<36・Justice>
『そもそも、正義と悪ってなんだと思いますか?誰がそんなこと決めるんでしょうか』
ノエルは思い出していた。
かつてルカと名乗っていたルチルが、あの居酒屋で自分に言った言葉を。
『ゲームやおとぎ話ではよく、正義の味方が悪の大魔王を殺して話がハッピーエンドになります。でも……本来は、この世界には正義しかないか、あるいは正義も悪もない世界なのではないかと私は思うことがあるんです。例えば魔王アークは、はぐれ者になった者達を匿っていました。もしも彼らの安寧の地を獲得するため、人類と戦う道を選んだならば?それは……その行動はきっと人類には侵略行為に見えるのでしょうけれど。魔王にとっては、大切な者の居場所を手にするための聖戦なのかもしれません。視点を変えれば、本当の悪なんて何処にもないなんて、そんなこともあると思うんです』
彼女は魔王アークが、世界征服など目論んでいないこと。ヴァリアントが彼の手管でないことをわかっていたのだ。その上であんな話をしていたのである。
『そんなこと、多くの人は考えない。……相手にも同情の余地があるかもしれないなんて考えたくもない。己が絶対的正義でいた方が楽だから。そして……都合の悪い真実なんて、見たくもないから。誰だってそうだと思うんです。本当に求めているのは真実ではなく、都合の良い真実だけ。愛がなければ、不都合な真実の全ては見えない、音もなく殺される。それがこの世界だって』
彼女は問いかけていたのだ、ノエルに。
もしもこの世界の真実が自分にとって不都合なものであった場合、お前はどうするのかと。
ノエルたちにとって都合のよい真実とは、魔王を倒せば全てが解決し、女神に望みを叶えてもらえるということ。魔王は人間ではないから殺しても良くて、むしろ同情の余地がないほど悪逆非道な存在で。殺せばみんなに感謝されて、世界に平穏が訪れる。誰もに嫌われていたから、復讐しに来る相手もいない。――二年間どれほど自分はそうであってほしいと言い聞かせたことだろう?
そう、言い聞かせている時点で、自分が間違っていた時のことを考えて怯えていたのだ。サリーと共に魔王討伐に向かった男たちから、魔王が最初は話し合いをしようとしていたのにサリーが撃ったという話を聞かされていたから尚更に。
今。あの時ノエルが目を背けていた真実が、ノエルに牙を剥いている。
無論ルチルが嘘をついている可能性もゼロではない。魔王が本当に魔王であり、世界を脅かそうとしていた可能性も残ってはいる。
でも実際、アークを殺してもヴァリアントの脅威が去らなかったのは事実。何より。
「この臆病者!助かりたいっていうなら返せよ……ルチルたちの大切な、大切な家族を返せ!お父様を、みんなを返せ、返せ、返せよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
涙ながらの、ルチルの叫びが。
とても演技のようには見えなかったのだ。
「ごめん、なさい……」
ノエルはただただ、謝罪を口にするしかない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!本当の本当に、ごめんなさい……!」
自分は、どうすれば良かったのだろう。サリーを止めて、女神に逆らっていれば、彼女の父を殺さずに済んだのだろうか?しかし、後悔してなお“どうすれば逆らえた”のかさえ分からないのが滑稽である。下手をしたら女神以前に、仲間であったはずのサリーらに“余計なことをするな”と邪魔者扱いされて処刑されていた可能性もあるだろう。
どんな風に抗えば良かったのか、答えがまったく見えない。
そして、自分は死んだ人間を生き返らせる力などない。些細な傷を治せる力しか自分にはないのだ。彼女の大切な人を取り戻すことなど、自分にはできない。それでも何か、何かできることはないのだろうか?取り返しがつかないからって、ここで泣きながら謝るだけなら馬鹿にだってできることではないか。
――考えろ……考えろ、僕。変わろうって、強くなろうって決めたじゃないか!
思い出す、前世の誓い。
――君なら、どうする?彼女のために、何ができる?
前世で自分の手を引いてくれた、ともに変わろうと言ってくれた親友。彼が、ここにいたのであれば。
「……償いを」
やがてノエルは、絞り出すように口を開いたのだった。
「償いをさせてくれませんか、僕に」
「……償い?」
「アークさんを取り戻すことは、僕には出来ません。そして許してほしいなんて言う資格は僕にはありません。僕達がやってしまったことは、けして取り返しのつかないことだから。でも僕はせめて……せめて、精一杯償ってから死にたいのです……!」
命乞いとも取れる言葉。余計に心象を悪くしても仕方ないとわかっていた。
それでも言うと決めた理由はただ一つ。何かをせずにはいられなかったから。親友ならばきっとその選択をすると思ったからだ。そう。
どれだけ無様でも生きて、最後まで生きて誰かを助けたい。恐らくこのまま自分を殺してもルチルの手が汚れるだけで、彼女が欲しいものは何一つ手に入らないで終わるのではないか。
「ヴァリアントがアークさんと無関係の災厄ならば。その元凶は女神アルテナ様である可能性が高い」
「!」
「ルチルさんも気づいているのではありませんか?ひょっとしたら何らかの目的で、女神様がヴァリアントという形の災厄をばら撒き、それを僕達に何故か退治させていると」
何故、女神はアークが元凶だと断定して自分達に魔王討伐を頼んだのか?
