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それから、何日経ったのでしょうか。アデュラリアは今日もまたずっとうずくっていました。
あの日以来、青年はアデュラリアに逢いに来ません。それが何故なのかは解りませんが、今のアデュラリアにとっては幸いなことでした。あの青年に逢うのが怖いのです。それは彼が人間であるということを再認識したからなのか、それともまた別の理由からなのかは解りません。
ただ、それでも青年のあの哀しげな表情を思い出すと、胸が苦しくなるのです。
「どうしてこんなにもあの人のことばかり考えなくちゃいけないの」
涙で濡れる顔を隠すように、アデュラリアは顔をショールに押し付けました。
こんなのは不公平です。自分ばかりがこんなに辛くてて苦しくて。それでもあの笑顔を、優しく触れてくれた手を、綺麗だと言ってくれた声を思い出すと、幸せな気持ちが押し寄せてきて。
こんな気持ちをアデュラリアは知りません。ただ一人で踊っているだけで幸せだった自分が今では信じられません。
「わたし、もう踊れないわ」
アデュラリアがそう呟いた、その時でした。
ドン!!
大きな衝撃が、空間全体から伝わってきました。部屋全体、宇宙船全体が、次々と何かに襲われているようでした。
爆音と共に、強い衝撃が何度も繰り返し起こります。とうとう間近でもその衝撃が走りました。
グラグラと小瓶ごと世界が揺れて、バキバキという音がしたかと思うと、突然棚の中に光が差し込みました。
その光はどんどん大きくなって、やがて一気に視界が開けます。どうやら棚そのものが壊れたようです。
そればかりではありません。そのままぐらりと棚は倒れ、床に次々に小瓶が叩きつけられました。
小瓶はどれもが粉々に割れていきます。その中から外へと、星たちは歓声を上げて飛び出していきました。
「流星群だ!」
それは誰の叫び声だったのでしょうか。人間たちの悲鳴だったのかもしれないし、星たちの歓声だったのかもしれません。
流星群が、彼らご自慢のアストロバイクで、この宇宙船に突っ込んできたのです。
流星群と言えば、宇宙の暴走族と悪名が高く、舞踏会にも乱入してくるので、女王様の悩みの種のひとつです。
けれどもこの時ばかりは、人間に捕われていた星たちにとって、間違いなく流星群はヒーローでした。
宇宙船には穴が開き、そこから捕えられていた星たちはどんどん宇宙へと飛び出していきます。
反対に、人間たちは、悲鳴を上げて逃げ惑うばかりです。星を捕まえる余裕など誰にも無いようです。
アデュラリアもまた、他の星たちと同じように宇宙へと飛び出しました。狭苦しい小瓶とは正反対の、どこまでも広い宇宙が、アデュラリアの身体を受け止めます。
「アデュラリア!」
「パイラルガイサイト!?」
アストロバイクに乗ってやってきた、銀がかった紅に輝く彼の姿に、アデュラリアは目を見開きます。
どうして、とアデュラリアの唇が動くと、パイラルガイサイトは得意げに笑いました。
「流星群に頼んだんだ。仲間たちを助けてくれって。人間に一泡吹かせてやろうって、みんな乗り気になってくれたんだ」
パイラルガイサイトは何でもないことのように言いますが、流星群を説得することがどれだけ大変なことなのか、アデュラリアにだって解ります。
アストロバイクで宇宙を好き勝手に集団で走り回っている流星群を捕まえて、宇宙船に突撃しろだなんて、一体どんな顔で言えばいいのでしょう。
彼がそこまで頑張ってくれたのは、他ならぬ自分のためなのだと思うと、アデュラリアはなんだか泣きたい気持ちになります。
「乗れよアデュラリア。早くこんなところからおさらばしようぜ」
「――ええ、そうね」
そうするのが一番いいのでしょう。それがアデュラリア自身のためであり、星としてあるべき姿です。パイラルガイサイトが差し出してきた手を拒絶することなどもうできません。
またしても零れそうになる涙を堪えて、促されるままに、アデュラリアはパイラルガイサイトの乗るアストロバイクの後ろに乗ります。
