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バラの花をあなたにあげる

作者: 猫小路葵
掲載日:2025/09/19

 その街にいるあいだ、女優は広場に面したホテルに泊まっていた。

 女優は美しく、絹のような肌に宝石のような目をしていた。

 瀟洒なホテルの、いちばん上等の部屋。

 女優は優雅な動作で窓辺に歩み寄ると、細くしなやかな腕を伸ばして、窓に手を添えた。


「重くてあかないわ……」


 女優は呟き、風に揺れる柳のようにうしろを振り向いた。

 そこには粗末な身なりの絵描きが、イーゼルの前の椅子に腰かけていた。

 女優は絵描きに自分の絵を描かせていたが、じっとしていることに少し退屈した。

 勝手に席を立っても、絵描きは一度も文句を言わなかった。

 女優は、そんな絵描きに笑みを見せた。


 絵描きは貧しい男だったが、女優に負けないくらい美しかった。

 陶器のような白い肌を持ち、目の色は明るく、唇は牡丹の花の色をしていた。

 綺麗なものが好きだった女優は、この街で見つけた美貌の絵描きに声をかけ、装飾品のようにそばに置いた。


志郎(しろう)、窓をあけて」


 志郎と呼ばれた絵描きは、パレットと筆を置き、従順に女優のもとへ歩いていった。

 そして両開きの窓に手をやると、外へ向けていっぱいにひらいた。


「ありがとう、志郎」


 女優は嬉しそうに、わずかに少女っぽい仕草で笑うと、年下の絵描きの肩に寄り添った。

「志郎はなんでも出来るのね」

 女優は絵描きの腕に自分の手を絡め、広場を見下ろした。

 石畳の広場では、花屋が花束を抱えて通りかかり、中央の噴水には鳩が遊んでいた。


「ねえ志郎、あの花屋が見えて?」

 女優が指差して絵描きに言った。

「あの花屋が持ってるバラ、なんて綺麗なのかしら」

「バラが好きなんですか?」

「ええ、とても」


 綺麗なものは好きよ。女優は答えた。

 たくさんのバラに囲まれて過ごせたら、どんなにいいかしら……

 女優はその光景を思い描いたのか、うっとりと志郎の胸に体を預けた。


 窓辺に立つ二人は、親しげに微笑み合い、長いあいだ広場を眺めていた。

 そしてその姿を、広場から見上げる若い娘がいた。

 商売道具の靴墨と布を手に、靴磨きの娘は街灯の下から窓を見上げていた。


「志郎……」


 靴磨きの千代(ちよ)は、志郎の幼馴染だった。

 子どもの頃から絵がうまかった志郎は、よく千代をモデルに絵を描いた。

 志郎の家は裕福ではなかったけれど、それでも昔はまだ、息子に絵をやらせるだけの余裕はあった。戦争を挟んで、世の中はずいぶん変わってしまったけれど。

 志郎から絵のモデルを頼まれると、幼いころは何も考えずに描かせていた。

 けれど学年が上がるにつれて、千代は自分の容姿がどの程度なのか、そのくらいのことはわかり始めた。


「あたしみたいな顔描いたって、絵の具がもったいないよ」


 志郎にモデルを頼まれるたびに、千代はそう言って断ろうとした。

 もっと可愛い子にモデルを頼めばいいのに。

「久子ちゃんとか、静子ちゃんとかさ。志郎が頼めば、みんな引き受けるよ」

 千代はそう言うのだけれど、志郎は決まって、軽く笑い飛ばした。


「わかってないな、千代は」


 千代のその顔がいいんじゃないか、と志郎は言った。


「何がいいのよ、この顔の」

「うーん、説明はしづらいな」


 はは、と志郎はまた笑って、キャンバスに向かった。

 筆を動かしては、こちらを見る。

 また筆を動かし、こちらを見る。

 小さな家の掃き出し窓から入る陽光に、志郎の髪がきらきらしている。

 もし自分にも絵の才能があったら、キャンバスに向かって筆を走らせる、この志郎こそ描いてみたい――そんなこともよく考えた。

 しばらくたつと、おばさんがお茶とお菓子をのせたお盆を持ってやってくる。

「千代ちゃんも志郎も、ひと休みしたら?」

 優しかったおばさんも、それからおじさんも、もういない。

