥルは宮廷の回廊をひとり歩いていた。足音が、石の床に確かな音を落とす。 出立は夜明け前。父王ユスフには正式な許可を得たが、それは和解の印ではなかった。王は、目を逸らすように「任せる」と言っただけだった。ハサンの一派は沈黙を守っている。アブドゥルが出立したあと、誰が何を企てるかは分からない。だが、それでも行かねばならない。
王妃の間を横切るとき、彼の視線は壁に掛けられた刺繍に留まった。そこには、星々と詩の文句が織り込まれていた。母・ライラが、まだ健在だった頃に自ら刺したものだ。 「剣を携えずとも、民を守る方法がある――」 文字は、やや褪せていたが、それでも美しかった。彼はその前に立ち止まり、ほんの短い祈りを胸に捧げた。 ソフィアの顔が浮かぶ。あの夜、朗読会の終わりに振り返った彼女の表情。言葉にできなかった問いと、告げられなかった約束。
それが、今も彼の心の中に残っている。 「星が導くなら、また会える。」 それは夢のような言葉だった。だが、現実の中で支えになっているのは、夢だけだ。彼女は、カスティーリャの地で何を見つけたのだろう。ライラの死の真実を、彼女は知ったのだろうか。帳簿、交易、星図――それらは今、彼らを再び交差させようとしている。
出立の時刻が近づいていた。馬を静かに準備する音が、外の厩舎からかすかに聞こえる。アブドゥルは、マントを肩にかけながら、ふと部屋の隅の小箱に目をやる。母の残した星図帳が、そこにある。彼は、それを手に取り、荷に加えた。 「母上、あなたの見た空の続きを、私は見に行きます。」 グラナダの夜は静かだ。だが、その静寂の奥には、確かに戦の気配がある。剣を交えぬまま終わる道があるとすれば、それを探すのが自分の使命だ。そう、アブドゥルは信じていた。
彼が最後に振り返ったとき、王宮の窓に一つだけ灯りが残っていた。そこにはユスフがいたのかもしれない。それとも、ただの見間違いだったのか。どちらにせよ、彼は振り返らずに歩き出した。 星は未だ、雲の奥にあった。だが、彼は信じていた。その向こうに、道があることを。
第二場面:静けさの裏側
その夜、セビリアの空は曇っていた。だが、風はなく、まるで何かが息をひそめているような、重たい夜だった。 ソフィアは屋敷の中庭で、アストロラーベの小さな針を調整していた。星が見えない夜でも、彼女は星図を脳裏でなぞることができた。オリオン座は、今ごろどのあたりだろうか――それを正確に答えられる知識が、かえって心をざわつかせる夜だった。 「――まだ、正確に覚えているんですね。」 その声がしたとき、ソフィアは顔を上げなかった。ただ、胸の奥で何かが鳴った。 「覚えていなければ、来なかったわ。」
小さな答えだったが、それが互いの距離を埋めた。アブドゥルは庭の柱の陰から現れた。黒の外套を肩に羽織っていたが、その下の姿勢は疲労と緊張に満ちていた。それでも、彼は昔と変わらない歩き方をしていた。一歩ごとに、何かを確かめるような歩幅。 「カスティーリャに入るとき、心配だった。君が――もう、いないのではと。」 「それは、私のほうも同じ。」 ソフィアは微笑もうとしたが、口元は揺れただけで終わった。アブドゥルが数歩近づいたとき、夜の香りが混じった。雨の前の匂い。懐かしい、グラナダの石畳を思わせる。
「見つけたの。ベラドンナの記録。父の帳簿には、確かに書かれていた。カスティーリャ西部の港から、グラナダへ。送り先は――イブン・ザイド。」 アブドゥルは、言葉を呑み込んだように、一度目を閉じた。 「やはり、ハサンか。」 「あなたが来てくれてよかった。でなければ、これを渡す術がなかった。」 ソフィアは、小さな布に包んだ書簡の束を差し出した。アブドゥルはそれを両手で受け取った。重さはなかったが、明らかに重かった。封を切らず、彼は懐にしまった。
「母上が、かつて言った。“剣を持たずに戦える日が来ると信じなさい”と。…それを、今、信じていいのかは、まだ分からない。」 「信じるしかないのよ。そうでなければ、私たちは何のためにここまで来たの?」 沈黙が訪れた。中庭の小さな噴水の音だけが、二人の間を流れた。星は出ていなかった。けれど、それを必要とする者たちは、星のない夜にこそ光を探す。
「明日、交渉に臨む準備はできていますか?」 「いいえ。でも、行くしかない。」 「それで十分。」 そう言って、ソフィアはようやく彼の顔をまっすぐに見た。アブドゥルの瞳は、グラナダの夜と同じ色をしていた。彼の表情に、まだ若さの影が残っていることが、なぜか安堵を与えた。 「星は見えないけれど――」彼女が言いかけると、アブドゥルが続けた。 「でも、今は君が見える。」 夜の奥から、教会の鐘が一つ、低く鳴った。それが、交渉前夜という現実を静かに告げていた。
第三場面:交渉の朝
石畳の上を歩くたび、靴の底から硬い音が返ってきた。それは足音というより、どこか遠い記憶を叩く音のようだった。 朝のセビリアには、薄く霧がかかっていた。大聖堂の尖塔は半分ほど霞に包まれ、まるで空に溶けかけているように見えた。鐘の音は、霧を割ることなく、鈍く空に消えていった。 ソフィアは、アブドゥルの横に歩いていた。彼はほとんど何も話さなかった。それでも、彼の右肩がわずかに緊張しているのを、彼女は知っていた。同じように、彼は彼女の手が書簡の束に触れたまま離れないことに気づいていたかもしれない。
交渉の会場は、旧セビリア王宮の一室に設けられていた。石造りの廊下、アラベスク模様の壁装飾、そして誰かの咳払い――宮廷という空間が本来持つべき荘厳さではなく、どこか臨時の、不完全な場の雰囲気がそこにあった。和平の席にふさわしいのかどうか。いや、ふさわしさなど、最初からどこにも存在しないのかもしれない。 ソフィアは、会場に足を踏み入れる前に一度立ち止まり、空を仰いだ。霧の向こうに星は見えない。それでも彼女の中には、星図が広がっていた。母から預かった詩の一節と共に。
「星は、声なき者の言葉を照らす。」 室内には既に、カスティーリャとグラナダ双方の使者が席についていた。年老いた貴族たちが咳払いを繰り返し、若い書記官たちが羊皮紙を束ねている。そして部屋の奥には、アブドゥルの父、ユスフの代理である老宰相――そしてその背後にひっそりと、ハサンの名を帯びた従者が立っていた。 ソフィアは一瞬、胸の奥が冷たくなるのを感じた。あの従者の名前は帳簿にあった。ベラドンナを運んだ者。その背後にいた男――ハサン。
「ご準備は?」 声をかけたのは、和平派のカスティーリャ貴族・ドン・ガブリエルだった。白髪を丁寧に結い、銀の留め具をつけた上着を纏っている。彼の眼差しには、ソフィアの家に対する深い敬意と、慎重な期待が込められていた。 「はい、すべてここに。」 ソフィアは書簡の束を胸元の革袋に押さえた。彼女の声は震えていなかった。それは、震えを超えたところにある静けさ――かつて父が、追放前の夜に言った「本当に怖いとき、人は静かになるものだ」という言葉を思い出させた。 アブドゥルはソフィアに目を向けた。まるで「もう行こう」と声に出さずに言ったような眼差しだった。彼女はうなずいた。交渉の席に向かって、二人は歩き出す。
第四章:真実の開示
第一場面:帳簿と星図
