バラの花をあなたにあげる
その街にいるあいだ、女優は広場に面したホテルに泊まっていた。
女優は美しく、絹のような肌に宝石のような目をしていた。
瀟洒なホテルの、いちばん上等の部屋。
女優は優雅な動作で窓辺に歩み寄ると、細くしなやかな腕を伸ばして、窓に手を添えた。
「重くてあかないわ……」
女優は呟き、風に揺れる柳のようにうしろを振り向いた。
そこには粗末な身なりの絵描きが、イーゼルの前の椅子に腰かけていた。
女優は絵描きに自分の絵を描かせていたが、じっとしていることに少し退屈した。
勝手に席を立っても、絵描きは一度も文句を言わなかった。
女優は、そんな絵描きに笑みを見せた。
絵描きは貧しい男だったが、女優に負けないくらい美しかった。
陶器のような白い肌を持ち、目の色は明るく、唇は牡丹の花の色をしていた。
綺麗なものが好きだった女優は、この街で見つけた美貌の絵描きに声をかけ、装飾品のようにそばに置いた。
「志郎、窓をあけて」
志郎と呼ばれた絵描きは、パレットと筆を置き、従順に女優のもとへ歩いていった。
そして両開きの窓に手をやると、外へ向けていっぱいにひらいた。
「ありがとう、志郎」
女優は嬉しそうに、わずかに少女っぽい仕草で笑うと、年下の絵描きの肩に寄り添った。
「志郎はなんでも出来るのね」
女優は絵描きの腕に自分の手を絡め、広場を見下ろした。
石畳の広場では、花屋が花束を抱えて通りかかり、中央の噴水には鳩が遊んでいた。
「ねえ志郎、あの花屋が見えて?」
女優が指差して絵描きに言った。
「あの花屋が持ってるバラ、なんて綺麗なのかしら」
「バラが好きなんですか?」
「ええ、とても」
綺麗なものは好きよ。女優は答えた。
たくさんのバラに囲まれて過ごせたら、どんなにいいかしら……
女優はその光景を思い描いたのか、うっとりと志郎の胸に体を預けた。
窓辺に立つ二人は、親しげに微笑み合い、長いあいだ広場を眺めていた。
そしてその姿を、広場から見上げる若い娘がいた。
商売道具の靴墨と布を手に、靴磨きの娘は街灯の下から窓を見上げていた。
「志郎……」
靴磨きの千代は、志郎の幼馴染だった。
子どもの頃から絵がうまかった志郎は、よく千代をモデルに絵を描いた。
志郎の家は裕福ではなかったけれど、それでも昔はまだ、息子に絵をやらせるだけの余裕はあった。戦争を挟んで、世の中はずいぶん変わってしまったけれど。
志郎から絵のモデルを頼まれると、幼いころは何も考えずに描かせていた。
けれど学年が上がるにつれて、千代は自分の容姿がどの程度なのか、そのくらいのことはわかり始めた。
「あたしみたいな顔描いたって、絵の具がもったいないよ」
志郎にモデルを頼まれるたびに、千代はそう言って断ろうとした。
もっと可愛い子にモデルを頼めばいいのに。
「久子ちゃんとか、静子ちゃんとかさ。志郎が頼めば、みんな引き受けるよ」
千代はそう言うのだけれど、志郎は決まって、軽く笑い飛ばした。
「わかってないな、千代は」
千代のその顔がいいんじゃないか、と志郎は言った。
「何がいいのよ、この顔の」
「うーん、説明はしづらいな」
はは、と志郎はまた笑って、キャンバスに向かった。
筆を動かしては、こちらを見る。
また筆を動かし、こちらを見る。
小さな家の掃き出し窓から入る陽光に、志郎の髪がきらきらしている。
もし自分にも絵の才能があったら、キャンバスに向かって筆を走らせる、この志郎こそ描いてみたい――そんなこともよく考えた。
しばらくたつと、おばさんがお茶とお菓子をのせたお盆を持ってやってくる。
「千代ちゃんも志郎も、ひと休みしたら?」
優しかったおばさんも、それからおじさんも、もういない。
志郎が描いてくれた何枚ものわたしの絵は、いまでも志郎の家に置いてあるのかな……千代は、ホテルの窓を見上げながら考えた。