アデュラリアが腰を落ち着けて、その両腕がパイラルガイサイトの腰に回ったのを確認すると、彼は喜びを最大限に表現するように大きく紅く輝きました。
「よぉっし! 飛ばすぜ!」
ブォン、と音を立てて二人を乗せたアストロバイクは走り出しました。そうするべきではないと解っていながらも、アデュラリアは後ろを振り返りました。
流石、アストロバイクです。見る見るうちに宇宙船は後ろに遠退いていきます。その宇宙船からはいくつもの星たちが飛び出していき、また、小型の宇宙船らしきものもまた飛び出していくのが見えました。
これでおわりね、とアデュラリアは思いました。
今回のことは、星たちの間で、大事件としてしばらくは取り沙汰されるでしょうが、いずれは話題に上ることもなくなるでしょう。
そうして忘れていくのです。どれほど大きな事件が起きたとしても、時が過ぎれば次に開催される舞踏会の方が大切になっていくのです。
わたしもそうなのかしら、とアデュラリアは自分に問いかけました。
忘れてしまえばいいのよ、とアデュラリアは自分で答えます。
忘れてしまえば、きっとまたアデュラリアは、踊ることができるようになるでしょう。一人で楽しく踊り、多くの賞賛を一身に受けることになるでしょう。
もしかしたら、誰かとペアを組むことだってあるかもしれません。その時はきっと、パイラルガイサイトの手を取って踊るのでしょう。
そうやって何もかも忘れてしまえばいいのです。
宇宙船の姿を遮断するように目を瞑り、忘れるのよ、と何度もアデュラリアは自分に言い聞かせます。
けれども、アデュラリアのその閉じた瞼の裏に蘇ったのは、やっぱりあの青年の姿なのでした。
「停めて、パイラルガイサイト!」
アデュラリアは叫びました。その言葉に、キキッと音を立ててアストロバイクが停止します。
何事かと肩越しに振り返ってくるパイラルガイサイトに、アデュラリアは真っ直ぐに彼のその銀がかった紅の瞳を見返して言いました。
「ごめんなさい。わたし、行けないわ」
「アデュラリア!」
パイラルガイサイトが怒鳴りつけてきますが、アデュラリアはアストロバイクから飛び降ります。そしてそのまま、元来た方向へ向けて走り出しました。
履いていた女王様から授かった靴は、高い踵が邪魔だったので脱ぎ捨てました。肩からかけていたショールも、気付けばどこかへ飛ばされていました。破壊された宇宙船の破片に、ワンピースの裾が引っかかって裂けてしまいます。けれど、どれもこれも、そんなことはもうアデュラリアにはどうでもいいことでした。
ただ彼女の頭を占めるのは、あの青年のことだけです。
逢いたい、と思いました。逢わなくては、と思いました。
宇宙船に戻ったとしても、青年がいるかなんて解りません。生きている保証すらないのです。
それでもアデュラリアは、何故か彼がいるような気がしてならないのです。そんなはずがないと解っていながらも、彼が自分を待っているに違いないと、そう思えてならないのです。
どれだけ走ったことでしょう。
走って、走って、アデュラリアはようやく、宇宙船の元まで辿り着きました。いいえ、それはもう、宇宙船などとは呼べないスクラップの塊でした。
アデュラリアは躊躇うことなくそれに近付いて、必死に周囲を見回します。
「っ!」
いました。
スクラップになった宇宙船に引っかかるようにして、あの金色のラインの入ったハリボテを着た青年が、ゆらゆらと宇宙をただよっていました。
他の人間の姿は見当たりません。流星群によってそのまま吹き飛ばされてしまったのか、それともあの小型の宇宙船で脱出していったのかは分かりません。そんなことよりも、アデュラリアにとっては、青年ただ一人の方がよっぽど重要で、大切でした。
アデュラリアは青年に近付いて、ハリボテ越しにその顔を覗き込みます。自分の輝きが反射してよく見えないので、必死にアデュラリアは輝きを抑えました。
そうしてようやく見えた青年の顔に、アデュラリアはほっと息を吐きました。青年の青い瞳は閉じられ、意識こそ無いようでしたが、彼の薄く開いた唇は、確かに呼吸を繰り返していました。