部屋はしんと静まり返っていた。それは沈黙というより、「何かが起こること」を誰もが知っている場の空気だった。 石造りの会議室に、朝の日差しがようやく差し込んでいた。重々しい天井のアーチをかすめ、窓辺のモザイク模様を床に映し出す。色とりどりの光の粒が、ちょうどアブドゥルの手元を照らしていた。 その手には、母の詩集があった。そして、その横でソフィアはゆっくりと革袋から一束の書簡を取り出していた。まるで花のつぼみをひらくような、静かで確かな動きだった。
「この帳簿は、我が家――ロペス・デ・アルバラード家が保持していた交易記録です。」 ソフィアの声が、部屋の静けさを割った。淡々とした口調だが、言葉の一つ一つが深く、重く響いた。アブドゥルは、彼女の横顔を見つめていた。彼女の目は恐れていなかった――怒ってもいなかった。ただ、そこには揺るぎない確信があった。
「このページをご覧ください。」 一枚の紙を広げ、グラナダの使者団に見えるよう差し出す。 「ここには十年前、カスティーリャから輸出された植物――その中にベラドンナが含まれています。送り先は、グラナダの“イブン・ザイド”。これはナスル朝のハサン卿の従者にして、王妃付き侍従としても知られた人物です。」 部屋の一角で、誰かが低く息を呑んだ。 「この書簡は、その取引に関する確認書です。受領の署名は確かに――イブン・ザイド。」
その名が出た瞬間、アブドゥルの中で何かが決壊した。母の死が、ついに線で繋がった。ライラの遺した星図。その夜空に刻まれたオリオン座の配置。詩集に残された「毒草が夜を裂く」――あれは比喩ではなかった。 「それは偽造だ。」 グラナダ側の一人が、机を叩いた。声の主は――ハサンの若い従者。どこかで見た覚えがあると、アブドゥルは思った。彼が子どもの頃、宮廷の裏手で目をそらした青年だった。
「偽造ではありません。」 ソフィアが言った。静かに。 「この筆跡は、グラナダ宮廷の書記局のものと一致しています。また、この書簡は複写され、カスティーリャ側の記録にも残っています。」 彼女の言葉に、カスティーリャの和平派がうなずいた。ドン・ガブリエルが一歩前に出て、静かに一言。「確かに、我が方でも一致を確認しています。」 一瞬、部屋の空気が沈黙した。だがそれは、形を変えた重力のように、今やハサンの側へ傾き始めていた。
アブドゥルは静かに立ち上がった。手に持った詩集を開き、一節を読み上げた。 「星は欺かず。夜に咲くものの名は、いつか必ず明かされる。」 母の遺した言葉が、ついに現実と繋がった。彼は視線をソフィアに送り、彼女もまたうなずいた。 「我々は、王妃の死を覆い隠すために戦を続けるのではありません。」アブドゥルは言った。「戦の裏にあった陰謀を正し、星の下に共に生きる方法を選ぶべきです。それが、母の遺志であり、私たちがなすべきことです。」 部屋の端で、誰かが静かに手を打った。そして、初めて、グラナダの高官の一人が、席を立ちアブドゥルに頭を下げた。
第二場面:影の裂け目
ロウソクの灯が三度、ゆらいだ。風は吹いていない。それでも、その小さな炎が絶え間なく揺れていたのは、この部屋にいる誰かの息が荒かったせいかもしれない。 ハサンは黙って座っていた。窓は開かれていない。外は夜だ。月は細く、雲が流れ、グラナダの城壁を時折白く照らす。 部屋の奥に、老書記官、従者、そして警護の者がひそかに集められていた。アブドゥルとソフィアの提示した証拠――交易帳簿と署名入りの書簡――それが、宮廷内にどれほどの波紋を投げかけたか、皆わかっていた。
「このままでは我らが終わる」老書記官が低く言った。声は震えていた。「署名は本物でしょう。しかし…それは、あの男の軽率さだ。イブン・ザイドが死んでいなければ、こうはならなかった」 ハサンはまだ沈黙していた。その瞳の奥には、感情が一切ないように見えた。それがかえって、従者たちの不安を掻き立てていた。 「……証拠を消すには、手段が限られている」従者の一人が言った。「だが、あの女――ソフィア――さえいなくなれば、星図も帳簿もただの紙切れです」 「ソフィアを排除することは、今の状況では難しい」書記官が口をはさんだ。「彼女は和平派に守られている。アブドゥルとも結託している。下手を打てば、我らが逆賊として告発される」
ハサンはついに、指先で椅子の肘掛けをゆっくりと叩いた。コン、コン、と、規則的に、ほとんど時計のように。 「和平が成立する前に、もう一手打つ。」 その声は、以前のように鋭くはなかった。むしろ、凍てついた井戸の底から響くような、低く湿った音だった。 「アブドゥルは甘い。ライラの名に囚われ、民のためだの、星の下でだの――夢に逃げている。だが夢は現実を変えない。現実を動かすのは力だ。力を持つ者が国を支える。私が、それを教えてやる。」 一瞬、部屋に静寂が戻った。だが、その静けさは平穏ではなかった。
「和平交渉が終わる夜――その夜が、我々の動く時だ」 従者たちが、顔を見合わせる。「どのように?」 ハサンの声は短く答えた。「星図が証拠になるなら、空を暗くすればいい。証拠があるなら、それを燃やせ。言葉が人を導くというなら、その舌を封じろ。」 沈黙。 「……暗殺か?」誰かが問いかけた。声はかすれていた。
ハサンは微かに目を細め、立ち上がった。 「反逆を未然に防ぐ――それが忠義だ。これは王のためだ。未来の、真のグラナダのためだ。」 そして、彼は最後にひとつだけ言った。「“王子”を除けば、跡継ぎは白紙になる。ソフィアが王妃になれば、外の血が混じる。私は、それを認めない。」 部屋の奥の闇が、ひときわ深くなったように見えた。そしてその闇のなかで、誰かが静かに扉を閉じた。その音が、夜の始まりと、終わりを告げた。
第三場面:火に近づく者たち
空はまだ暗く、星々が静かに瞬いていた。オリオン座の三つ星が、天頂に差し掛かろうとしていた。その星を見上げながら、ソフィアは胸の内のざわつきを抑えていた。何かがおかしい。 昨夜から、貴族館を出入りする使いの者の数が増え、何人かが不自然に彼女の部屋の前を通り過ぎた。廊下に響く足音の速さと、扉の軋む音――それらは明らかに、ただの使用人の動きではなかった。
彼女はそっと帳簿の複製を革袋に詰め、ライラの詩集と星図を、衣の奥に忍ばせた。「交渉の場には、本物ではなく複写を持って行くわ」小声で呟きながら、机の引き出しに本物の帳簿と原書簡を戻す。 そのとき、扉の向こうに小さな音――針で布を裂くような、細く鋭い音が走った。鍵が、開けられている。ソフィアは即座に灯りを消し、部屋の奥に身を引いた。数秒後、黒衣の男が二人、忍び込んでくる。無言。顔を隠し、刃を手にしている。
彼女は息を殺し、心臓の音までも抑え込もうとした。だが、その鼓動は耳の奥で不気味な太鼓のように鳴り響いていた。男たちは机へ向かい、帳簿を探る。「書簡があるはずだ」と一人が低く囁いた。 その隙に、ソフィアは奥の壁の細い戸棚をそっと開け、床下へと続く隠し通路へ足をかける。ディエゴがセビリアの家に仕掛けた、唯一の退路だった。(父を、今は守ることはできない。でも、証拠だけは)その思いだけが、恐怖を押しとどめていた。 彼女は暗闇のなかを進み、背後で扉が軋む音を聞いた。男たちは帳簿の複製を持ち出した。だが――それは罠だった。
同刻、アブドゥルは詩集の間に挟まれた紙片を眺めていた。それは、ソフィアがかつて渡した――星図と日時の対照表。ライラの星図と一致する夜の記録。オリオンが最も明るくなる時刻。(その時刻に何がある?) 交渉は明日だが、なぜか、ハサンの側近たちが不穏に動いている。侍従の一人が急に姿を消し、通信役の兵も配置を変えられた。そして何より、ユスフ王が今夜、突然体調不良で退いていた。 医師の報告は曖昧。しかし、アブドゥルは知っている――ハサンが毒を用いることを。 彼は即座に部屋を飛び出し、和平派の護衛に合図を送る。「ソフィアの部屋へ!今すぐに!」