何故、女神は魔王が死んだあとは残党の仕業と決めつけて、それなのに残党の居場所を自分達に教えてくれなかったのか?
何故、研究がまったく進んでない未知の現象であるヴァリアントの発生予測を女神だけができるのか?
そして何故、ヴァリアントを倒せる力なんてものを、自分達に与えたのか?与えることができたのか?
「女神様の目的は、世界の救済ではなく破滅なのかもしれない。ヴァリアントを撒いておきながら倒せなんて矛盾しているけど……でも、女神様が黒幕と考えるなら全て筋は通るんです」
だから、とノエルは必死で訴える。
「僕は真実を知りたい……ルチルさん、貴女も同じであるはずです!全てが終わったら僕を殺して下さって構いません。せめて……真実を突き止める手伝いだけでもさせてください!お願いします!」
「それまで自分を生かせと?」
「都合が良すぎるのは分かっています。でも僕は……自分の命のすべてを使って、ちゃんと償いをしたいんです。きっと前世でともに生きた親友なら、そうすると思うから……!サリーさんたちが生きてるのなら僕が説得します、だから!!」
本当にそんなことができるのか、ではない。やるしかないのだとわかっていた。
今更だけれど。遅すぎるのかもしれないけれど。それでもノエルはけして忘れた訳では無いのである。自分は強くなりたくて、変わりたくて、勇気を出して一歩踏み出そうとしていたことを。
今からでも出来ることがあるなら。それをやり切ってから、死ぬ場所を決めたいのだ。
「……随分勝手なことを言ってくれますね」
涙を拭ってルチルが言う。丁寧語口調が戻ってきた。少しは彼女も落ち着いたということなのだろう。
「具体的には、どうするおつもりなのです?」
「女神様を直接問い質します」
す、とノエルは自分の右耳を指さした。
「ここにある、青い石のピアス。これが通信機になっていて、勇者の間で遠隔でもお話ができるんですが。この通信機は女神様とも繋がっているんです。女神様からの指示はこの通信機に着信が来るか、あるいは突然異空間に呼び出されて話をする形で行われることになるんです。これで呼びかけて、本当のことを話してもらえるように説得します」
「言うほど簡単なことではないように思えますが?」
「わかっています。場合によっては女神様に敵とみなされて戦闘になるかもしれません。そうなったら僕は……非力なりに、女神様と戦います。例え死ぬことになっても。それが、僕が今できる精一杯の償いです」
「…………」
ルチルは沈黙した。少なくとも今すぐノエルを殺す意志は薄れているように思われる。迷っている、あるいは決めかねているのだろうか。ノエルは右耳を掌で塞ぎながら尋ねる。
「今、女神様に連絡を取ってみます。いいですよね?」
彼女は答えない。答えないのが、了解の意とみなした。ノエルは心の中で通信番号を唱える。すると、メロディとともに女神様へと回線が繋がるのがわかった。実のところ、自分達から女神様に連絡を取ったことは一度もなかったりする。自分達で基本的に何でも解決するように、お前達から連絡してこないようにと何度も言われていたからだが。
――でも今は、そんなこと言っていられない。僕も真実が知りたい……!
ノエルが目を閉じてそう考えた、次の瞬間だった。
べちゃり。
「ぐっ!?」
何かが、自分の胸の上に落ちてきた感覚があった。ずっりしと重く、それでべたべたしたスライムのような何か。
なんだろう、とノエルは瞼を持ち上げてそれを見る。そして。
気がついてしまった。それか真っ赤な拳大の縦のようなものであると。どくんどくんと脈打ちながら、己の胸の中に沈んでいく様を。
――こ、これはまさ、か。
「あ、あああ」
ビキビキビキビキ、と胸を中心に何かが広がっていく。それは紫色の結晶に見えた。透き通った水晶が、ノエルの胸元から全身に広がっていく。そのたび、キイイイイイン!という耳鳴りと吐き気、全身を刺すような痛みが。
「えっ!?」
ルチルが驚愕に目を見開いた。ノエルはギリギリのところで声を絞り出す。
これは。この現象は。
「ルチル、さん、逃げて……あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
音を立てて、鉄柵が吹き飛んだ。