戦争と私たち
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ある日のこと。その日のモスコーはどこか落ち着かない雰囲気だった。理由は明確で、今日の昼に皇帝が演説をする、と告知があったからだ。
普段、私たちが皇帝を目にすることはない。皇帝や大臣みたいな貴族は宮殿のなかにいて、我々が生活する上でのルール(法律類)を勝手に決めているといった印象だ。そんな皇帝が演説をする。只事ではない、と市民はそわそわしていた。
「……ダメだ。仕事が手につかねぇ!」
「親爺さん。見に行きませんか?」
先輩職人たちも落ち着かないようだ。いつもは圧倒的な集中力で必要なこと以外は話さないのに、今日は仕事もそこそこに私語が飛び交っている。
「前のこともある。見に行くか」
ダヴィッドさんも気になっていたらしい。先輩職人たちの言葉に従い、広場へ向かうことにした。工房は街の大通りにあるのだが、出てみると周りの店からも人が出てくる。同じように皇帝の演説が気になっていたのだろう。
街の人たちがここまで皇帝の演説を気にするのには訳がある。およそ十年前にも皇帝の演説が行われていた。そのときに行われたのが開戦の演説だ。当時幼かった私に記憶はないが、母から歴史として教えられたので知識としては知っている。経緯はこうだ。
ルーブル帝国の東にはいくつかの国がある。その国のひとつであるシーナ帝国はルーブル帝国を含む列国から圧倒的な軍事力で圧迫され、様々な利権を差し出していた。その利益を享受する一方で、数億の人口を抱えるシーナ帝国を列国は恐れてもいたのだ。
しかし、その恐れは呆気なく消えた。シーナ帝国が新興国・神州帝国との戦争にボロ負けしたからだ。これでシーナ帝国の力は張子の虎でしかないことがわかり、列国は我先にと新たな利権の確保に乗り出した。
パイを仲良く切り分けられればよかったのだが、現実はそうもいかない。今度はシーナ帝国の利権をめぐり、ルーブル帝国と神州帝国とが対立した。進出した場所が被ってしまったためだ。ルーブル帝国は戦争に備えて東方の戦力を強化していたが、その途中で神州帝国から宣戦布告された。
戦場が遠かったこともあってルーブル帝国は終始劣勢に立たされる。軍事的には二度の決戦に敗北し、政治的には新興国である神州帝国に負けたことで皇帝権威が動揺。反乱の動きも出たことから、やむなく神州帝国に有利な条件で講和した。
その戦争のとき、皇帝は神州帝国の唐突な宣戦布告を非難し、開戦を私たち国民に布告する演説を行ったのである。私に記憶がないため皇帝の演説と聞いてもピンとこないが、先輩職人たちは前の戦争を思い出してしまうらしい。街の人たちが浮ついているのもそのせいだという。
皇帝の演説は帝都・ペテルブルグにある宮殿のバルコニーで行われる。私たちはモスコーの広場に設置された魔道具でそれを聞くのだ。
広場に集まった人々の多くはどこか不安そうな顔をしている。私と同年代くらいの人にはそういう雰囲気はない。世代の差を感じた。
「変なことじゃなきゃいいんだが……」
ダヴィッドさんも不安そう。
「大丈夫ですよ、きっと」
私は励ましの意味も込めて、ダヴィッドさんにそう言った。彼が返事をする前に、ザザーっというノイズがし、程なく皇帝の演説が始まった。
……
…………
………………
結論からいえば、まったく大丈夫ではなかった。多くの人が予想した通り、皇帝の演説は開戦の布告だったのだ。皇帝曰く、
『我が帝国の保護領たるディナール王国に、クローネ連合帝国が宣戦布告した。朕はディナール王国の保護のため、クローネ連合帝国に対して宣戦布告することに決した』
とのこと。皇帝はこの戦争をディナール王国を守るためのものであり、ルーブル帝国国民は正義のために立ち上がらなければならない! と大義を掲げ決起を呼びかけた。
「また戦争かよ」
「今度はクローネ連合帝国か……」
人々はうんざりした様子であったが、皇帝は同時に部分動員であることを明言した。通例、こういう限定的な動員は混乱の大きい大都市を避けて行われるため、モスコー市民はぼやく程度の受け止めだった。
ところが翌日、事態は急転する。隣国のマルク帝国が「ルーブル帝国は我々の制止にも関わらずクローネ連合帝国に宣戦した。これは看過できない」として宣戦布告してきたのだ。皇帝は即日、部分動員から総動員に切り替える。この決定でモスコーも例外ではなくなり、多くの市民に召集がかけられた。キリーロフ工房も他人事ではなく、軍に召集される先輩職人が出る。
「無事に帰ってこいよ」
「はい! 行ってきます」
ダヴィッドさんや私たちも思うところはあったが、努めて明るく無事に帰ってきてほしい、と言って送り出した。町の人々にとって戦争は割と身近なことであったが、まだ兵役が課せられる年齢ではない私や兄にとっては遠い世界の出来事だった。
とはいえ、職人が抜けたことによる穴埋めは身近な課題である。ダヴィッドさんはこれからも戦争によって徴兵される可能性を考慮して、私たち若手(徴兵適齢未満)の職人に余った仕事を任せることにした。
それでも解決しなかったのが経理の問題。ダヴィッドさんは数字に明るくなく、得意な職人に任せていた。だが、その職人が召集されてしまったため、経理をやる人間がいなくなってしまったのだ。
「私がやりましょうか?」
「できるのか?」
「これほどの大店は経験ありませんが、母の下で経理について習っていたので」