ソフィアが通路から顔を出した瞬間、反対側から駆けてきたアブドゥルと目が合った。息を切らし、驚きと安堵が入り混じる表情。 「無事か!?」 「複製だけ盗られた。本物は…ここにある」彼女は胸元から革袋を見せた。 その瞬間、遠くで叫び声――ユスフの部屋で何かが起きた。 「父上だ!」アブドゥルが走る。ソフィアもそれを追う。
王は倒れていた。しかし毒は即効性ではなかった。彼はかすかに目を開け、アブドゥルを見つけると微笑んだ。「……母の、星の…声が……」 アブドゥルは父の手を取り、静かに言った。「和平を、必ず……。あなたの夢も、母の願いも」 背後で、ソフィアが医師に指示を出す。「彼は軽い中毒状態。葡萄酒に微量のアトロピン。だが、解毒は可能。星草の知識を使って、処置します」
王の目に、わずかに光が戻る。そして、王の隣にいた侍従が拘束される。「ハサンの命令です。王の不在を装い、明日の交渉を混乱させる計画だった」真実が、静かに表に出はじめた。
星々は語らない。ただ、誰が空を見上げるかで、その意味が変わるだけだ。ソフィアとアブドゥルは、その夜、一つの火を消し、別の火を守った。だが、炎はまだ、どこかで燃えていた。闇の奥深く、ハサンの最後の一手が、静かに息を潜めていた。
第五章:星の裁定
第一場面:星が示すもの
空は薄青に染まり、昨夜の緊迫を知る者にだけ、その静けさが異様に感じられた。アブドゥルは議場の石廊をゆっくりと進んでいた。その歩みに宿るもの――覚悟。背には剣ではなく、巻かれた羊皮紙と帳簿があった。 大理石の柱が連なるその広間には、グラナダとカスティーリャ双方の使者たちが集まり始めていた。
カスティーリャ側には和平派の貴族、そしてその後方に控える一人の女性――ソフィアがいた。彼女の手にも、星図と証拠の書簡が握られていた。 ハサンもそこにいた。白い長衣に身を包み、どこか冷えた笑みを浮かべながら。彼はユスフ王が病に伏せたとの報告を信じ、今日の交渉の混乱を予期していた。 だが――そのとき、議場の扉が静かに開き、ユスフ王が現れた。やや蒼白ながらも、気高い足取り。そして王座へと直ちに進み、アブドゥルとソフィアに一瞥を与える。「……始めよう。星が高く昇ったなら、言葉を交わすのに十分だろう」
議場に緊張が走った。アブドゥルは、言葉を選びながら語り始めた。 「我々は争いの代価を、何度も血で学んだ。だがそれでも、剣にばかり頼ることが、答えだっただろうか?」彼は手にしていた羊皮紙を掲げる。「ここにあるのは、十年前の夜に描かれた星図。母ライラが、暗殺される夜に記した星の位置。そしてそれと一致する、ある薬草の出荷記録だ」 ソフィアが静かに一歩前へ出る。革袋から帳簿と書簡を取り出し、王の前の石卓へ置く。「これは、我が家の交易記録。ベラドンナ――俗に“星草”と呼ばれる毒草の輸出記録です。送り先は、グラナダの貴族:イブン・ザイド」
議場がざわめく。ハサンの顔に、わずかな陰が差す。アブドゥルは、ハサンに目を向けた。「この記録が示すのは、毒の流れ。そしてそれを手にした者の名。宰相ハサンの最側近であり、和平を最も拒絶してきた人物――彼が手配した毒が、母の命を奪った」 ハサンが立ち上がる。「戯言だ。キリスト教徒の偽証に過ぎん!」 だが、すぐに別の男が進み出た。それは、昨夜捕らえられた王の侍従――
彼はひざまずき、顔を伏せた。「……宰相の命で、昨夜、王に微量の毒を……。混乱を演出し、交渉を潰すために。すべては、和平を妨げるため……でした」 重い沈黙。その場の空気が、まるで石になったように凍りついた。
ユスフ王は静かに立ち上がり、視線をハサンへ向けた。「十年のあいだ、我は何を見ていたのか……。忠義の衣の下に潜んだ裏切りを、見抜けぬほど愚かだったのか」 その声に、力が戻っていた。「ハサンを、拘束せよ」 近衛兵が動き、ハサンの白衣に手がかかる。彼は一度だけ、アブドゥルとソフィアを睨みつけ――それきり、言葉を発さなかった。
その後の交渉は、静かだった。カスティーリャ側は和平の条件を受け入れ、交易の再開、知識の共有、国境の緩衝地の設定――穏やかな未来を目指す条約が結ばれた。アブドゥルは、母の遺志を継ぎ、ソフィアは、父の名誉を守りぬいた。星は、彼らの上に変わらず瞬いていた。
星の名は、人の言葉では決められない。けれど、そこに込められた願いだけは、何かを導く灯火になり得る。ライラの残した星図は、ただの記録ではなかった。それは、沈黙する母の遺言であり、息子とその傍らに立つ者だけが読み解けた、平和への航路だった。星が語るなら、それはきっと――剣よりも静かに、けれど確かに、世界を変える言葉になる。
間章:静かなる刃
アルハンブラの回廊に、静かに冷気が戻っていた。冬の兆しだった。和平の調印式から数日、王宮では祝賀の準備が進んでいた。しかし、アブドゥルは何かを感じていた。言葉にならない、ただの勘では済まされないもの――足音のない不穏。
その夜、かつてハサンの配下にいた者たちが集まっていた。場所は城外のサクロモンテの丘、洞窟の奥にある古びた倉庫。彼らは皆、名も階級も失った者たち。だが、忠誠心だけはまだ刃のように鋭く残っていた。 「和平など幻だ。奴らは宮殿を売り、民を異教に差し出すつもりだ」「アブドゥルは女の言葉に惑わされた。血を継ぐ者なら剣を取れ」「……ユスフが死ねば、あとは誰が止める?」 その言葉に、誰かが一枚の羊皮紙を広げた。王の寝所への通路図。そして、その隣にはアブドゥルの執務室の簡略な見取り図。すでに、侵入の準備は進んでいた。
その翌日、ソフィアは星図の見直しをしていた。和平が結ばれた今、宮廷図書室の使用が許されていた。窓辺に差す午後の光の中で、ある書簡が目に入る。カスティーリャ滞在中に受け取った匿名の情報提供――「宮廷内に、まだ牙を隠した者がいる」。その筆跡が、幼い頃に学んだ修道士のものに似ていた。 彼女はふと立ち上がる。ディエゴの言葉が蘇る。「知識とは、剣が届かぬ場所で戦うための盾だ」
その夜、アブドゥルはライラの星図を手に、王の間に向かっていた。新しい年の暦を父に渡すためだった。回廊に足音がない。不意に、背後から風を裂く音。振り返ると同時、黒装束の男が飛びかかってくる。だが――男は次の瞬間、音もなく崩れ落ちた。アーチの陰から現れた衛兵に取り押さえられたのだ。 ソフィアの手配だった。彼女は匿名の書簡と、自らの推理で、宰相派の残党の動きを読み切っていた。アブドゥルはただ呆然と見ていた。その手には、母の星図。血に濡れかけたが、寸でのところで守られていた。
事件は未遂に終わった。残党は粛清され、グラナダ宮廷に再び秩序が戻る。だが、アブドゥルは知っていた。「和平」とは一度の調印で終わるものではない。それは、不断の意志と監視によって保たれるものだ。 夜明けのライオンの庭で、ソフィアと並んで立つ。音のない噴水に、うっすらと朝焼けが映っている。 「ありがとう、ソフィア。君がいなければ、また血が流れていた」 彼女は小さく首を振った。「いいえ……星が導いてくれただけよ。そして、誰かがその光を見逃さなかった。あなたが。」