 志郎が描いてくれた何枚ものわたしの絵は、いまでも志郎の家に置いてあるのかな……千代は、ホテルの窓を見上げながら考えた。


「志郎の奴……のぼせやがって」


 そう毒づく一方で、胸の奥はぎゅっと痛んだ。

 そこへ客がやってきて、「おい、嬢ちゃん」と千代に声をかけた。

 千代は持ち場に戻ると、客を椅子に座らせた。

 客の前に膝をつき、靴磨きの仕事を始めた。

 噴水で遊んでいた鳩たちが何を思ったか一斉に飛び立って、広場には束の間、鳩の羽ばたく音が響いた。




 ある朝、女優がホテルの部屋でひとり、髪をとかしていた。

 豊かな髪をていねいに、繰り返しブラシで梳かしてゆく。

 と、はじめは気にしていなかったが、どうも広場が騒がしいようだ。

 不思議に思った女優は、肩の出たドレスにショールを羽織り、窓辺に向かった。

 白い腕を窓に伸ばすと、女優は自分の力で難なく窓を押しひらいた。

 そして女優は、窓の外に広がる光景に、その美しい目をみはった。


「まあ……」


 女優が見下ろす広場は、一面真っ赤なバラの花の海だった。

 石畳も、ベンチも、噴水も――目も眩むほどの真紅で埋め尽くされている。

 女優は迷うことなく、それが自分への贈り物だとわかった。

 贈り主として浮かんだ顔は、自分を贔屓にしてくれている、金持ちのファン。

 きっとあの人だ。またいつもの調子でふざけたのだわ、と女優は思った。

 けれど、次の瞬間、女優は息をのんだ。

 バラの海に無言で佇み、じっとこちらを見上げている人物――それが絵描きだと気づいたとき、女優は両手で口を覆った。


「志郎……?」


 粗末な身なりの絵描きは、バラの中で一途に女優を見つめて立っていた。

 絵描きの財産といえば、両親が遺した小さな家と、絵を描く道具だけだった。

 絵描きはそれらをすべて売り払い、百万本のバラを買った。


「あなたにあげます。バラの花」


 絵描きが笑った。

 その笑顔は、少し泣き出しそうにも見えた。

 血のようなバラの大群に囲まれて、絵描きの肌の白さが際立っていた。


「バラが好きだって、俺に言ったでしょ?」


 女優は桟に両手をついて、小さく震え始めた。

 これだけのバラを買うのにいくらかかるのか、大体は女優にも計算できた。

 広場を埋め尽くす、真っ赤なバラの海。

 見下ろす女優を、絵描きは見上げた。


「俺の、すべてです」


 何もかも売ってバラを買った絵描きにとって、それは本当に彼のすべてだった。

 一切を失くしてまで、女優のためにバラを買った絵描きの狂気。

 女優は怯え、絹の肌は青ざめて寒気を帯びていた。

 恐怖に叫びだした女優の悲鳴を聞きつけ、奥から彼女の側近が飛んできた。

 女優を抱える側近の手で窓は閉じられ、厚いカーテンが引かれた。




 女優はすぐに、別の街へと逃げるように汽車に乗って行ってしまった。

 誰もいなくなった部屋の窓は、無表情に閉じられたまま。

 広場を埋める真っ赤なバラと、志郎だけがあとに残された。

 閉ざされた窓を、志郎はぼんやりと眺めて立っていた。


「志郎」


 志郎が振り向くと、そこに千代がいた。

 バラの花を踏まないように、千代は忍び足で来たのだろう。

 志郎は千代がいることに、いまはじめて気がついた。


「千代」


 一文無しになった絵描きが、千代を見てやっと笑った。


「彼女、行っちゃった」


 そうしてまたホテルの窓を、志郎は仰いだ。

 女優と過ごした、あの部屋。

 彼女との思い出ひとつひとつを、志郎はいま、静かに胸に刻み込んでいるのだろう。

 それを描けるキャンバスも、筆も、もうないから。

 千代もまた、黙って志郎の隣に並んだ。

 どのくらいたったか、ようやく視線を窓からはずした志郎は、千代のほうを向いた。


「千代、これ……」


 絵描きが千代に差し出した手には、バラが一本握られていた。

 広場に敷き詰められているのと同じ、真っ赤なバラの花だった。


「俺の全財産でバラ百万本買えたんだけど、もう一本買えたんだ」


 百万と、もう一本。

