第七話
「ああ、もうっ!」
密集した低木に視界と行く手を阻まれ、コルネは苛立たしげに呟いた。その背に魔法陣の光が灯り、瞬時に空中へと展開された力場、不可視の階を駆け上ってゆこうとする。
この立体的な機動性が強襲型の強みだ。身体能力の強化度合いは重装型であるウナには劣り、偵察型のレダと同程度だが、防御にも転用出来る力場操作の能力によって高い前衛としての適性を持つ。
三番目のノードとして橙が開いた者が分類される兵科。神殿騎士隊の主力兵科であり、地形に左右されない切り込み役。
「コルネ!」
「ひゃっ!?」
だが、ルークは鋭く叫んでコルネを制止していた。困惑したような顔で降りてきたコルネに、ため息混じりに告げる。
「先行するなと言ったでしょう。腕1本ぶんの損傷を負っているの、忘れたんですか。新手の<異形>は中型が5体、それも一箇所に集まっている。貴女一人が行ったところでどうにもならない」
「でも……」
「貴女を失うわけにはいかないんです」
反論しようとするコルネに、ルークは説くようにして言った。少し驚いたような顔をしたコルネは、ルークの顔を上目遣いに見上げる。
「……なに? 心配してくれてるの?」
「当たり前でしょう。ランク5の強化適性は千人に一人だ。そうそう補充出来るものじゃない」
遅滞なく答えられた言葉に、コルネの顔がみるみる不機嫌さを帯びてゆく。しかし、そちらを最初から見ていないルークは気付いた様子もなく、言葉を続けていた。
「僕達の、この<異形>狩りは、退くことの出来ない最終防衛線――じゃあない。教会関係者の安全を確保するための街道警備、その更に予防でしかない。神兵を一兵でも失うおそれがあるのなら<異形>を見過ごしても構わない、そういった性質のものです。ですから……」
「ああ、わかった! わかったわよ! わかったからもうそれ以上言わないで! 口を閉じてて!」
言いさしたまま、何を怒っているのだろうといったような顔をルークはしていた。気を取り直して視線をやや後方へと向ける。
「レダ、具体的な作戦は貴女にお任せします。最優先はあの子の保護。損害は出来るだけ抑え、余裕があれば一匹でも<異形>を削りたい」
「……その方針でいいのかい?」
レダは意外だというように問い返した。先程言った目標、小屋を調べるというのであれば、<異形>の殲滅を最優先とするだろうと彼女は思っていた。通常、神殿騎士隊は各隊ごとにきっちりと持ち場を決め、その中で出現した<異形>に対処するものだ。遊撃などをやっているのは予知を持つルーク隊のみであり、近場に――こんな街道筋からも外れた僻地に、動ける神殿騎士隊など居ない。
つまり、敵を残したとして引き継ぎも出来ない。更にアルフラという足手まといまで抱えたならば、小屋を調べに戻って来られるのはだいぶ先になってしまう。
救出は諦め、会敵予想地点で待ち構える。彼ならばそうするだろうと思っていたのだが。
「言いたいことはわかりますが、敵の数が多すぎる。救出を捨てて戦闘に専念したとしても、倒しきれるかどうかわかりません」
ルークはそう言っていた。その顔にはまるで罅のように、一瞬だけ感情が吹き出す。
「見捨てた上で仕留めきることも出来なかったでは、話にもならない」
「……あいよ。了解した、隊長」
苦笑のようなものを浮かべるレダを、ルークは怪訝そうに見る。
「何か、おかしな事を言いましたか?」
「いいや、何も」
はぐらかすレダから、ルークは釈然としないままに視線を逸らしていた。重ねて問うたところで言ってくれるとも思えない。そして一方レダの方は、ルークが自分自身で気付いていないらしい事に――個人的感情で判断を歪めたことに――妙な愉快さを感じながら、ひと一人を救出しつつ中型の<異形>5体を相手取るための作戦を組み上げ始める。
それはなかなかの難業であり、だからこそと言うべきか、さして時間もかからずに終わっていた。
通常、中型の<異形>1体につき、ランク3の強襲型神兵が5名以上で対処すべしと言われている。ランク5、しかも重装型を含む編成であったからこそ先の<異形>を抑えられたが、あのようなことは本来全く推奨出来たことではない。
中型が5体などという事態になれば、30名編成の古参神殿騎士隊を呼んでくるべきなのだ。それが出来ない以上、やれる事は限られる。撹乱と陽動、各個撃破。それしかない。
「カティア、あんたの仕事が増えそうだね」
「しかも、駆けつけでそれをやれと言うのでしょう? 冗談なら良かったのだけれど」
13番隊以前の古参神殿騎士隊においては劣化強襲型としか扱われない支援型のカティア。彼女は軽く肩をすくめ、含み笑ってみせていた。
※
「……っ」
悲鳴を圧し殺して、アルフラは後ずさる。震える膝が落ちかけ、その身体が僅かに傾ぐ。