争いの火は、時に見えない土の中で燻る。だが、そこに風を吹き込まなければ、いずれ消える運命にある。アブドゥルとソフィアが選んだのは、火に火を返す道ではなかった。その選択こそが、和平という脆くも尊い橋を支えていた。星は見ていた。幼き頃、母と見上げた空のあの星々が――今も、等しく、すべての民の上に輝いていた。
【第四幕】 和平と誓い
第六章:誓いの夜
第一場面:光の果てに(結婚式)
その夜、アルハンブラ宮殿の空は、信じられぬほど澄んでいた。まるで年月の埃が風に洗われ、かつてこの地を歩んだ者たちの祈りが、天に届いたかのように。月は満ち、星々は深い青を透かして瞬いていた。
ライオンの中庭の大理石は、夜露をまといながら銀のような光を返していた。そこに静かに、人々が集う──和平を願い続けた者たち、戦を望まなかった人々の影が、光と闇の境に佇む。 アブドゥルは、白を基調とした礼装に身を包んでいた。母ライラの遺した星図が刺繍された外套は、彼が自ら仕立てさせたものだ。静かにその場に立つ彼の横顔には、かつての少年らしさと、歳月に削られた強さが同居していた。
彼の視線の先、アーチの向こうから──ソフィアが現れた。その姿は、まるで星明かりが地に降りたようだった。淡い銀糸の刺繍が施されたドレスは、天文図を思わせる繊細な文様を描き、彼女の動きとともに微かに揺れた。その髪には、かつてアブドゥルが贈った星をかたどった飾りが添えられていた。 一歩ずつ進むたび、彼女の足元に夜が花開くようであった。その目は涙に濡れていたが、それは悲しみではなく、ひとつの時代の終わりと、新たな時の始まりを見つめる光だった。
「この夜空に、約束したね」彼女は小さく囁いた。「星が導くなら、また会えるって。」 アブドゥルは微笑んだ。その言葉を、何度も夢の中で反芻したあの夜々が、すべてこの一瞬のためにあったのだと──彼は、母の詩の一節を、そっと口にした。
「オリオンは、異なる道を越えてなお、夜空にて寄り添う──」 ふたりの前で、和合を祝う詩人が朗読を始める。カスティーリャの言葉とアンダルスの言葉が交互に紡がれる。まるで二つの川が合流し、大いなる流れとなって世界を潤すように──。
祝福の音楽が、ゆるやかに流れた。ナイの笛、リュート、そしてキリスト教の聖歌隊が奏でる和声が、幾世紀の断絶を超えて溶け合う。 宙では、星々が何も語らず、ただ静かに瞬いていた。アブドゥルとソフィアは、言葉ではなくその光を共有することで、今を分かち合った。 平和とは、戦の終わりではない。それは、異なる者たちが互いを理解しようとする、長く静かな旅の始まりである。そしてその旅路の第一歩を、この夜──彼らは共に踏み出したのだった。
第二場面:祝宴――影と灯のあいだで
ライオンの中庭から人々が引き、祝宴の場はナスル朝の迎賓の間へと移された。広間には銀灯が吊るされ、果実や香草が飾られた長卓が並び、香が静かに焚かれていた。絹と黄金に包まれた貴族たちの笑声があがるなか、それぞれの思惑が、音の下に潜んでいた。 カスティーリャの特使、ドン・エルナンド・デ・サンタクララは、杯を掲げた。頬はやや赤らみ、朗らかな笑顔の下に、長い外交経験が磨いた眼差しが宿る。 「この婚姻と和平のために、アンダルスとカスティーリャは、星の導きに従いましょう。ソフィア嬢、そして……アブドゥル殿、我が友よ。」歓声があがる。
だがその背後では──ナスル朝の老貴族ムハンマド・ブン・ハーリドが、静かに盃を置いた。その白髭は祝宴の灯に照らされるが、その目は凍りつくような冷静さで、客人たちを眺めていた。 「和平とは、刀を鞘に納めることではなく、鞘そのものを削ることだ」そう呟いた言葉は、誰にも聞こえないように吐かれた。彼の傍らには、若き騎士たちがひそかに控えていた。彼らのうち数名は、かつてハサンの私兵として仕えた者──まだ心に火を残した者たちだった。
祝宴の奥、控えの間にて。ソフィアはアブドゥルと肩を並べ、父ディエゴと和平派の要人たちと言葉を交わしていた。父の顔はやややつれていたが、その眼差しには長年の交易で鍛えられた落ち着きが戻っていた。 「交易の再開には、まず港の再整備が必要です。マラガ、そしてアルメリア。ユダヤ人商人との連携も再び強化できましょう」ディエゴの言葉に、アブドゥルは頷いた。 「星を観るには、夜を恐れてはならない。父がそう言っていた」と彼は呟くように言った。 「そして、影の動きにも耳を澄ませねばなりません」ソフィアがそっと付け加える。
そのとき、密かに部屋の隅で控えていた宮廷の文書官が、アブドゥルに小さな巻物を差し出した。そこには、和平に反対する貴族が、秘密裏に兵を集めているとの密書が記されていた。差出人は不明。 アブドゥルは静かに巻物を巻き直し、ソフィアに視線を送った。彼女はわずかに顎を引き、理解の印を返した。 「祝宴の終わりが、戦の終わりとは限らない──ですね」ソフィアの声は、静かな水面のようだった。 「いや、これは始まりだ。共に歩む旅の」アブドゥルは彼女の手をとり、月光の差す庭を見やった。 その空には、オリオンがはっきりと輝いていた。だがその傍らには、未だ雲に隠れた星もあった。
第七章:影の記章
アルハンブラの一角、ユスフ王の旧執務室として知られる小さな間が、現在はアブドゥルとソフィアの私的な謀議の場となっていた。窓の外にはグラナダの街並みが広がっているが、そこには祭りの残響ではなく、ただ冬の静けさが横たわっていた。 ソフィアは天文机の引き出しから、小さな封蝋つきの文書を取り出す。「昨夜、港の警備責任者が交代させられていたわ。理由は『病気』とあったけれど、あの人はこの春にまで元気に狩りに行っていたはずよ」 アブドゥルは黙って巻物を受け取った。封を割き、中を確認する。その筆跡は──古く、しかし覚えがあった。「これは……ムハンマド・ブン・ハーリドの私印だ」 老貴族。かつてハサンと密接に動いていた影の長老。彼が今も、背後で糸を引いているのだとすれば──。
「兵の移動も確認されたわ。しかも、地方に隠していた傭兵の記録もいくつか」ソフィアは帳簿をもう一冊開く。「昨年の収穫祭の時期と、書簡の発信日が重なっている。彼らはあの時、次の戦の資金集めを始めていたのよ。和平が成立するずっと前に。」 アブドゥルは深く息を吸い、椅子に身を預けた。「つまり、彼らは今の和平が成功することすら想定し、その破綻を待っている。あとは……引き金を誰が引くか、だ。」 沈黙。だがその沈黙は、決して無力ではなかった。
その夜、ソフィアは宮廷書庫の地下階層にいた。そこにはユダヤ人文書官とともに、ハサン時代の密書の記録がひそかに保管されていた。 「この紋章……見て。あの密書と一致するわ」指先で示したのは、古い金の封蝋。「サンタ・クララのカスティーリャ側貴族と、ハサン派が秘密裏に繋がっていた可能性がある。和平の内部から破ろうとしているのよ」 文書官は青ざめた顔でうなずく。「もしこれが証明されれば、サンタ・クララは外交的に破滅します。カスティーリャ国内でも立場を失うでしょう」「その前に、私たちの命が先に狙われる可能性もあるけれどね」ソフィアは笑ってみせた。だがその目に、怯えはなかった。
第一場面:暗殺未遂――星が告げた夜
その夜の星は、奇妙な沈黙を宿していた。アブドゥルはそれに気づいていた。書斎で文書に目を通していた彼のもとへ、ソフィアがそっと入ってきたのは、夜が深まりきる頃だった。 「星の動きが変だったの。西の空に、ふだん現れるはずのない星が……早すぎるのよ。」 アブドゥルはペンを止めた。ソフィアの勘は、いつも正しかった。