 百万一本目のバラを、志郎は千代に差し出した。


「千代にやるよ」


 千代が何も言わずに花を睨んでいると、志郎は気まずくなって言い直した。


「……もらってくれるか?」


 千代は怖い顔のまま、志郎の手からバラの花を受け取った。

 そして一歩近づき、片手にバラを握ったまま志郎を力強く抱きしめた。


「志郎のばか」


 全財産投げ打って買った、百万本のバラの花。

 大好きなあの人にあげようと思ったのに、その人は遠くの街に行ってしまった。


「志郎のばか」

「何回も言うなよ」

「明日からどうやって食ってくのよ」


 女優のような絹の肌ではないけれど、志郎が抱き返した千代の体は温かかった。

 腕に抱えていれば無条件に安心できるような気がして、志郎は千代をいつまでも離さないでいた。


「千代の横で一緒に靴磨きでもしようかな」

「靴磨き『でも』とは何よ。簡単そうに見えて難しいんだからね」


 千代の怒った声は、女優の声とは似ていない。

 けれど聞いていると、胸につかえた悲しみが溶けてゆくようだった。


「志郎、そろそろ苦しい。離して」


 バラを持っていないほうの手で、千代が志郎の背中を叩いて訴えた。


「ああ、ごめん」


 千代の手には、志郎が渡した一本のバラが握られていた。

 広場を埋め尽くすのは、志郎が女優のために買った百万のバラ。

 目も眩むような真っ赤な海は、彼女の華やかな人生そのものだった。

 志郎は、ふと遠い記憶に浸るように口をひらいた。


「俺、あの部屋で、あの人の絵を描いたんだ」


 椅子に腰かけ、こちらに微笑む彼女。

 彼女とキャンバスを交互に見つめ、筆を走らせる志郎。

 彼女は途中で退屈すると、優雅な身のこなしで席を立って、「ねえ……」と志郎に触れてきた。

 女優の肌は吸いつくように志郎に絡まって、天の果てまで連れていかれそうだった。

 そういうとき、女優はいつも、志郎の顔を見たがった。

 志郎の頬を両手で包んで自分の方に向かせると、「きれい」と満足そうに囁いた。

 だから絵はちっとも進まなくて、結局一枚しか仕上げられなかった。


 志郎は、「彼女、あの絵はどうしたかな」と口にした。

「持っていったのかな……いや、置いてったかな」

 志郎の寂しそうな言葉を、千代は何も言わずに聞いていた。

 そしてふと思い立って、尋ねてみた。

「わたしの絵は?」

 志郎が黙って千代を振り向いた。

「志郎、家も何もかも売っちゃったんでしょ? わたしの絵はどうなったの?」

 断ってもいつも笑ってばかりで、何枚も描いてくれたわたしの絵。

 千代の問いに、志郎は一瞬の間を置いて、

「ああ……あれは売れなかった」

 と答えた。

「売れなかったの?」

「うん」

「一枚も?」

 うん……と、志郎は申し訳なさそうに頷いた。

「そっか」


 千代は返事をしてから、なんだか笑いが込み上げてきた。

 くすくすと笑いだした千代を、志郎が不思議そうに見た。


「だから、散々言ったでしょ。わたしがモデルじゃ絵の具がもったいないって」


 笑いながら、千代の目尻に涙の粒が滲んだ。


「でも、そっか。まだあるんだ」


 一枚も売れなかった絵。

 志郎が描いてくれた、たくさんのわたしの絵。

 よかった。

 みんな残ってる。


「よかった」


 千代はそう言って、志郎に笑った。


 そのうちに、広場を通る人がバラを拾って持ち帰り始めた。

 数本持って帰る人、束にして持って帰る人……志郎はその光景を黙って見守った。

 千代もまた、志郎が渡した一本を手に、志郎の隣に立っていた。


 やがて、広場のバラは残らずなくなった。

 昨日までと同じになった広場の景色を、志郎は、いっそ清々しいような顔をして見渡した。

 真っ赤な海は幻のように消えてなくなり、千代が手にした一本だけが残った。

 千代の瞳は、女優のような宝石の輝きではないけれど、ひたむきに光り、志郎の姿を映していた。



 

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