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アデュラリアが行動に移したのはそのすぐ次の日のことでした。
宙を蹴り、そこらじゅうに浮かぶ岩石を隠れ蓑にして、やってきたのは昨日、あの人間と出逢った場所でした。
宇宙船の姿は見えませんが、近くにいることは間違いないでしょう。周囲に他の星たちの姿は見えません。それぞれが皆、自分の軌道に乗って宇宙船から離れたり隠れたりしているのです。
アデュラリアとて、いつもであればそうしていました。けれども今日のアデュラリアの足は、この場所へと向いていました。
岩石に隠れて警戒を怠らないようにしながら、アデュラリアは周囲を見回します。アデュラリアの鮮烈な輝きは今日ばかりはなりを潜めていました。それこそ、いつもの彼女を知る他の星たちが見れば、何があったのかと驚くくらいに。
舞踏会の会場のすぐ側であるこの辺りは、普段はもっと様々な輝きで溢れているのですが、今日は閑散として物寂しい雰囲気に満ちていました。
仲間たちはいません。そして、あの、人間も。
アデュラリアは、安心よりもむしろ、がっかりとしてしまっている自分を感じました。本来、人間に遭わずに済むのであればそれに越したことなどないというのにです。
わたしはどうしたかったのかしら? と、ここまできて、ようやくアデュラリアは自分に問いかけました。
こんな危険な真似までしてここまで来るなんて、頭がどうかしてしまったのかもしれません。それでなくても昨日から、なんだか胸が苦しいというのにです。
もう早く、見つかってしまう前に逃げよう、とアデュラリアが宙を蹴った、その時でした。
「あれ?」
遠くから聞こえてきた、星が発することのないくぐもったその声に、アデュラリアの足が、ぴたりと止まりました。
その声をアデュラリアは知っています。何せ昨日聞いたばかりなのですから当たり前です。
恐る恐る振り返ったその先で、あの金色のラインの入ったハリボテを着た人間が、こちらを見つめて浮いていました。
「昨日の星だろう? こんなところにいたら捕まってしまうって言ったのに、また来たのかい?」
人間とアデュラリアの距離は、昨日とは異なり、人間が手を伸ばしてもアデュラリアには到底届かないくらいの距離にいました。
人間が一歩足を踏み出します。反射的にアデュラリアは後ろへと後退りました。
「大丈夫。捕まえたりなんてしないよ」
人間はそう言いますが、そんなこと信じられるはずがありません。そう言って油断させておいて捕まえられることだって十分あり得ます。
ハリボテを頭から被った人間がどんな表情を浮かべているのか、アデュラリアには分かりません。人間にも、アデュラリアがどんな表情なのかなんて分かりやしないでしょう。
ドキドキとアデュラリアの心臓が高鳴り、それに連動するように彼女の輝きもまたきらきらと銀色に明滅します。
どうしよう、とアデュラリアは思いました。何のために危険を冒してまでこの場所にやってきたのか、人間を前にしてもまだ解らないのです。
逃げなくちゃ、と思うのに、身体はいうことを聞いてくれません。まるで宙に縫いとめられたように、女王様から贈られた銀の靴はその場に留まっています。
人間もまた、動こうとはしませんでした。近づいてこようとはせず、ただアデュラリアの方を見つめているばかりで、それ以上は何の反応も見せません。
そうしてお互いに何をするでもなく宇宙に浮かび、アデュラリアにとっては見つめ合っていた時、人間は感嘆を隠しもせずにこう言いました。
「きみはとても綺麗だね」
その言葉は、アデュラリアの身体に、まるでいて座が放った矢に貫かれたかのような衝撃を与えました。
綺麗だなんて、アデュラリアには聞き慣れた言葉であるはずでした。それなのに何故でしょう。人間のその言葉は、アデュラリアには全く違った言葉のように聞こえました。
かぁっと身体が熱くなって、輝きを押さえることができません。美しい銀の光が周囲を照らします。
眩しげに人間が腕を上げるのを余所に、気付けばアデュラリアはその場から走り出していました。
人間が追ってくる気配はありません。アデュラリアは宇宙を走り、自分の軌道へと一気に戻りました。
ドキドキとまだ心臓は高鳴っています。それは全速力で走ってきたせいでしょうか。それとも他の理由のせいでしょうか。アデュラリアには解りません。
ただあの不格好な、金色のラインの入ったハリボテを着た人間の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れないのでした。
そしてその日から、アデュラリアと人間の、奇妙な交流が始まりました。
我ながら懲りればいいと知っていながら、あの場所に足を運ぶアデュラリアの前に、あの人間はいつも現れました。
アデュラリアが先にいる時もあれば、人間が先にいる時もありました。お互いに決して届かない距離を保ちながら、アデュラリアは何度も何度もあの場所に足を運びました。
金色のラインの入ったハリボテを着たあの人間は、知れば知るほど奇妙な人間でした。
こちらに明らかに気付いているだろうに、アデュラリアを捕まえようとするどころか、近寄る素振りすら見せないのです。
時折挨拶でもするかのように手を振られ、何度も肝を冷やす羽目になりました。
それでもアデュラリアは、あの金色のラインが入ったハリボテを見つけるたび、その姿を人間の前に曝さずにはいられませんでした。
「こんばんは」や「また会ったね」。