<異形>は触手を揺らしながらゆっくりと近づきつつあった。その姿は先に見た、ナメクジのような下半身を持つ大男と全く同じに思える。しかも一体ではなく、その後ろに少なくとも二体、同じような姿が続いている事にまでアルフラは気付いてしまった。
どうしてあんなものがまだ居るのかはわからない。だが一つだけわかっている事は、慣れ親しんだ筈のこの森が、既にアルフラの知るものとはかけ離れた魔境へと変貌してしまった、ということである。
まるで悪夢のようだった。<異形>の姿もまた、まさに悪夢から這い出してきた代物として相応しい。けれども、そうでないことは体重をかける度に鈍い痛みを訴える右の足首が否定していた。これは紛れもない現実であり、明らかな死がにじり寄って来ているのだと。
こんな場所にはもう居られない。
踵を返し、アルフラは駆け出そうとする。しかし一歩を踏み出そうとするより前に、床に横たわる"何か"につまづき、彼女はその場に倒れていた。満足に受け身を取る事も出来ず、打ち付けた肘や腰が痛む。思わず腕を抱え込もうとして、アルフラは指先に感じた、妙に滑る感触に眉をひそめる。
なに……これ――。という困惑の時間は一瞬である。その正体に思い至った瞬間、アルフラは元よりあまり血色の良くない顔を蝋のように青褪めさせ、おそるおそると自分の手を見た。
「あ……」
手の半ば以上を染めていたのは、タールのようにべたつく赤黒さだった。綺麗だった薄紫の服は床に広がる老婆の血に汚れ、もはやどうやって落とせば良いのかもわからない褐色の染みを広範囲に作ってしまっていた。
失望が広がる。自分の情けなさに涙が出てくる。死体をそのままにして、こんな服などに喜んでいた自分への応報としては、この結果と迫りつつある<異形>とは似合いの滑稽さではあったが。それを悟って道化らしい笑みを浮かべてみせるような余裕は、今のアルフラにはなかった。
「この……っ!」
釣り上がった目を老婆の死体へと向ける。足の下でぐにゃりと、気味の悪い感触を伝える死体を蹴って離れ、膝立ちになって死体を見下ろす。
「なによ、なんだってのよ……こんな服一つくらいだって、あたしにくれてやるのは嫌だって言うの?」
拾われた事に対する恩義はだいぶすり減り、薄れかけていた。10年も前であれば当然か。そして二人はそれに代わるものを――情であるとか、愛であるとか――育て上げられなかった。
対価は既に十分すぎるほど払ったとアルフラは思っていた。だが老婆の死に顔は、驚いたような視線を虚空に据え続けるその表情は、足りないと訴えているように彼女には思えて、心の中に憎悪がちろりと火種をつける。
「あなた、魔女なんでしょう? でもそれらしい事をしている所なんて、見たことがない。ずっと不機嫌そうに小屋の中に引き篭もるばかりで、ここ数年なんてあたしが居なければ食事すら用意出来なかったくせに……」
蔑みながら、アルフラは老婆の胸に突き立っている短剣を見た。刃を寝かせ、肋骨の間を抜けて心臓と肺を破壊した凶器。抵抗も出来ず、たったそれだけであっさりと老婆は死んだのか。
信じられないと思うと同時に、それしきの事で済むのならば、もっと早くに自分でやっておけば良かったなどという考えまで首をもたげた。そうすれば、自由になれたのに。あの不機嫌な顔から、疎ましげな視線から。
――そして、その考えの馬鹿馬鹿しさにアルフラは頭を振る。流石にそこまでの事は出来ない。結局のところ、自分がこれまでここに留まっていたのは、惰性が大半だったとはいえ老婆を見捨てられなかったという思いも確かにあったのだから。
そうして立ち上がろうとした時、アルフラは掠れたような声を耳元に聞いていた。
『……そうかい、お前……そんなものが見たかったのかい?』
「……ッ!?」
薄暗い小屋の中に視線を彷徨わせる。アルフラの目は徐々に下がり、老婆の死体へと再び戻る。
何も変わりはなかった。動いてはいなかった。曇った硝子玉のような目も、暗い洞穴のような口も。
『見せてやりゃあ良かったかね。随分と舐められたもんだし。……だが、そうしたらお前……この小屋から食器一つだって、持ち出すのを躊躇うようになっちまったろう?』
誰だ。何処に居るのだ。身を竦ませたままその場に立ち尽くす。その口が、自分の口がおのれの意思を離れて動くのを感じて、アルフラは恐怖に目を見開いていた。
『その服……別にくれてやっても構わないさ。ただねえ、お前が思うより少しばかり、そいつは値が張るんだ。その分の釣りは貰おうじゃないか』
服の裏地に刻まれた魔力文字が淡く発光していた。その光に包まれながら、アルフラの表情は徐々に変わってゆく。目がすっと細められ、引き攣っていた口許に皮肉げな笑みがやどる。そしてその目は、既に窓のほど近くまで寄ってきていた<異形>を捉えた。
その脅威に対して恐れるでもなく、むしろ若干の退屈さすら感じさせる視線で、アルフラの姿をしたものはそれを迎えていた。