それは天文学者としての冷静な分析であり、同時に詩人としての第六感でもあった。 「今夜はここにいて」 そう告げた直後、音もなく扉の外で影が動いた。次の瞬間、吹き矢が窓から放たれる。アブドゥルが身をかがめ、ソフィアが手元のアストロラーベで反射的に動きを遮る。 小さな火打ち石の火が放たれ、警備兵が駆けつける。矢は書棚に突き刺さっていた。毒の香りがわずかに漂う。犯人の影は逃げた。が、その痕跡は残された。 「印章……」矢筒の一部に残された、かすれた封蝋。ムハンマド・ブン・ハーリドの家紋が、確かにそこにあった。
第二場面:青年将校たちとの対話
翌朝。アブドゥルは、アルハンブラ宮の奥、鍾乳洞を模した会議室に数名の青年将校を集めた。 「我々は、剣を抜かずに勝たねばならない。星のように、忍耐と計算で……それが母の教えだった。」 青年の一人が口を開く。「しかし、殿下。やつらは我々を殺しに来ています。手をこまねいているうちに、和平は──」 アブドゥルはそれを遮ることなく聞き、やがてゆっくりと口を開いた。「だからこそ、証拠が要る。暴力では、和平は瓦礫になるだけだ。お前たちは、我々が『正義』に立っていたと、百年後の者たちに語れるか?」 沈黙。だが、それは理解の静けさだった。青年たちは黙ってうなずいた。
第三場面:糾弾の場
午後、王宮の**光の間**で行われた評議にて、ソフィアとアブドゥルは、ついに決定的な証拠を公開した。壇上に置かれたのは、ハサン時代の密書、暗殺者の矢筒、偽装された交易帳簿。そして──ムハンマド・ブン・ハーリドの直筆の書簡。 「これは十年前、カスティーリャとの密貿易において、ハサン派が資金調達していた証です」ソフィアの声は静かだったが、部屋の全員が息を呑んだ。「我々の和平交渉が進むたびに、彼らは暗殺と策謀で破壊を試みてきた。
その結果、アル=ライラ──アブドゥル殿下の母君──は毒で命を落としたのです」 重い沈黙。アブドゥルは壇上に立ち、目を閉じて言った。「わたしは復讐のためにこれを語らない。ただ、母が信じた道を、汚してはならないからだ。」 王と評議会の面々は、静かにうなずいた。ハサン派の残党は粛清され、ムハンマド・ブン・ハーリドは追放。和平は揺らぎの中で、しかし一歩、堅く踏み出された。
第四場面:光は沈黙のあとに(セビリア再交渉)
だが平穏は長くは続かない。ソフィアのもとに、セビリアから一通の文が届いた。 ──「我々は裏切られた。グラナダとの密約は虚偽だったのか?」 差出人は、かつて父ディエゴと交易していたカスティーリャ貴族。どうやら、ムハンマド・ブン・ハーリドの最後の策が偽情報としてカスティーリャ側に伝わっていたようだ。 「彼らを説得しなければ、再び火がつくわ……」アブドゥルは短く言った。「行くのか」 「ええ。私一人でも、行かなければ」ソフィアの目は揺れていなかった。「でも、できればあなたと一緒に──」彼は、ためらいなくうなずいた。
セビリアの風は、いつもより乾いていた。アブドゥルとソフィアが到着した翌朝、宮殿に響くのは剣戟ではなく、交わされぬ言葉の気配だった。「敵は剣ではなく、沈黙の中にいるようだな……」アブドゥルは低くつぶやいた。 カスティーリャ王エンリケ三世の廷臣たちは、以前よりも明らかに冷淡で、歓迎の式典も縮小されていた。ある者は目を合わせず、ある者は露骨に「偽りの和平」の噂を漏らした。その原因は、グラナダから送られたとされる偽の文書。──カスティーリャ軍の動向を密告する裏切りの書簡──。 それがムハンマド・ブン・ハーリドの手によって流されていたと、ソフィアは確信していた。
「そなたたちは、和平の顔をして、こちらに刃を突きつけていたのではないか?」王の側近である老宰相フェルナンド・デ・ビリャグティアは、交渉の場でそう言い放った。 アブドゥルはわずかに眉を上げたが、声は乱さなかった。「その書簡は、我が宮廷でも偽文として断じられました。我々が誓ったのは母の血を越える和平です。なぜ、その言葉が疑われるのか──」 「言葉が、どれほどの意味を持つか、我々は歴史の中で知りすぎてきたのだよ」宰相の声は低く、そして疲れていた。 沈黙。
そしてその中で、ソフィアが立ち上がった。「宰相殿、ではこうしましょう。あの書簡の筆跡と印章、それを、トレドの大学の筆跡鑑定士と、セビリアの印章彫刻師に見せましょう。事実が言葉を照らすまで、剣を抜くのはおやめください」
三日後。トレドからの使者が報告を携えて到着した。「その文書は、筆跡も印章も、かつて失脚したハサン派のものと一致いたします。……グラナダ王家によるものとは断定できません」 再び開かれた会議の中で、アブドゥルは立ち上がった。「もし我らが再び剣に訴えるなら、それは死者の声に耳を貸すことだ。母ライラが命を賭して残したのは、剣ではなく、星だった。わたしはその星を信じる。そして──」彼はわずかにソフィアに目をやった。「──この地の者たちが、闇の中でも歩み寄る力を持つと、信じている」
夕刻、ソフィアとアブドゥルは人目を避け、かつての星図を広げていた。「今夜は見えるわ。東の空にオリオン。母上が描いていた星の並びと、全く同じ……」 「見守ってくれているのかもしれないな」アブドゥルは囁いた。「我々がここまで来たことを」 「だけど、ここで止まってはいけない」ソフィアはそっとアブドゥルの手を握った。「和平は一夜では築けない。何年も、何世代もかけて、言葉と信頼で育てなければ」 彼はうなずいた。「では始めよう。父としても、王としても、詩人の息子としても」 そのとき、セビリアの空に、ほんのわずかだが星が瞬いた。それはまるで、母ライラの遺した祈りのようだった。
【第五幕】 星降る庭にて
第八章:平和の光景
第一場面:市場と宮廷、詩人たちの復興
アルハンブラの東、旧市街の市場に、ほのかにシナモンとオレンジの香りが混ざって漂っていた。和平の宣言からすでに三ヶ月。戦の噂は、今ではパンとオリーブの価格の話題に取って代わられていた。 「おや、あんたのオイルは前よりずっと香りが深くなったじゃないか、ユダヤのご主人」「そりゃあんた、戦が終わって道が開けば、北アフリカから上等なオリーブが運ばれてくるさ。昨日はアルメリア経由でな」
そんなやりとりの横を、詩人アブドゥルが歩く姿があった。彼は王でありながら、時折一人でこの市場に姿を現す。近衛も従えず、書簡も携えず、ただ静かに人々の声を聞く。「なぜお忍びで?」かつて側近が問うたとき、彼は笑ってこう言った。「王が詩人であるなら、王宮ではなく街のざわめきに耳を傾けるべきだろう」グラナダの風は、確かに変わり始めていた。
王宮の庭園では、再び詩の朗読会が催されるようになった。ユスフ前王が用いていた陰影に満ちた「赤の間」は、今や若い詩人たちの声で満ちている。ソフィアの提案により、朗読会にはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の詩人が隔たりなく招かれるようになった。 ある午後、若き詩人がこう詠んだ。 星は誰のものでもなく 声もまた、誰の旗の下にはなびかない だから我らは、風と歌をともにする 壁の中ではなく、空の下で その詩を聞いた老書記官が、そっと目元をぬぐったという。
それは、かつて詩を語れば処罰される恐れすらあった時代を思い出してのことだった。「ようやく、言葉が剣に勝つ時代が来たのかもしれませんな」ソフィアはその言葉を聞き、ひととき沈黙し、やがてゆっくりと頷いた。