村では鍛冶屋の経理を担当すべく勉強していた、と説明。兄も優秀ですよ、と援護してくれた。
「なら任せる」
こうして私は思わぬ形で経理に携わることになった。
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通常の仕事に工房の経理作業と仕事が増えて忙しいのに、さらに出征兵士の見送りに動員されたりと戦争のおかげで急激に忙しくなった。それでも勉学は欠かしておらず、仕事が終わるとすぐにセラフィマさんの塾へ向かう。
「すみません、遅くなりました」
「いいのよ。事情は聞いているから」
約束の時間はなかなか守ることができない。遅刻するのが常だ。しかし、セラフィマさんは笑顔で迎えてくれる。ありがたいことだし、そのご厚意に応えるべく勉強にはさらに身が入るようになっていた。
「あら、遅かったじゃない」
部屋に入ると、先に来て勉強していたエレオノーラが声をかけてくる。私はセラフィマさんに向き直り、
「エレオノーラさんが起きてます。これは天変地異の前触れでは?」
と言った。茶化しているわけではなく、割とガチでそう思っている。これは異常事態だ。
当然、そんなことを言われたエレオノーラは怒る。
「失礼ね! アタシがいつも寝ているみたいに言わないでよ!」
「いや、事実じゃないですか」
彼女と出会ってから今日まで、寝ていない姿を見たことがない。今回の戦争も、彼女が寝ていないから起きたのではないかとも思えてしまう。さすがに大袈裟だが、それほどインパクトがあることだった。
「貴女がいつも寝てばかりだからそんなことを言われるのよ」
セラフィマさんは呆れを滲ませてエレオノーラに言う。納得できないらしく私に食い下がろうとしたエレオノーラだが、セラフィマさんに勉強するわよ、と言われて追及できなくなった。
その日の勉強は日付けが変わる直前まで続いた。エレオノーラは本当にどうしたのだろうか。その日は集中力が切れることはなく、セラフィマさんが終了と言うまで寝るどころか質問以外言葉を発することもなかった。まるで別人になったようだ。
勉強が終わると、セラフィマさんがお疲れ様とお茶とお菓子を出してくれる。これ自体はいつものことで、小一時間ほど雑談に興じるのが日常だ。そこで話されたのは戦争についてだった。
「お父様が出征したの」
エレオノーラがそんなことを言う。彼女の父親は陸軍騎兵大佐で、モスコー近郊に駐屯する師団騎兵連隊の連隊長だという。
「騎兵隊か。見送りのとき見たよ。格好よかったな」
定かではないが、先頭にいた立派な軍服を着たおじさんが彼女の父親だろう。彼の率いる騎兵隊は勇壮で、男心をくすぐるものがあった。さらに、ルーブル帝国の騎兵といえば世界でも屈指の精強さを誇るといわれている。
「ありがと」
嬉しそうにするエレオノーラ。だが、次の私の言葉で再び表情を曇らせる。
「大佐ってことは、将軍になれるかもしれませんね」
「……それは無理よ」
「どうして?」
大佐の次は少将。将軍と呼ばれる階級になってくる。ましてや、モスコーのような大都市の部隊に指揮官として配属されているのだ。昇進は近いと思ったのだが、エレオノーラは否定する。
「あのね、イワンくん。エレオノーラの家だと大佐でも栄達した方なのよ」
上に行けばいくほどポストの数は限られてくる。ならば、どのような人物が上にいくのだろうか? セラフィマさん曰く、上に行くのは家柄のよい貴族だけだという。それ以外の貴族や平民は、どれだけ昇進しても大佐で止まるのだと。
「エレオノーラの家だと中佐で予備役ってことも珍しくないわ。それからすると、現役の大佐をしているのは凄いことなのよ」
だから地位については褒められて嬉しそうにするが、出世となると表情を曇らせるのだ。ちょっと居た堪れない空気になったが、セラフィマさんが努めて明るく言う。
「でも、戦争で活躍すれば昇進できるかもしれないし、応援しましょう」
「うん」
希望のある言葉を聞いて、エレオノーラは微笑む。無理だとわかってはいるが、気遣いに感謝しての愛想笑いだろう。
これは後で聞いた話なのだが、貧乏貴族が軍人になるのは止むに止まれぬ事情があるからだそうだ。
貴族は皇帝から任命される特権階級で、様々な恩恵が与えられている。その見返りに貴族は皇帝への奉仕を要求されるのだ。その方法は官民に大別されるが、民の分野で奉仕できるのはごく一部。多くは官の分野で奉仕するのだ。
官の奉仕は武官と文官があり、貴族という社会的地位から幹部クラスで入ることになる。そのために必要なのが学識であり、特に文官となれば帝国最高峰の大学を出ていることが前提だ。そこに通うための学費、入学するための学習費などを考えると、裕福な貴族に限られる。そのため、学費が払えない貴族は武官の道を歩む。
士官学校は学費を国が免除しているため、ある程度の学力があれば誰でも入ることができる。身分も問われず、平民から貴族まで幅広い身分の人間が通っていた。一見平等だが、在学中から実家のコネなどで扱いは変わるし、卒業後はそれが顕在化する。出身やコネによって昇進速度からポストにまで差が生まれ、勤務成績などは二の次だという。もはや出来レース。なんとも腐ったシステムだ。
まあ、職人にだってそういう面はあるので、あまり批判することはできないのだが。
その点、私は恵まれているのだろう。この話を聞いて、自分の境遇をありがたく思った。
……エレオノーラの父親の戦死が伝えられたのは、出征から一年後のことだった。