「志郎の奴……のぼせやがって」
そう毒づく一方で、胸の奥はぎゅっと痛んだ。
そこへ客がやってきて、「おい、嬢ちゃん」と千代に声をかけた。
千代は持ち場に戻ると、客を椅子に座らせた。
客の前に膝をつき、靴磨きの仕事を始めた。
噴水で遊んでいた鳩たちが何を思ったか一斉に飛び立って、広場には束の間、鳩の羽ばたく音が響いた。
ある朝、女優がホテルの部屋でひとり、髪をとかしていた。
豊かな髪をていねいに、繰り返しブラシで梳かしてゆく。
と、はじめは気にしていなかったが、どうも広場が騒がしいようだ。
不思議に思った女優は、肩の出たドレスにショールを羽織り、窓辺に向かった。
白い腕を窓に伸ばすと、女優は自分の力で難なく窓を押しひらいた。
そして女優は、窓の外に広がる光景に、その美しい目をみはった。
「まあ……」
女優が見下ろす広場は、一面真っ赤なバラの花の海だった。
石畳も、ベンチも、噴水も――目も眩むほどの真紅で埋め尽くされている。
女優は迷うことなく、それが自分への贈り物だとわかった。
贈り主として浮かんだ顔は、自分を贔屓にしてくれている、金持ちのファン。
きっとあの人だ。またいつもの調子でふざけたのだわ、と女優は思った。
けれど、次の瞬間、女優は息をのんだ。
バラの海に無言で佇み、じっとこちらを見上げている人物――それが絵描きだと気づいたとき、女優は両手で口を覆った。
「志郎……?」
粗末な身なりの絵描きは、バラの中で一途に女優を見つめて立っていた。
絵描きの財産といえば、両親が遺した小さな家と、絵を描く道具だけだった。
絵描きはそれらをすべて売り払い、百万本のバラを買った。
「あなたにあげます。バラの花」
絵描きが笑った。
その笑顔は、少し泣き出しそうにも見えた。
血のようなバラの大群に囲まれて、絵描きの肌の白さが際立っていた。
「バラが好きだって、俺に言ったでしょ?」
女優は桟に両手をついて、小さく震え始めた。
これだけのバラを買うのにいくらかかるのか、大体は女優にも計算できた。
広場を埋め尽くす、真っ赤なバラの海。
見下ろす女優を、絵描きは見上げた。
「俺の、すべてです」
何もかも売ってバラを買った絵描きにとって、それは本当に彼のすべてだった。
一切を失くしてまで、女優のためにバラを買った絵描きの狂気。
女優は怯え、絹の肌は青ざめて寒気を帯びていた。
恐怖に叫びだした女優の悲鳴を聞きつけ、奥から彼女の側近が飛んできた。
女優を抱える側近の手で窓は閉じられ、厚いカーテンが引かれた。
女優はすぐに、別の街へと逃げるように汽車に乗って行ってしまった。
誰もいなくなった部屋の窓は、無表情に閉じられたまま。
広場を埋める真っ赤なバラと、志郎だけがあとに残された。
閉ざされた窓を、志郎はぼんやりと眺めて立っていた。
「志郎」
志郎が振り向くと、そこに千代がいた。
バラの花を踏まないように、千代は忍び足で来たのだろう。
志郎は千代がいることに、いまはじめて気がついた。
「千代」
一文無しになった絵描きが、千代を見てやっと笑った。
「彼女、行っちゃった」
そうしてまたホテルの窓を、志郎は仰いだ。
女優と過ごした、あの部屋。
彼女との思い出ひとつひとつを、志郎はいま、静かに胸に刻み込んでいるのだろう。
それを描けるキャンバスも、筆も、もうないから。
千代もまた、黙って志郎の隣に並んだ。
どのくらいたったか、ようやく視線を窓からはずした志郎は、千代のほうを向いた。
「千代、これ……」
絵描きが千代に差し出した手には、バラが一本握られていた。
広場に敷き詰められているのと同じ、真っ赤なバラの花だった。
「俺の全財産でバラ百万本買えたんだけど、もう一本買えたんだ」