生きているのです。
それが時間の問題だとも解っていましたが、それでもアデュラリアは喜ばずにはいられません。
「ああ女王様、ありがとうございます!」
天頂に座す女王様にアデュラリアは感謝を捧げました。
どうしてこんな風に思うのか、アデュラリアはやっと気付きました。ええ、そうです。
「わたし、あなたが好きなんだわ。ずっと、ずぅっと前から、好きだったんだわ」
この青年のことを思うとどうしてこんなにも辛くて苦しくて、そして幸せなのか。
それはすべて、アデュラリアが彼に、恋をしていたからです。そのはじまりは、この広い宇宙で出逢った時からではありません。
もっとずっと前から、アデュラリアは彼に恋をしていたのでした。
アデュラリアが小瓶に閉じ込められていた時、青年は言いました。「人間は死んだら星になる」のだと。
アデュラリアは、なんて馬鹿なことを言うのだろうと思いました。
そう思ったのは初めてでは無いことを、アデュラリアは思い出していました。
そうです。アデュラリアは昔、同じことを思ったことがあるのです。
青年のロケットペンダントがすぐ側にぷかぷかと浮いています。アデュラリアはそれに手を伸ばし、パカリと開きました。
いつしか自分が人間と同じ大きさになっていることにアデュラリアは気付いていましたが、それを疑問に思うことはありません。
アデュラリアがアデュラリアになる前はこの大きさだったのですから、不思議に思うはずもありません。
ロケットに入っている写真の中では、茶金の髪に青い瞳の少年の隣に、銀の髪でも銀の瞳でもない、黒い髪にこげ茶色の瞳の少女が並んでいました。アデュラリアが、人間の少女として、今はもう青年と呼ばれる年齢になった少年と一緒にいた時の写真です。
アデュラリアは、もう、すっかりすべてを思い出していました。
今はアデュラリアという星になった少女は、かつて、少年の幼馴染として、ずっと一緒にいたのです。
アデュラリアの脳裏で、当時の少年の声と姿が再生されます。
あの日、人間の少女だったアデュラリアは、少年と一緒に夜の公園にいました。
いつものように少年と一緒にハイスクールから帰る途中、少年が寄っていこうと言ったからです。
――ひとは死んだら星になるんだよ。
――星に?
――そう。そうして宇宙から僕らを見守ってくれているんだって。
星の合間に宇宙ステーションや人工衛星といった人工物が入り混じり、他の星への定期便が駅から打ち上げられていく空を見上げながら、少年はそう言って微笑みました。
その時にはもう、星は願いを叶えてくれる便利なもの、という認識が当たり前のように知れ渡っていましたから、少年の言い分は、少女には随分とおかしなもののように思えました。
けれど、少女はそれを少年には言えませんでした。少年の家族が皆、少年を残して死んでしまったことを、少女はよく知っていたからです。
だからその代わりに、少女は少年の耳元に唇を寄せて、そっと秘密を打ち明けました。
――ねえ、わたし今度、星狩りに行くの。
――星狩りに? きみが?
当時、星狩りは、新たなレジャーイベントとして一般に開放されたばかりでした。競争率が激しいそのイベントの抽選に、少女の家族は見事当たることができたのです。
まだ家族しか知らないその秘密を教えたのは、少年が初めてでした。
驚いた様に青い瞳を見開いて見つめてくる少年に、少女は得意げに胸を張ります。
――ええ。だからあなたの分まで星を持って帰ってきてあげる。
そして、首から下げていた銀色の鎖を外して、少年に手渡しました。
――約束の証にこれをあげる。ロケットペンダントって言うのよ。
『ロケット』なんてあなたにぴったりじゃない、と少女は笑いました。
少年が将来、宇宙関係の仕事に就きたいと思っているということを少女は知っていました。少年の部屋にある数少ない本が皆、宇宙に関する本ばかりなのですから気付くのも当然でしょう。
――いいよ、こんなの。
――しーらないっ。もうわたしは決めたの!
