第六話
「……行かせてしまって良かったってこと?」
何の話をしているのか良く分からないといった顔をコルネと並べていたウナ。その言葉に、ルークは立ち上がっていた。
「いえ、逆にそういう訳にもいかなくなりましたね。あの子を捕まえてどうこうといった話ではありませんが、その老婆の死と、何をしていたかについては確認する必要が出来た」
「今から後を追うのかい? 出来なくはないが……」
そう言ったレダに、ルークは掌を地面に向けて答える。ルークの背には微かな光が走り、肩甲骨の間ほどに陽炎のような無色の魔法陣が浮かび上がった。
「いえ……周辺状況の確認も含めて、もう一度観ます」
ルークに戦闘能力は無い――と言うと少々語弊があるが、彼は身体能力や反応速度の強化に魔素構造物を割り振っていないため、ほぼ常人と変わりなかった。神兵としての死ににくさがあるため、そこらの盗賊などに遅れを取ることはないが、<異形>相手の戦力としては数えられない。
これは単純に、適性によるものだった。レガリア・キーパーの背には10の銀円が刻まれており、そのうち幾つを開放出来るかがそのままランクとして呼ばれる。
コルネやウナなどはランク5神兵となるわけだが、ルークはたった一つきり。レガリア・キーパーとして、最低限、身体強化の紫と精神制御の緑が起動出来る事は必須であるため、ランク1の適性などというものは強化に不適と見做され、普通は強化処理そのものが行われることはない。
言ってしまえば出来損ない、だが――。
そのたった1つが肩甲骨の間にある銀円、無色を開いた事で、出来損ないは唯一へと転じたのだ。
ルークの手から伸びた光の糸が地下を流れる光脈と繋がる。魔力流を伝って集められた、ここ数十分における周辺地域の情報がルークの中に流れ込んだ。
魔力とは意思によって事象を操るための触媒だ。レガリア周辺からすればだいぶ薄まってはいるものの、広がった魔力の上にあらゆる存在は影絵のように痕跡を残す。それを解析し、更に水面に走る波紋のような意思の動きを重ねて、ごく近い未来の姿をシミュレートする。
予知などという大仰な名前を付けられた、それがルークに与えられた能力だった。
やがて、鮮明さを増す幻視。森の中の小屋。その前に佇む少女。そして――。
「くっ……」
範囲と時間を絞りはしたものの、それでも膨大な情報量に脳が軋んだ。レガリアの補助を受けない出先での予知は、やはり負担が大きい。光の糸を切ったルークは脂汗を流しながら頭痛に耐えるが、その痛み以上に今観たものへの衝撃と困惑が彼の表情を歪めていた。
「まだ……<異形>が周囲に居る……?」
呟かれたその言葉に、コルネ達の目は緊張を帯びて、ルークへと集まっていた。
※
人気のない『我が家』へと戻る。
いまだ日は高く、戸が開け放たれたままである事を除いて、小屋は何も変わりがなかった。しかしこれまで10年のあいだ寝起きをしたその小屋を、アルフラはまるで、今初めて見るものであるかのように眺めたまま立ち尽くしていた。
中に何があるのかはわかっている。だからこそ戸をくぐるのが怖い。しかしずっとこのままで居る訳にもいかないだろうと、意を決して中へと歩を進める。
小屋の中は、何も変わってはいなかった。戸棚や引き出しは荒らされ、衣類や食器が乱雑に床に転がり、酸化した黒血が溜まる中に仰向けに倒れた老婆の死体がそのままとなっていた。
アルフラは溜息を吐く。べったりとかいた汗で顔に張り付いた黒髪を鬱陶しげに指先で払いのけ、鉄錆と潮の香――血臭に僅かに眉をしかめながら、荒れた部屋の中を横切っていった。
心中にあるのは悲しみでも怒りでもない。疲労と諦めだ。この惨状を、いずれ片付けなくてはならないのだろうが、今はとてもそのような気分にはなれなかった。
けれど休息を――睡眠にしても食事にしても、こんな状態の小屋の中で取れると思うほどアルフラは神経が図太くはない。もしくは、それらの深刻さ具合いがやや足りないか。場所を選びたいと思えるほどには、アルフラには余裕が残ってしまっていた。
そう。まずは、ぼろぼろの服と身体から何とかしよう。暫しの後、アルフラはそう思い立った。水でも浴びて着替えれば、少しは気力も湧くかも知れない。
その視線が、衣装戸棚の中に残った一着の衣服にふと止まっていた。
おずおずと手を差し込み、薄紫色に染められた女物の服に触れる。老婆がかつて使っていたものだろうか、アルフラには見覚えがなかった。しかしずっと仕舞い込まれていたものにしては劣化が見られない。
染めにしろ布地にしろ新品同様。だが肩に薄く積もった埃がそれを否定している。強度を増すための簡単な付呪が施されているのか、などという推測はアルフラの知識では不可能だったが、ただその不自然なまでの状態の良さに惹かれて彼女は服を手に取る。
サイズは、加齢によって縮み、腰の曲がった老婆には大きく思えた。汚さないよう慎重に首元に合わせると、あつらえたようにぴったりとアルフラの体格に合った。
そのまま、アルフラは振り返る。床に倒れたままの物言わぬ骸に、声をかける。
「これ……貰っても、いいですよね?」
返事は当然のことながら無い。しかしアルフラは己の行動を馬鹿げているとも思わず、続けた。
「あたしは、10年あなたのお世話をして来た。だから……このくらい、構いませんよね」
老婆亡き今、この小屋にある全てはアルフラのものだ。彼女が所有権を主張して、異議を申し立てる者などきっと誰もいまい。もし老婆が生きていたなら多分それは許さないだろうけれども、それでもアルフラの記憶にある通り、先程の盗賊たちも言っていた通り、古びた道具と粗悪な衣類、僅かな保存食程度の――大して価値のあるものも無いようであれば、平然とそれを受け入れられたろう。
特に彼女が欲しいと思ったものでもなかったから。
だが、この服は。欲しい。アルフラが生まれて初めてそう心から思ったものかもしれなかった。
だからこそ罪悪感もわいた。死者への弁解を――自分への弁解を続け、アルフラは服を抱きしめる。
着替えてみよう。遺体を片付ける時にはまた脱がなくてはいけないだろうけど、少しだけ。
汚れた服を脱ぎ捨てると、あばらの浮いた身体を拭き清めて薄紫の服に袖を通す。上質な布地の肌触りは味わったことのないものだ。軽く、そして柔らかい。ついでとばかりに比較的新しいブーツも探し出して履き、身につけていたもの全てを取り替えると、気持ちが高まった。疲労も消え失せたかのような錯覚を覚える。
鏡。鏡はなかっただろうか。老婆が多分、小型の金属鏡のようなものは所持していたと思ったのだが。血塗れた遺体の転がる小屋の中で、あまりに場違いなふわふわとした感覚を抱えながら、アルフラは荒らされた棚や床に転がったものを見て回る。跳ね上げられ、棒によって押さえられた鎧戸の近くを通り、何の気無く外へと視線を向ける。
アルフラはそこで、凍りついたように動きを止めていた。小屋の脇に作られた小さな畑、切り拓いただけで古い切り株をそのままにしている空き地。それら数十メートルを隔てた森の端に、見覚えのある醜悪なものが蠢いているのを見てしまったのだ。
<異形>。その、何処を見ているのかもわからない目は、しかしはっきりとアルフラを捉えたのだと、背筋に走る寒気と共に彼女は確信していた。