<17・Flower>
――あの子は、何色の花が好き、なのかな。
青年はカフェにてお茶をしながら、こっそり窓越しに向かいの花屋を見つめていた。
黄色、ピンク、赤、紫、オレンジ。様々な色の花に囲まれて、今日も愛しのあの子は接客をしている。今日はずっとおばあさんのお客さんの話を聞いているようだった。この距離では、何の話をしているのかまったくわからない。しかし、彼女が不快に思っていないのはその表情からでも明らかである。花が好きで、花を愛してくれるお客さんのことも好き。だから花屋の店員として働いているのだと、以前語ってくれたこともあった。彼女に会う口実で購入したポリネルトの花は、今も青年のベランダで大事にオレンジの花を咲かせている。
「……!――、――、――――!!」
あの子が話すたび、茶色のポニーテールとピンク色のリボンが揺れる。何かうれしいことを言ったのか、おばあさんが顔を綻ばせたのがわかった。ちょっとまってて、とあの子がジェスチャーをする。暫くして、店の奥からもってきたのは、オレンジ色の花束だった。
どうやら、何かのお祝いの花を買いたい、というお客さんであったらしい。彼女が渡した花を見て、おばあさんは子供のように喜んでいる様子だった。そのままお会計のために店の中に入っていき、暫くして二人で出てくることになる。
ありがとうございます、と彼女の口が動いた。何度も何度も頭を下げるおばあさんに、彼女はひらひらと笑顔で手を振っている。
――たくさんの花。あの子に一番似合う花は、何なのかな。
このメリーランドタウンに青年が引っ越してきたのは三年前だった。たまたま通った通りで見かけた小さな花屋。そこで働く彼女を見て、思わず一目惚れしてしまったのがすべての始まりである。
並んだ花達に負けないくらい、その笑顔は輝いていた。とりたてて美人ではないのかもしれない。でも、人の笑顔を見るのが大好きで、人間そのものが大好きで、だから仕事をしているのだとわかるような笑顔はあまりにも魅力的で。
彼女と並んで歩けるような男になりたい。いつの間にか、男の目標はそれになっていたのだった。
工場で働きつつ、今はカフェで資格試験の勉強をする日々。彼女の姿を見ながら勉強をするととても捗るような気がするのだ。無論、彼女くらい愛されている女性ならばすでに彼氏がいてもなんらおかしくはないわけだが――とにかく、彼女に釣り合う男になれた時、きちんと告白しようと決めているのだった。
無論、向こうは一度花を買っただけの客の自分のことなんかきっと覚えていないだろうし、突然愛の告白なんかされても戸惑ってしまうだけかもしれないけれど。それでもせめて、感謝だけでも伝えたいのである。毎日花に囲まれて、お客さんに笑顔を届ける彼女の姿。その姿を見ているだけで幸せになれる人間が確かに此処に存在しているのだから。
「……ん?」
ほんの少しノートに視線を落としていた間に、様子が変わっていた。あの子が店先で、きょろきょろと不自然に視線を動かし始めたのである。
――なんだ?……顔色が、悪いような。
さっきまでの笑顔が消えていた。そればかりか、何かに怯えているかのようなまなざしである。見えない敵を探すように、落ち着きなく辺りを見回す女性。何かあったんだろうか、と思った瞬間、彼女は真っ青になって口元を抑えた。そして。
「――――っ!!」
突然、店先で嘔吐し始めたのである。男はぎょっとして立ち上がった。二度、三度、と彼女は苦し気にうずくまり道に吐いている。しかも何やら様子がおかしい。その吐瀉物の色が不自然なほど――真緑なのである。
嫌な予感が、ぞわりと男の背筋を這い上がった。
慌てて椅子を蹴って店を飛び出した、その刹那。
「ぐ、ぐ、ぐぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
彼女は噴水のように緑色の体液を噴き上げた。目から、鼻から、耳から。全身のありとあらゆるところから緑色が噴き上がっている。さらにはその手足がバキバキと音を立てて、奇妙な方向に曲がった。腕が真後ろにねじりあがり、足が関節を無視して蛇腹のように折れ、さらには尻や腹のあたりから服を突き破ってみょうなものが飛び出してくるのである。
それは、植物の蔓、に見えた。
彼女の柔らかな肌を破り、深緑色の蔓が次々と飛び出してくるのである。
「きゃあああああああああああああああああああああああ!」
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
一瞬にして、通りにいた人々が逃げ出した。そして逃げる人々を、伸びた蔓が次々と捕まえていく。
みちみちみち、と彼女の制服のエプロンが破れ、彼女の腹部分に巨大な口のようなものが出現した。真っ赤に開いたそれにはギザギザの白い牙が無数に並んでいる。そして、蔓によって捕まえた人々をずるずると引きずって引き寄せ始めたのだ。