聞く耳はありませんと耳を塞いでみせる少女に、少年はロケットペンダントを片手に苦笑していました。
星を持って帰ってくるということは、少年の『人間は死んだら星になる』という言い分に反しているような気はしましたが、それよりも少女は、少年に星をあげたいと、そう思ったのです。少年がずっと抱いてきたであろう、家族を取り戻すという願いを、叶えてあげたかったのです。
けれど、結局、それは叶いませんでした。
少女の乗った宇宙船は、発射後に整備不良が発覚し、宇宙の藻屑となったのですから。乗客は皆、その命を落としました。もちろん少女もその例に漏れませんでした。
そして、その宇宙で死んだ少女は、アデュラリアという銀の星になったのでした。
「ペンダント、まだ持っていてくれたのね」
果たせなかった約束の証を、今でも彼は持っていてくれたのです。
青年の唇に、アデュラリアは宇宙服越しにキスをしました。触れるだけのファーストキスは、冷たい感触がしました。
唇を離すと、青年の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がり、そして瞳が露わになります。アデュラリアが大好きな青い瞳です。
青い瞳は、間近にあるアデュラリアの顔に心底驚いたとばかりに見開くと、そのまま何度もアデュラリアの頭のてっぺんから足の爪先までを往復しました。
どうやら彼には、アデュラリアの姿がただの輝きとしてではなく、人間と同じ姿に見えているようです。
「そんなに見なくても、これは現実よ?」
消えたりなんてしないわ、と、アデュラリアが思わず笑いながらそう言うと、青年の瞳の動きがぴたりと止まります。
あら、とアデュラリアは思いました。姿ばかりではなく、言葉までもが、青年には通じている様子でした。だったら話は簡単です。アデュラリアは青年に笑いかけました。
「おひさしぶり、って言うべきなのかしら」
それだけで青年は、すべてを理解したようでした。ああ、と、深く青年は息を吐きます。
「きみだったんだね」
「ええ、わたしよ」
髪の色も目の色も、人間だったころと全く異なると言うのに、青年はアデュラリアが確かに自分の幼馴染の少女だと解っているようでした。
自分を真っ直ぐに見つめてくる青い瞳に耐えきれなくなり、アデュラリアは俯きます。アデュラリアには、青年に謝らなくてはならないことがありました。
「星、持って帰れなくてごめんなさい」
約束の証なんてものまで渡したのに。そう悔やむアデュラリアの身体を、青年が抱きしめました。
突然の青年の行動に、アデュラリアは動揺せずにはいられません。
宇宙服は体温を通さないはずであるのに、何故か温もりが感じられる気がしました。おずおずと、アデュラリアもまた、青年の背に手をまわしました。
「星なんていらなかったよ」
「え?」
ぽつり、と青年が呟きます。青年の腕の中から彼の顔を見上げると、青年はアデュラリアの細い身体を抱きしめる腕にもっと力を込めて言いました。
「僕は、ただきみが無事に帰ってきてくれたら、それだけでよかったんだ」
「……ごめんなさい」
青年の胸に顔を押し付けて、アデュラリアも青年に抱きつく腕に力を込めます。
ずっとこうしていたいとアデュラリアは思いました。けれど、それは願ってはいけないことでした。アデュラリアは星で、青年は人間です。星は願いを叶える側の存在であり、人間こそが願う側の存在なのです。
アデュラリアは青年の身体をそっと押し返し、その腕から抜け出しました。そしてできるかぎりの、精一杯の笑顔で笑います。
「さあ願い事を言って。今度こそ叶えてみせるから」
彼の顔色がどんどん悪くなっていっていることにアデュラリアは気付いていました。
今まさに目の前で死にかけている青年が助かる方法はたった一つ。それはアデュラリアが自分の命を燃やして奇跡を起こすことでした。
アデュラリアは、不思議とそれを怖いとは思いませんでした。むしろ自分が星であることに感謝しました。青年を助けられることが嬉しいと、そう思いました。
けれど青年は「困ったな」と笑いました。アデュラリアになる前の少女が、あの夜見た苦笑と、それは同じものでした。
「僕の願い事はもう叶ってるんだ」
「どういうこと?」
首を傾げるアデュラリアに、青年は悪戯げに笑います。
「僕の願いは、きみにもう一度会えますようにってことだったから」
青年のその言葉に、アデュラリアはくしゃりと顔を歪めました。笑おうとしたのか、泣き出そうとしたのか、自分でも解りません。
「ばかね」
「そうかな」
「そうよ」
ばかよ、と繰り返して、今度こそアデュラリアは笑いました。
「もうわたしは決めたの。あなたの願いを叶えるって」
「相変わらずだね」
「そうかしら」
「そうだよ」
「なら、解るでしょう?」
アデュラリアが人間の少女だったころから、一度決めた事をなかなか覆さないことを、青年はよく知っているはずでした。
青年はもう一度困ったように笑ってアデュラリアを見つめます。アデュラリアも青年の青い瞳を真っ直ぐ見返しました。退く気は無いのだと、もう決めてしまっているのだと、そう視線に込めて。
「さあ、早く願い事を言って?」
「……じゃあ、僕の願いは―――――」
そう言って青年は笑いました。アデュラリアは一瞬驚いた様に目を見張って、そしてすぐに笑いました。
その拍子に、アデュラリアの白い頬を一筋の銀の雫が伝いました。青年の指がその涙を拭います。
そうして二人は一緒に、鮮烈な銀の光に呑み込まれました。