百万と、もう一本。
百万一本目のバラを、志郎は千代に差し出した。
「千代にやるよ」
千代が何も言わずに花を睨んでいると、志郎は気まずくなって言い直した。
「……もらってくれるか?」
千代は怖い顔のまま、志郎の手からバラの花を受け取った。
そして一歩近づき、片手にバラを握ったまま志郎を力強く抱きしめた。
「志郎のばか」
全財産投げ打って買った、百万本のバラの花。
大好きなあの人にあげようと思ったのに、その人は遠くの街に行ってしまった。
「志郎のばか」
「何回も言うなよ」
「明日からどうやって食ってくのよ」
女優のような絹の肌ではないけれど、志郎が抱き返した千代の体は温かかった。
腕に抱えていれば無条件に安心できるような気がして、志郎は千代をいつまでも離さないでいた。
「千代の横で一緒に靴磨きでもしようかな」
「靴磨き『でも』とは何よ。簡単そうに見えて難しいんだからね」
千代の怒った声は、女優の声とは似ていない。
けれど聞いていると、胸につかえた悲しみが溶けてゆくようだった。
「志郎、そろそろ苦しい。離して」
バラを持っていないほうの手で、千代が志郎の背中を叩いて訴えた。
「ああ、ごめん」
千代の手には、志郎が渡した一本のバラが握られていた。
広場を埋め尽くすのは、志郎が女優のために買った百万のバラ。
目も眩むような真っ赤な海は、彼女の華やかな人生そのものだった。
志郎は、ふと遠い記憶に浸るように口をひらいた。
「俺、あの部屋で、あの人の絵を描いたんだ」
椅子に腰かけ、こちらに微笑む彼女。
彼女とキャンバスを交互に見つめ、筆を走らせる志郎。
彼女は途中で退屈すると、優雅な身のこなしで席を立って、「ねえ……」と志郎に触れてきた。
女優の肌は吸いつくように志郎に絡まって、天の果てまで連れていかれそうだった。
そういうとき、女優はいつも、志郎の顔を見たがった。
志郎の頬を両手で包んで自分の方に向かせると、「きれい」と満足そうに囁いた。
だから絵はちっとも進まなくて、結局一枚しか仕上げられなかった。
志郎は、「彼女、あの絵はどうしたかな」と口にした。
「持っていったのかな……いや、置いてったかな」
志郎の寂しそうな言葉を、千代は何も言わずに聞いていた。
そしてふと思い立って、尋ねてみた。
「わたしの絵は?」
志郎が黙って千代を振り向いた。
「志郎、家も何もかも売っちゃったんでしょ? わたしの絵はどうなったの?」
断ってもいつも笑ってばかりで、何枚も描いてくれたわたしの絵。
千代の問いに、志郎は一瞬の間を置いて、
「ああ……あれは売れなかった」
と答えた。
「売れなかったの?」
「うん」
「一枚も?」
うん……と、志郎は申し訳なさそうに頷いた。
「そっか」
千代は返事をしてから、なんだか笑いが込み上げてきた。
くすくすと笑いだした千代を、志郎が不思議そうに見た。
「だから、散々言ったでしょ。わたしがモデルじゃ絵の具がもったいないって」
笑いながら、千代の目尻に涙の粒が滲んだ。
「でも、そっか。まだあるんだ」
一枚も売れなかった絵。
志郎が描いてくれた、たくさんのわたしの絵。
よかった。
みんな残ってる。
「よかった」
千代はそう言って、志郎に笑った。
そのうちに、広場を通る人がバラを拾って持ち帰り始めた。
数本持って帰る人、束にして持って帰る人……志郎はその光景を黙って見守った。
千代もまた、志郎が渡した一本を手に、志郎の隣に立っていた。
やがて、広場のバラは残らずなくなった。
昨日までと同じになった広場の景色を、志郎は、いっそ清々しいような顔をして見渡した。
真っ赤な海は幻のように消えてなくなり、千代が手にした一本だけが残った。
千代の瞳は、女優のような宝石の輝きではないけれど、ひたむきに光り、志郎の姿を映していた。