あの音が鳴る時
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リン……リン……リン……
あの音が、リビングの空気を裂いて鳴り響いていた。
目の前の公衆電話。切れたコード。緑色のボディ。
絶対に鳴るはずのないそれが、鳴っている。
そして、その隣に立つ──弟、翔悟。
白髪、痩せこけた頬、目だけが異常なほど鋭く生きている。
腕には、あの重たそうなダッフルバッグがぶら下がっていた。
「兄ちゃん……出ろよ」
言葉は穏やかだったが、声には震えがあった。
怒りでも憎しみでもない。ただ、哀願のような響き。
「頼む……俺、もうずっと……鳴り続ける音の中にいた……」
妻が背後で、小さくすすり泣いた。
「優一さん……お願い、なにが起きてるの? 誰なの、この人……」
翔悟はリビングの中央に跪くように座り、震える手で受話器を持ち上げた。
そのまま、俺の胸に押し当てる。
「今度は……お前の番だよな、兄ちゃん……」
俺は、目をそらした。
だが、公衆電話の音が、それを許さなかった。
リン……リン……リン……
あの音が、心の奥底にある“罪”を引きずり出すように鳴っていた。
──あの時翔悟を犠牲にしたのは、紛れもなく、俺だった。
公衆電話がくれた“救い”──いや、“延命”。
そのために、俺は弟を“招いた”。
あの電話は、記憶を曖昧にしてくれた。
翔悟を“選んだ”ことすら、自分の中で“誤解”にすり替えてくれた。
でも、今、すべてが戻ってきた。
そして、また問われる。
⸻
──真っ暗な空間。
音も、時間もない。
ただ、“なにか”が、俺の中に直接話しかけてくる。
「差し出せ」
「もう……差し出した……弟を……」
「二度目の命は差し出せない」
「じゃあ、俺を……」
「お前の血は、もう枯れている」
言葉の意味がわからなかった。
俺はまだ生きている。どうして──
「差し出せ」
「誰を……?」
その瞬間、“なにか”が、俺の心の奥を撫でた。
あまりにも柔らかく、優しく、穏やかに──だが、ぞっとするほど冷たい指で。
そして、声が告げる。
「……新しい命」
──え?
その言葉が脳に届いた瞬間、背筋が凍った。
「な……何を……?」
「差し出せ」
「……いやだ……やめてくれ……!」
「電話は、すでに鳴っている」
⸻
現実に引き戻された俺の手には、もう受話器が握られていた。
いつの間にか、耳にあてがっていた。
翔悟が、笑った。
「やっと……だな、兄ちゃん……」
「今度は……俺を助けてくれるんだな……?」
俺は何も言えなかった。
声が出なかった。
ただ──目の前の翔悟の姿が、ゆっくりと消えていくのを見ていた。
砂のように、ひと粒ずつ崩れていく。
その姿は、安らかだった。
受話器の先では、もう何も聞こえない。
ただ、静かだった。
不自然なほど、すべての音が消えていた。
振り返る。
妻は、何も知らずに呆然としていた。
ただ泣き疲れたように、ソファに腰を下ろしていた。
この家でまだ誰にも知られていない命があることを──
俺と“なにか”だけが知っている。
そして、公衆電話は、机の上に静かに置かれていた。
もう鳴らない。
もう、何も──鳴らない。
(完)
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