そんな些細な言葉を遠くからかけられるたび、心が跳ねるような感覚がするのでした。
いつも一定の距離以上を保っていたアデュラリアと人間でしたが、アデュラリアは一度、人間の、本当にすぐ側にまで近寄ったことがあります。
どうしてそんな気になったのかなんて、深く考えてはいませんでした。危機感も何もなく、ただその側にいきたいと、そう思っただけでした。
人間が手を伸ばせば、瞬きもしない内に捕まってしまいそうな距離にまで近付いて、人間の顔を覗き込みました。
ハリボテ越しでは、アデュラリア自身の光が反射して、人間の顔はよく見えません。
けれど何故でしょう。アデュラリアはその時、確かに微笑みかけられたような気がしました。
「やっぱりきみは綺麗だね」
くぐもった声で優しくそう言って、そして、人間は、アデュラリアを捕まえるどころか、触れることすらなく、やっぱりそのままいつものように、宇宙船へと帰っていったのです。
残されたアデュラリアは、身体が震えているのを感じました。
なんだか思い切り輝きたくて仕方がありません。とは言え、どこに隠れているか解らない宇宙船に見つかってしまうかもしれないと思えば、そんな真似などできるはずもありません。
スーパーノヴァ直前というのはこういうことをいうのでしょうか。アデュラリアは頭を悩ませます。
「一体何を考えているのかしら」
考えても考えても、あの人間が何をどう思い、自分を野放しにしているのかさっぱり解りません。そして同時に、自分が何をどう思って、あの人間の元に足を運んでいるのかも。
ただあの人間のことを考えると、胸が温かくなるような、それでいて苦しくなるような、不思議な感覚がするのです。
あれほど楽しみにしていた舞踏会が、人間たちのせいで開けなくなっているというのに、そんなことも気にならなくなるくらいに、アデュラリアの中は、あの金色のラインの入ったハリボテを着た人間のことでいっぱいでした。
そして今日もアデュラリアは、あの人間がいるであろう場所に足を運びます。
今日は人間の方が先に来ていたらしく、アデュラリアの姿を見つけると、ゆっくりと人間は手を挙げました。
「やあ、今日も来たんだね。また逢えて嬉しいよ」
遠くでそう言う人間に向かって、気付けばアデュラリアは足を踏み出していました。
とん、とん、と宙を蹴って、人間のすぐ側まで降り立ちます。ドキドキと心臓がいつも以上に、煩いくらいに高鳴っています。いてもたってもいられません。自然と身体が動き出します。
くるり、くるりと、アデュラリアは人間の周りでステップを踏み始めました。
ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。
もう何十回、何百回、それ以上にと繰り返してきたワルツのステップです。
人間はしばらく驚いた様に固まっていましたが、やがて、まるでアデュラリアのステップに応えるかのように、その武骨なハリボテの身体を動かしてくるり、くるりと回り始めました。
「まるで踊っているみたいだ」
「みたいじゃないわ。踊っているのよ」
人間の楽しげな声音に、伝わるはずがないと解っていながら、アデュラリアはそう答えました。
ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。
大きさも種族も何もかも異なる星と人間と踏むステップは、本来であれば、決して許されないものでした。
けれどアデュラリアはその時、自分でも驚く程に楽しくて仕方がありませんでした。
ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー……。
アデュラリアの纏うワンピースが翻り、ショールがなびくたび、きらきらと美しい銀色が瞬きます。
この時間がいつまでも続けばいいのにと、アデュラリアは思わずにはいられませんでした。
けれど、そんなことは叶いません。
時間はあっという間に過ぎて、人間はふとステップを止めました。
まだまだこれからなのに、と不満に思うアデュラリアの気持ちなど知る由もなく、人間はふわりと宙を蹴りました。
「もう戻らなくちゃ。ありがとう、楽しかったよ」
ええ、わたしもよ。
そうアデュラリアが答えるよりも先に、人間は、宇宙船が停船しているであろう方向へと飛んで行ってしまいました。
後に残されたのは、普段は白いその頬を赤く染めて、高鳴る鼓動をなんとか押さえようとしているアデュラリアだけです。
アデュラリアは、あの人間と初めて出逢った時のようなふらふらとした足取りで自分の軌道へと戻ります。
それはいつもの彼女の軽やかなステップを知る星たちが見れば、信じられないと言うに違いない、おぼつかないものでした。
軌道に戻ったアデュラリアは、ともすれば心のままに思い切り輝きそうになる身体を自分で抱きしめながら呟きます。
「――パートナーがいたら、あんな感じなのかしら」
それは思わず出た呟きでした。
自分が何を言ったのか遅れて気付いたアデュラリアは、ハッと息を飲み、慌ててその考えを打ち消します。
自分は何を考えているのでしょう。相手は人間、それも不格好なハリボテ付きです。自分たち星を捕まえて攫って行く、恐ろしい人間なのです。
けれどあの金色のラインの入ったハリボテを着た人間は、そんな恐ろしい人間たちとは違っているように思えました。
あの人間が他の人間たちと同じであるならば、初めて出逢った舞踏会のその日に、アデュラリアを捕まえていたに違いありません。変な人間です。
だからこんなにもわたしも変なんだわ、とアデュラリアは思いました。