罪を呼ぶ音
感想などいただけると大変励みになります。
もちろんリアクションだけでも大歓迎です!
時は流れた。
俺は結婚し、郊外の静かな住宅地に小さな家を建てた。
翔悟の件は……誰にも話していない。
警察には「突然姿を消した」とだけ報告し、家族にも「東京での生活が合わなかったんだろう」とごまかしていた。
だが本当は──自分でも何があったのかわからない。記憶の一部が、焼き切れたように抜け落ちている。
妻とは穏やかな日々を過ごしていた。
それでも、どこか心の奥底で、ずっとあの音が響いていた。
──リン……リン……リン……
「……翔悟さん、病院を抜け出したって……!」
妻からの電話を受けたのは、いつも通りの昼休みだった。
「病院……? 翔悟が……病院にいたのか?」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
翔悟は、あの夜以来──行方不明のままだったはずだ。
「都内の精神科病院って……どういうことなんだ?」
「私も詳しくはわからないの……病院から急に連絡が来て、『保護していた翔悟さんが脱走しました』って……お義父さんたちも把握してなかったみたい」
思考がぐらぐらと揺れ始める。
時間の感覚も現実の輪郭も、溶け出していくような気がした。
翔悟が病院にいた。
つまり、“生きていた”ということだ。
⸻
自宅に帰り着いたのは、深夜一時を過ぎたころだった。
しんとした住宅街。
風が家の壁をなぞるたび、俺の背中はびりつくような緊張で強張っていた。
遅い夕食を終え寝室に向かおうとしたその時──
ドン! ドンドン!! ドンドンドン!!!
玄関から響く、けたたましいノック音。
「優一さん……」
妻の声は震えていた。
だが俺の中には、確信に近い感覚があった。
──翔悟だ。
恐る恐るドアを開けると、そこに立っていたのは、まぎれもなく翔悟だった。
だが、それは弟の姿ではなかった。
真っ白な髪、干からびたような皮膚、鋭く血走った目。
腰の曲がったその姿は、まるで80を過ぎた老人のようだった。
それでも、俺にはわかった。
あれは、翔悟だ。
無言のまま、翔悟は家に入り、リビングの中央にどすんとダッフルバッグを置いた。
背負っていたはずなのに、どこか“引きずっていた”ような、異様な重さを感じさせるバッグだった。
ジィィ……ジジ……チャ……ッ。
ファスナーが開く音。
中から現れたのは──あの公衆電話。
緑色の、コードが途中でちぎれた、あの電話機だった。
あり得ない。あれは、あの夜に消えたはずのもの。
でもそこに、今、音が鳴っている。
リン……リン……リン……
そして、その呼び出し音とともに──俺の記憶が一気に流れ込んできた。
⸻
翔悟と303号室に行ったと思っていた。
でも、それは違う。
⸻最初にあの部屋に足を踏み入れたのは、俺一人だった。
あの奇妙な空間。壁一面の引っ掻き傷、訳の分からない言語の走り書き。
そして和室の中央に置かれた──公衆電話。
線が繋がっていないはずなのに、電話は鳴った。
恐怖に突き動かされ、俺はその受話器を取った。
「*******************」
──頭の中に、直接流れ込むような奇妙な“声”だった。直感的にもう逃れられないと感じた。
助かりたい──そう、俺は願った。
そして、あの声は言った。
「差し出せ」
そう言われたとき、俺の中に浮かんだのは──翔悟の顔だった。
あの、明るくて、人気者で、家族にも愛された弟。
いつも自分とは対照的な場所にいた彼を、俺は、どこかで憎んでいた。
翔悟がいなければ、自分はもっと楽になれる。
目立たない存在じゃなくなる。
そう思ってしまった。
──思ってしまっただけのはずなのに、俺は、行動した。
それから俺は、翔悟に電話をかけた。
「おぉ、翔悟。大学生活はどうだ?」
「前に金欠だって言ってたよな?今住んでるマンションが広くて部屋が余ってるんだ。よければルームシェアしないか?」
さも自然に。
さも偶然を装って。
好奇心旺盛な翔悟があの部屋に行くことまで、計算に組み込んでいた。
そして──彼は、電話を取った。
⸻
目の前の翔悟が笑った。
何年も、何十年も蓄え続けていたような、苦しみのこもった笑みだった。
「兄ちゃん……ずっと待ってたんだ……」
電話が鳴り続ける。
その音が、壁も天井も、時間さえも切り裂いて響いていた。
「兄ちゃん……今度は……俺を助けてくれるよな……?」
「そうだよな……兄弟だもんな……」
「兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん……!!!」
目の前が、翔悟の血走った眼でいっぱいになっていく。
逃れられない。
あの音が、すべてを連れ戻してきた。
罪を呼ぶ音が、また鳴っている。