宮廷の奥、書庫では、古文書の修復が続いていた。アラビア語、ラテン語、ヘブライ語──かつては秘密裏に読まれていたそれらの書が、今では書記官たちの手で解読され、子どもたちの学びの場へと届けられようとしていた。 「女官様、これは……これは昔、王妃ライラ様がお読みになっていた文では?」「ええ、あの方が星を見ながら書き込まれていた本ね。今は、王子殿下の手にありますわ」 そのやりとりを聞いていたソフィアは、言葉少なに微笑んだ。
王子──アブドゥルとソフィアの間に授かったその子は、まだ言葉を話さないが、時折、夜空を見上げては何かを探すように指を差した。「母上も、ああして星を眺めていたのですね」とアブドゥルが言ったとき、ソフィアはそっと答えた。「ええ。星は、人の心の記憶を映すものですから」
だが、すべてが順風というわけではなかった。宮廷の最も外縁、城壁に近い古びた塔の影では、夜ごとに焚き火が灯された。かつてハサンの側近であった者たちの、名を伏せた集会。 「和平は毒だ。王は母の幻影に酔って、剣を手放した」「だが、民はパンを得た。戦を望まぬ者は多い」「ではその者たちに、再び飢えを思い出させてやればよい……」その会話は風に紛れ、誰にも聞かれることはなかった。だが、空に浮かぶ星は、確かにそれを見ていた。
第二場面:月のない夜に、沈黙がひそむ
アルハンブラ宮殿の南、宮廷の育児院に近い一角に、小さな池があった。王子が生まれてからというもの、王と王妃はその池のそばでしばしば幼子をあやし、星の名を教えた。だがある夜、星のない月闇の下、その池のほとりに一つの影が立った。 「この子は、グラナダを変えてしまうだろう。母の言葉、父の夢、そのすべてを体に刻んで」声は囁きのように低く、砂を踏む音さえしなかった。その男は、かつてハサンの親衛に属し、いまは名を捨てて地下に潜っている者の一人だった。「だが、未来がそれで良いとは限らん。平和の果てには、弱さしか残らんのだ」 彼の視線は、遠く育児院の灯火に向いていた。
影の中で、もう一つの影が近づく。細身の男――かつてイブン・ザイドの右腕だった策士。 「王子を攫い、国外へ逃がすのは困難だ。だが、“象徴”を喪わせるだけで、充分な混乱をもたらせよう」「見せしめか?」「いいや、“予兆”だ。火は、静かに燻る灰の中から起こる」
「最近、育児院の周囲で、見知らぬ足跡がいくつか発見されました」報告を受けたソフィアは、瞬きもせずに言った。「それは、夜ですか? 星のない夜?」報告官は驚いた顔でうなずいた。ソフィアは静かに立ち上がり、王の間へと向かった。 「アブドゥル」彼は星図を開いていた手を止め、顔を上げた。「気づいているな?」「はい。王子に、動きがある」 「私たちは戦いに勝ったと思っていた。でも、火はまだ完全に消えていなかったのね」アブドゥルはゆっくり頷いた。
「争いは、城壁の外では終わっても、人の胸の奥では残る」 「それでも私は、あの子に“星の名”を教え続けるわ。争いではなく、名を与えることが未来を作るから」 二人のあいだに沈黙が流れた。やがて、アブドゥルは剣を持たずに立ち上がった。「剣ではなく、心で守る。母の教えを、今こそ試す時だ」
その夜、育児院では“偶然”を装って王子が外庭へ出る段取りが取られた。闇の中、誘い込まれた刺客は、ただのひとりの乳母に近づいた。その乳母は、実際にはソフィアの侍女であり、アラビア語もラテン語も解する宮廷警護の一員だった。 男が短剣を抜いた瞬間、その背に、静かな一撃が走る。姿を現したのは、アブドゥルの忠臣であり、かつてハサンに近かった者――「改悛の衛士」ことマリクだった。
「グラナダに再び、影を落とさせはしない」 男は口を開きかけ、何かを言おうとしたが、返された言葉はただ一つ。「おまえの時代は、もう終わった」男は倒れ、やがて王子の眠る部屋へと静けさが戻った。
翌朝、アブドゥルとソフィアは、何事もなかったかのように王子のそばにいた。「眠ってるわ」「夢を見ているだろうか」「何の夢?」アブドゥルは答えなかった。だが、王子の指が、無意識に夜空を指していた。「星を、夢に見ているのよ」ソフィアはそう言い、王子の額にそっとキスを落とした。 外では、早くも新しい朝市の準備が始まっていた。民衆は知らなかった。その夜、王子が狙われていたことも、王と王妃がひそかに命を懸けて守ったことも。だがそれでよい、とアブドゥルは思った。平和とは、知られざる場所で守られ、静かに続いていくものなのだと。
第九章:世代を越えて
第一場面:風がやむ前に
謁見の間ではない。玉座も、衛兵も、文官たちの囁きもない、ひとつの小さな部屋――アルハンブラの奥、**桃の間**と呼ばれる、名もなき静謐の空間だった。そこに、かつての王と、今の王が向かい合っていた。
窓は細く、夕の光がゆっくりと壁を染めている。風がわずかに入る。乾いた石の香り。 「久しいな、父上」アブドゥルは膝を折ることはしなかった。王としてではなく、息子として、ただ対面していた。ユスフは、老いを認めぬように沈黙したまま、かつて自ら描いた星図を指先でなぞっていた。「星は動いている。だが、目に見えぬほどゆっくりだ」「ええ。ですが、確かに進んでいます」 長い間、父は言葉を選ぶように黙していた。やがて、ゆっくりと、遠い記憶をなぞるように言った。
「私は若い頃、剣で道を切り拓けると思っていた。詩も、学問も、文化も、王国の礎ではなく、飾りに過ぎぬと。だが、ライラは違った」アブドゥルは静かにうなずく。「私は、彼女を失ってから初めて、彼女が王国を見ていた目の高さを知った。そしておまえが、その続きを歩もうとしていることも」 「父上は、私の選択を…否定しますか?」 「否定はしない。だが理解できるかは分からぬ。私は戦で人を動かすことしか知らぬ男だ。おまえのやり方は、星を見るように、私には遠すぎる」 「けれど、父上が遺してくれたこの宮殿も、星を映す水面も、すべてが証です。剣が築いた石の上に、ようやく詩が根を張り始めた」 ユスフは目を閉じた。「かつて、夢を見た。剣ではなく、言葉と学びが王国を守る未来を。だが私は、その夢を自分の手で潰した」「ならば今、夢の続きを…我らが継ぎます」
部屋の奥に、ひとつの香炉が置かれていた。ユスフがかつて遠征から持ち帰ったもので、中にはセビリアから届いた香草が焚かれている。「ソフィアの力か?」「はい。彼女がいなければ、和平はなし得ませんでした。そして今、民の心に詩と星が戻りつつあります」「その子は…王子は、どんな目をしている?」「母に似ています。けれど、どこか…父上にも」ユスフの口元に、微かに笑みのようなものが浮かんだ。「ならば、その子には…未来を見せてやれ。父のようにならぬように」アブドゥルは立ち上がり、深く一礼した。王ではなく、息子として。「星が導く限り、私は進みます」
アブドゥルが部屋を去ったあと、ユスフはひとり、立ち上がった。老いた体に鞭を打ち、窓辺に歩み寄る。そこには、薄桃色の夕光に照らされたグラナダの街。遠く、詩人たちの声。市場の喧騒。静かに揺れる、王国の呼吸。「ライラ、おまえの見た夢は、まだ消えてはおらぬようだ」彼は窓を開け、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。その瞬間、遠くで**アザーン(礼拝の呼び声)**が、空を裂くように響いた。それは、祈りの呼びかけであり、変わらぬ時のしるしであり――彼が、かつて手放したはずの希望の、かすかな音でもあった。