そして、ぽいぽいぽい、と腹部の巨大な口に放り込んでいく。ばきばき、ごきごき、と人間を咀嚼する音と断末魔の悲鳴がいびつなハーモニーを奏でた。
「あ、あああ、あ」
ヴァリアントだ。その単語がはっきりと頭に浮かんだ時にはもう、男の足も蔓に絡めとられてしまっていた。大好きなあの子が、ヴァリアントになってしまった。
「あああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
どうして、こんなバカなことに。
眼前に迫る口を見て、男は絶望に呻くほかなかったのである。
***
メリーランドタウンにヴァリアント出現。その情報はすぐにゴートンの耳にも入ったのだった。何故ならヴァリアント討伐は国の威信をかけて行うべきことである。町の見回りをしていた憲兵が真っ先にゴートンのもとに情報を届けてくれるのは、当然と言えば当然なのだった。
「ヴァリアントに変態してしまったのは、三番街の花屋の店員であるメアリー・マティスであるようです。いつものように接客をした直後、突然挙動不審となって嘔吐。変態を始めたとのこと。植物型のヴァリアントであり、体中から伸びた蔓を使って次々町の人々を捕食している様子なのですが……」
「が?」
「どうやら、厄介な特性があるようなのです。本体の動きはそこまで遅くはないんですが」
ホテルのロビーにいたゴートンのもとに走ってきた憲兵は、まだ二十代とおぼしき年若い青年だった。忠実に任務をこなそうとしているのは間違いないのだろうが、惨劇を目の当たりにしてしまったからなのか明らかに顔色が悪い。冷静に報告するものの、時々恐怖を飲み込むように首を振っている。
ヴァリアントに遭遇し、被害をその目で実際に見た人間の反応としてよくあることだった。単純に、怪物が人を傷つけるのを見て恐ろしかったからというだけではない。ヴァリアントという存在は、そもそも見た目が極めて醜悪であることがほとんどなのだ。世の中には様々な魔物が存在するが、そんなもの目じゃないくらいに醜く生理的嫌悪を煽る姿をしているのである。目にしただけで吐き気を催した、なんて話もよく耳にするほどだ。きっと、この青年はヴァリアントを直に見た経験が少なかったのだろう。
実際、メリーランドタウンは比較的ヴァリアントの発生件数が少ない穏やかな町である。まあ、住んでいる人口が少ないからというのも大きいのだろうが。
「あのヴァリアントは……食べた人間を、一定時間すると、お尻にあいた穴のようなところから吐き出すのです。排泄すると言えばいいでしょうか」
吐き気を堪えるような顔で、憲兵の青年は続ける。
「排泄された人間は、既に人間の姿をしていません。消化液で全身の皮膚や骨が溶けかけた、ゾンビみたいな姿に変わり果てているのです。しかも、その状態でまだ生きています」
「うげっ……マジか」
「はい。そして、暫くその場で悶えた後、全身から本体と同じように蔓を生やすのです。つまり、食われた者もヴァリアントになってしまいます。そして、その蔓で近くにいる者を殺したり、建物を壊したりと暴れまわるのです。幸い、本体と違って捕食能力はないようなのですが……」
「……なるほど」
つまり、本体を放置するとどんどんどんどんヴァリアントが増えていってしまうというわけだ。
ならば増えた連中はひとまず無視して、さっさと本体を叩いてしまうべきだろう。本体を殺せば、分身にされた者達ももとに戻る可能性がある。戻らなかったらそっちも殺して人間に戻れるかどうかをぜんぶ調べて回らなければいけないが。
――花屋の娘か。だから植物っぽいヴァリアントになったのか?しかし、何で人間を食って仲間を増やすような真似するんだよ……。
まあ、ヴァリアントの生態について追及する意味はあまりない。奴らはその人間が生きていた時の欲望や思考に大きく影響した姿になり、かつその欲望に殉じた行動をするらしいとはされているがそれもはっきりしたことはわかっていないのである。そもそも、心優しい聖女、と言われていた女の子が周囲を殺戮してまわる狂暴なヴァリアントになってしまったりするのだからまったく参考にならないだろう。
「わかった。……おい、お前ら。わかってんな?」
「はい」
ゴートンが呼びかければ、すぐに駆け付ける四人の美女たち。彼女たちは町の傭兵、あるいは元憲兵だった者達だった。全員、ゴートンの能力で虜にしてあるため、ゴートンが頼めばなんでも言うことを聞いてくれる存在だ。
「作戦通りに動け。さっさと本体をぶちのめすぞ」
ヴァリアント討伐の唯一良いところは――殺すことが本体となった人間を救う方法でもあることだろうか。おかげで、余計な罪悪感を抱かずに済む。