見えないマンション
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1997年、東京。
地平線のかなたに沈んだ太陽は街を灰色に染め、薄闇がじわじわと街路樹の葉の影を伸ばしていく。ノストラダムスの大予言がテレビや雑誌を賑わせていたこの年、俺──優一は、東京郊外のある小さなマンションに弟と二人で暮らしていた。
マンションの名は「アヴニール松黒」。フランス語で“未来”という意味だと聞いたが、そこに漂う雰囲気は皮肉にも未来とは正反対の、不吉で重苦しいものだった。
最寄り駅から徒歩十五分。周囲は住宅地だが、なぜかこの建物の近辺だけが常に薄暗い。まるで日光が避けて通るように。
それだけではない。遠くから見ても、マンションの建物が視界に入ってこないのだ。近くまで来ると、まるで地面から突然浮かび上がったように姿を現す。最初に気づいたときは鳥肌が立った。
四階建てのマンション。俺たちの部屋は四階にある。だが、この四階というのがくせ者だった。エレベーターに乗っても、階段を上っても、なぜか四階にたどり着けない。三階を過ぎると、なぜかいつのまにか五階にいて、四階はどこにも見当たらない。息を切らせて引き返すと、あっさり四階に到着する。そんな摩訶不思議な場所だった。
入居の決め手は家賃の安さだった。2LDKで築浅、駅からも許容範囲内。それでいて家賃は相場の半額以下。正直、何かあるとは思っていた。だけど、社会人二年目、貯金も乏しく選択肢も少なかった俺には、それしかなかったのだ。
そして、俺は弟──翔悟を呼んだ。
「兄ちゃんが一人でビビってると思ったんだよ。ありがたく思えよ、俺が来てやったんだから」
荷物を運び込んだ日、翔悟は笑いながらそう言った。
昔から要領がよくて、明るくて、誰からも好かれる男だった。大学でも人気者らしく、彼の部屋にはしょっちゅう友達が遊びに来ていたという。俺とは正反対。俺は、写真部だったけど、誰かと遊びに行くことも少なかったし、今の職場でも付き合いは最低限。
そんな俺を、翔悟は「兄ちゃん」と慕い、俺の部屋に来てくれた。──建前としては、そうだった。
実際には、彼が来た日から、空気は一変した。
夜になると、床下から小さなノックの音が聞こえるようになった。ポン…ポン…と、決して強くはないが、規則的で妙に不気味な音だった。最初は水道の音かと思ったが、翔悟が「兄ちゃん、下の部屋、空き家じゃないの?」と言ったとき、冷たい汗が背中を流れた。
このマンションには、一つだけ“絶対に近づいてはならない部屋”があると、大家に強く言われていた。
それが、俺たちの部屋の真下──“303号室”だった。