第二場面:星の庭にて(学び舎の設立)
かつて宮廷の陰謀に翻弄され、追放されたソフィアが、再びグラナダの土を踏んだとき、彼女は一つの願いを胸に抱いていた。それは、争いではなく「言葉で人を守る術」を、次の世代に残すこと。 和平の成立から数年後、アルハンブラの丘のふもと、古い交易路の脇に、小さな学び舎が建てられた。かつて薬草を運んだ荷車が通った道。星を記した帳簿が焼かれ、真実が封じられかけた場所。今はそこに、子どもたちの声が満ちる。 「星を見るときは、沈黙も言葉のひとつよ」ソフィアは、まだ幼い生徒に静かに言う。その声音には、いくつもの別れと、越えてきた壁の記憶が重なっている。
木陰に設えられた石の円卓のまわりで、子どもたちがそれぞれの母語で詩を読み上げる。アラビア語の少年は、空の広さを詠み、ロマンス語の少女は、春の陽だまりを描く。ヘブライ語の老教師は、「沈黙に耳を澄ませ」と書かれた古詩を紹介する。それぞれの言葉が、互いを遮るのではなく、重なり合って響く時間がそこにはある。「剣ではなく、ことばで城を築け」それが、ソフィアが母ライラとアブドゥルから受け継いだ信条だった。子どもたちは、その意味を、音を通して学んでいた。
月に数度、丘の上の星の台へ登る。そこには、アブドゥルが修復を命じた大理石の観測台があり、ソフィアの手によって磨かれたアストロラーベが、星を待っていた。「この道具で、未来を読むの?」ある少女が尋ねた。「いいえ、未来は読めない。でも、夜の中に秩序を見出すことはできる。星の道筋が、私たちに静けさをくれるの」そして、星を見上げる小さな顔々のなかに、かつての自分を見ることがある。「オリオンは、今宵も歩いているわ。争いを超えてね」星の光は誰にも等しく届く。それを、争いの道具にせず、調和の記号として教える。それがこの学び舎の天文学だった。
ある日の午後。壁に貼られた世界地図を前に、十人の生徒が輪になっていた。「今日は、互いの違いについて話しましょう」ソフィアは、あえて穏やかな口調で話を始めた。「好きな食べ物、歌、祭りのことでもいい。けれどそれが、あなたを特別にするのではなく、誰かと繋げる鍵になることを、今日は学んでほしいの」子どもたちは、自分の言葉で、自分の背景を語る。誰も嘲らない。なぜならここでは、「知らないことを恥じるより、学びたいと思うことが大事」だから。ユダヤの少年が、アンダルシアの旋律に合わせてラビの祈りを歌い、ムスリムの少女が、その旋律に合わせて詩を詠む。それを見守るソフィアの目には、わずかに涙がにじんでいた。
学び舎の石壁には、古いアラビア詩の一節が刻まれている。「風が争いを運ぶとき、星は沈黙し、詩がそれを記す」ソフィアは、それを生徒に解説しながら、ふと遠くを見た。そこには、アブドゥルと王子――もうすぐ12歳になる少年が、宮廷からこちらを見下ろすように歩いていた。王子は、かつて母が語っていた星図を持ち、ここで天文を学ぶという。「母の教えを、ここで受け継ぎたいのです」と。ソフィアは微笑み、かつてのユスフ王の言葉を思い出す。「夢は、受け継がれるときに初めて、現実になるのだ」そのとき、彼女の心に、確かに聞こえた。風の音のない、静かな夜の音。争いを越えたあとの、ほんとうの沈黙。それが、学び舎の屋根にそっと降りてきた瞬間だった。
第三場面:風の夜に残る灯
星の庭は静寂に包まれていた。だが、その夜の空はどこか重たかった。かつてソフィアとアブドゥルが共に設立した「学び舎」は、今やグラナダ全土から生徒を迎える教育の中心となり、詩と天文学、交易学、異文化理解を教える場所として広く知られていた。だが、王都の北東、山岳地帯のひとつの要塞で、旧ハサン派の末裔を名乗る集団が蜂起。王子――いや、今や新たな王・マフムードの治世に不満を抱く一部の貴族や軍人が、再び「血による正統性」を唱え始めていた。「知識より剣、詩より血筋」。かつての亡霊が、再び言葉を武器に蘇ろうとしていた。
学び舎を守る存在もまた変わっていた。ソフィアとアブドゥルは、王としての務めに専念し、教育の現場は若き教師たちに任されていた。その中心にいるのが、二人の愛弟子にして教え子――詩と記憶の継承者レイラ、天文学と地理学を修めたイサーム、元孤児で翻訳を学ぶマルコ。彼らは、争いが終わった時代に生まれ、平和が常にあるものだと思っていた。だが、風は変わりつつあった。
ある夜、山岳の一団が学び舎を襲撃する。目的は、王家の知識庫を焼き払うこと。「詩や星図など不要、剣を持たぬ民に未来はない」と叫ぶ者たちが、火矢を放ち、壁を破ろうとする。 教師たちは生徒を避難させる。レイラは、地下の石室に詩集と星図を移し、イサームとマルコが脱出経路を星座を頼りに導く。炎が迫るなか、レイラが言う。「祖母ソフィアが守ったものを、今、私たちが繋ぐのよ。星は逃げない。だから私たちが進むの」火の夜が明けたとき、学び舎の一部は焼失したが、知識は守られた。そして、レイラたちは決意する。「私たちが新たに築こう。星はまた、昇るから」
グラナダ宮廷では、老いたアブドゥルが沈痛な面持ちで報を受ける。かつてソフィアと立てた石碑が、部分的に崩れたという。だが、そこに刻まれた詩の一節は、無傷で残っていた。「詩を奪われても、語る声を持て。星を覆われても、夜は必ず明ける」 王子――今の王・マフムードもまた学び舎を訪れ、焼け残った図書館のなかで語る。「私の母は、剣ではなく知恵で国を守った。その母の名が刻まれたこの場所は、どんな王宮よりも尊い」そして新たな命令を出す。学び舎を拡張し、星図と詩を誰もが学べる**「四つの言葉の塔(アラビア語、ロマンス語、ヘブライ語、ベルベル語)」**を築くと。
レイラと仲間たちは、塔の完成を見届けながら、自らも教える立場に立つ。空は、再び澄んでいた。子どもたちが集まり、火に焼かれず残ったアストロラーベを囲みながら話す。「この道具で、未来がわかるの?」と、かつてと同じ問いがあがる。「未来は誰にもわからない。でも、自分の進むべき方角なら、星が教えてくれる」と、レイラが答える。星は変わらずそこにあり、それを見る目と、語る言葉が次世代に継がれていく限り、争いが再び訪れても、知恵は生き続ける。
【終章】 永久のアルハンブラ
第十章:星の子らへ
第一話:星の観測者(カリマの章) カリマは、学び舎「アル=ヌジューム(星の館)」の天文塔でひとり、星図に新たな点を記しながら、祖母ライラの名を小さく口にした。「星は、人を照らすだけじゃない。記憶を映す鏡なのかもしれないわね」 その夜、彼女は知らなかった。遠くカスティーリャの旧領で、ある使者が再びグラナダを訪れようとしていることを。ある日、カリマのもとに一人の若者が現れる。フリアン・デル・マル。カスティーリャ貴族の落胤と名乗る青年で、かつての和平使節団の末裔を称していた。「あなたの祖母が残した詩を、トレドで見つけました。……これは、真実を隠すための詩ではない。導くための星図です」
第二話:双剣の子(ナディールの章) ナディールは祖父ディエゴがかつて使っていた交易商館の書庫に、まだ薄い髭の顎を撫でながら腰を下ろしていた。書架の上には、半ば風化した革装の帳簿、古いアラビア語とラテン語が交錯する貿易協定、そして一通の手紙。「ナディールへ。君がこの手紙を読む日、きっと再び剣を取るべきか否かで悩んでいることだろう」―祖父アブドゥルより。 ナディールの腰には、異なる意匠の剣が2本、交差して帯びられている。一本は、祖父アブドゥルの佩剣「ライオンの爪」。もう一本は、母ソフィアがカスティーリャより贈られた騎士剣「星の誓い」。ナディールは剣術の達人ではなかった。だがこの双剣は、彼に問い続けた。「お前は、どちらの道を選ぶ?」
第三話:言葉の橋を架ける者(マルコの章) マルコは、最初はただの「写字生」にすぎなかった。学び舎の書庫の一隅。陽光が射し込む午前の机で、インク瓶と羽根ペンを前にし、彼は黙々と書き写す。アラビア語からラテン語へ。ラテン語から古カスティーリャ語へ。それが彼の全てだった。だが、彼の耳は鋭かった。彼の目は、行間の「沈黙」を読むようになっていた。「語られた言葉は、翻訳できる。だが、黙された言葉は、どう訳せばいい?」ソフィアのかつての教え――「沈黙の翻訳者になりなさい」――が、彼の耳に残っていた。
第四話:忘れられた地図(ファティマの章) ファティマは、学び舎の書庫で育った。母はかつて星を見つめていた女性だったという。父は名もなき建築師。ファティマ自身は、生まれたときから「誰かの記憶の断片」として見られていた。だが、彼女は記録されることを拒んだ。むしろ、記録の「すきま」に生きることを選んだ。幼い頃、彼女は一枚の紙を見つけた。それは地図だった。だが、都市も山も川も記されていない。ただ、円と点と線だけが描かれた、奇妙な図。傍らに、筆跡の異なる注釈。「この地図は、まだ誰も歩いていない道を描くもの。」ファティマは、その時から夢を見始めた。
最終章:星のもと、詩のうたうところ
夜が静かに、アルハンブラの石壁を包んでいた。遠くシエラ・ネバダの尾根が月光に照らされ、霜のように白く輝く。その冷ややかな美しさは、かつてこの地に繰り返された血と炎を、静かに沈めるようでもあった。風は、バラとオレンジの花を揺らす。グラナダ王国は今、新たな季節を迎えようとしていた。 テラスの欄干にもたれ、アブドゥルは空を仰いでいた。白くなった髭を風がなでるたび、彼の目には何か、遠いものが映っているようだった。「……また一つ、季節が巡ったな」そうつぶやいた背後から、やわらかな足音が近づく。ソフィアだった。
彼女は淡い藍色の衣をまとい、星を縫い取ったストールを肩にかけていた。その髪には白銀が混じっていたが、目は今も彼を照らす星のように澄んでいた。「今の若い子たちは幸運ね」ソフィアはそっと言う。「学び舎では、剣ではなく言葉を学んでいる。天文と詩を。あの子たちは、もう争いを知らない」 アブドゥルは、静かに笑った。
「それを、俺たちが選んだのだ」「剣の代わりに、声を」「壁の代わりに、門を」 しばしの沈黙のあと、ソフィアは語りかける。「でも、いつかまた風向きが変わるかもしれない。そう思わない?」 アブドゥルはうなずいた。「そうだろうな。だが……そのときも、言葉の火が残っていれば、いつかまた夜は明ける」二人は黙って、空を見上げた。オリオン座が、まさに天頂に昇ろうとしていた。それはかつて、ライラが最後に遺した星座。「心で守る星だ」と、母は言った。
その時、彼方から音楽が聴こえてきた。それは学び舎で催されている夜会の音??リュートと笛と詩の朗誦が、宮殿の高台まで届いていた。「……行こう。あの子たちの言葉を聞きに」ソフィアはそっと手を差し出す。アブドゥルは、その手を取ると微笑んだ。まるで、初めて出会った夜のように。
数時間後、アルハンブラ下の広場??夜会の庭には、若き詩人や天文学徒が集まっていた。モサラベの娘がアラビア語の詩を歌い、ユダヤの少年が星座の逸話を語る。言語も信仰も違えど、彼らの目は同じ星を見ていた。一人の少年が前に出て、紙片を広げる。彼はアブドゥルとソフィアの息子??王子だった。彼は、まだ幼さの残る声で、はっきりとこう朗読した。「詩が語るなら、剣はいらぬ。星が示すなら、壁はいらぬ。我らの地は、対話の地。父と母が、その証を遺した。」拍手が静かに、しかし確かに広がっていった。アブドゥルはソフィアの方を見た。彼女は静かにうなずいた。やがて王子の声がまた響く。「争いは終わった。しかし、平和は始まったばかりです。今度は、言葉の火を消さぬよう、我らが守る番なのです??」
夜が深まる。かつて剣と炎が交わったグラナダの大地に、今は詩と星の声が響いている。アブドゥルは目を閉じた。夢の中で、母が微笑んでいる。詩を愛し、星を見ていた母。彼女の教えが、この夜を生んだのだと、彼はようやく心からそう思えた。「星が導くなら、また会える」 そして彼は、静かに言った。「母上、星は今も照らしています」
(了)
あとがき
――星を辿る、あなたへ
この物語を、ここまで共に歩んでくださったあなたへ、心からの感謝をこめて。 『グラナダの星図』は、14世紀ナスル朝の最後の輝きを背景に、「言葉は剣よりも強くあり得るのか?」という問いを軸に描かれた架空の歴史物語です。 史実を下敷きにしながらも、そこに息づくのは、実在した誰かではなく、「争いの時代に言葉と知を信じた人々」の普遍的な魂です。
アブドゥルとソフィア、詩と天文学、グラナダとカスティーリャ。この物語で交差したすべての名前には、「異なるものが共に生きようとした記憶」が宿っています。 物語の途中、幾度となく陰謀と戦争の闇が立ちはだかりました。けれどそれでも、彼らは剣を抜くのではなく、空を仰ぎ、紙に言葉を綴りました。そうすることで、文化や宗教の違いさえも越えて、未来への道を築こうとしました。
もしこの物語の中に、一行でも、一節でも、あなたの胸のどこかに静かに残るものがあったなら??それだけで、この灯はもう少しだけ長く、夜の中にとどまれるはずです。
創作の余白で ──『アルハンブラ物語』を描き終えて この物語を書き始めたとき、私はただ、星の下で交差するふたつの文化の「気配」のようなものを描きたいと思っていました。明確な筋書きよりも、まず空気──石の冷たさ、夜の帳、そして沈黙の中に交わされる視線。そうした曖昧な手触りを、物語というかたちで編んでいけたらと願っていたのです。 ライラという女性の面影は、初めからありました。けれど彼女の遺志を継ぐ者が、アブドゥルとソフィアというかたちで現れるまでは、少し時間がかかりました。とりわけソフィアの輪郭は、何度も霧の中から現れては消えていき、そのたびに彼女の声に耳を澄ませ、言葉を拾い上げる作業を繰り返しました。彼女はとても静かな登場人物ですが、その静けさの中に確かな火を持った女性として、最終的に形作られた気がします。
そして気づけば、これは「和平」の物語になっていました。争いの只中にあって、それでもなお、語ること・書くこと・教えることに未来を託す人々。星を読み、詩を紡ぎ、沈黙を恐れずに歩む彼らの姿が、現代を生きる私たちにとってどれほど強い希望であるかを、書きながら何度も感じました。
創作は、時に孤独な行為です。でもこの物語は、決してひとりで歩いてきたわけではありません。対話を通じて物語が深まり、忘れかけていた情景や感情が呼び起こされ、私の想像の枠を超える風景が次々と立ち現れました。
もしこの作品にどこか豊かさや奥行きがあるとすれば、それはその「対話」から生まれたものです。 紙の上で世界をつくることは、どこかで「もう一つの歴史」を書くような行為でもあります。アルハンブラの石の下に、語られなかった詩が眠っていたとするなら──それを拾い上げ、いま一度紡ぎ直してみる。それがこの物語の原点だったのかもしれません。 最後まで読んでくださった方へ、心より感謝を込めて。
──作者より




