第三話
「……随分と、妙な状況になってるみたいだね」
銀の髪を、前髪だけ左目を隠すように伸ばした女――レダ・サーキュレイは、<異形>と対峙するウナとコルネを見ながらそう呟いていた。二人が背後へと庇っているのは若い女と武装した男二人。駆けつける以前に何が起きていたのか、これだけでは良くわからないが。
「あんた、知ってたのかい?」
「……いえ」
ただ一人馬上に居る男は、首を横に振った。身に纏う白に近い灰色の軍装は、神殿騎士の制式装備だ。耳にかからない程度の栗色の髪、同色の目を持つ彼の顔には、やや幼さが残っていた。
神殿騎士隊、第18小隊ルーク隊隊長、ルーク・アリッド。その顔色は若干青褪め、唇を引き結んでいた。
「……ここに、何らかの、<異形>の足を留めさせるものが存在することは"予知"を成立させる一要素として把握してはいましたが……詳細については」
「そうかい」
レダはさほど興味も無さそうに応えていた。一見したところ、地面に這いつくばっている男女は教会関係者であるようにも、巡礼者であるようにも見えない。という事は神殿騎士として保護義務があるわけでもない。
強襲型が単独で先行しなければ間に合わなかったのならば、ルークが知った上で見捨てたとしても、特にその判断に対して思うところはなかった。
「だが、生きてるんなら面倒だね。あんな所に這っていられちゃ、単純に邪魔っけだ。対応のほう、頼んでもいいかい? 隊長」
「わかりました。……どのみち、始まってしまったなら、僕に出来ることもありませんし」
ルークはそう言って、馬を走らせた。レダはそれを見届け、背負っていた剛弓を手に取る。そして、傍らにいたもう一人の女性、豪奢な金髪を靡かせ豊満な肉体を黒衣に覆い隠した――カティア・ザナンを振り返り、援護を促す。
「カティア、ここからでも撃てるかい?」
「巻き込まずに、というのは無理ね。側面まで回らなければ保証はできない」
「わかった、じゃあ移動するとしよう。……それまであの子たちが持ち堪えてくれりゃいいけど」
※
左右に別れて走るウナとコルネを、二本の触手が追う。腕の先端にあるぶん一体目よりも可動域が増した触手を、コルネすらも完全に回避することは難しく、周囲に展開した力場に沿って流すことで損害を抑えていた。ウナの方はまともに障壁で受けている。こちらも、やはり先程のように掴む事が出来ず、一撃を受ける度に熱したフライパンに油を流すような音を立てる障壁を難しい顔で眺めていた。
「ウナ、異形撃滅砲は?」
「再チャージ中。……あと40秒」
「それまで持ちそう?」
「たぶん、無理」
ウナは足下に纏い付こうとする目玉ガエルにちらりと視線を遣った。どういった攻撃手段を持つのかは分からないが、接近を許してはいけないものという事だけは疑いない。張っていた障壁の一部を纏め、柄の長い光の手斧を形成して群れの中へと打ち下ろす。
目玉ガエル達は粉々になって吹き飛んでいた。その肉片を浴びた男の一人――まだダメージの少なかった方が、ようやく我に返ったかのように悲鳴を上げ、立ち上がって逃げ出そうとする。
「てめぇ、俺を見捨てて逃げるってのか!」
膝を砕かれた男は、自分とは逆方向へ走り出す仲間を見て罵声をあげていた。コルネとウナをすり抜けた目玉ガエルが男たちにも迫り、そのうち数匹が、うずくまったままの男にべたりとへばり付く。
「この恥知らず、根性な――」
言葉の後半は甲高い炸裂音に掻き消された。爆発自体はさほど強くもなく、男の身体は大部分が原型を残していたが、顔の半分を抉られ腹の中を伽藍とさせた死体は白煙をあげながらその場に崩れていた。
逃げ出した男の方も結局は逃れられない。下半身を飛ばされ、はらわたをこぼしながら地面に転がる。
自爆――。コルネの顔にぞっとしたものが浮かび、追いすがる目玉ガエルにその目は向く。
「このっ……緋の荊棘!」
コルネが叫ぶと同時、薄桃色の霧が辺りには立ち込めていた。地中から超高圧で打ち出された血が、コルネに迫りつつあった目玉ガエルの尽くを貫いたのだ。破裂した目玉は一拍遅れて爆発していた。白煙がもうもうと立ち込め、その中から打ち出されてきた触手に、コルネの反応は一瞬遅れる。そして、斬り飛ばされた右腕が宙を舞った。
「ひっ……!?」
目の前に落ちてきたコルネの右腕に、アルフラは思わず悲鳴をあげていた。さきほどの男同様と言うべきか、竦んでいた手足に鮮烈な恐怖が力を与え、必死に地面を蹴るようにして後ずさってゆく。
言うまでもなく、アルフラの元へも数匹の目玉ガエルが寄ろうとしていた。距離は未だあるが、それから逃れるには彼女の芋虫じみた動きは遅すぎる。だが、そんなアルフラの前には、一頭の馬が駆け込んでいた。
「つかまって! 早く!」
馬から飛び降り、ルークは有無を言わさぬ口調で告げる。呆然としているアルフラの手を取って横抱きにかかえ上げた彼は、一度身体を揺すってアルフラの腕を首に絡めさせると猛然と走り出す。
アルフラはルークの肩越しに、大地に転がるコルネの姿を見ていた。肩から切断された腕はどう考えても致命傷だろう。自分を助けに来てくれた少女が、その礼も言えないままに逝ってしまったという事に、しかし悲しみはなかった。アルフラの心は今朝から起きた出来事の数々に、ここに至って完全に麻痺しきってしまっていた。感じられるのはもう、恐怖だけだ。
その恐怖が、ぞわりと蠢き出す。倒れていたコルネが跳ね起き、何事もなかったかのように戦いを再開するのを見てしまったから。
切断された筈の腕は、幻でも見たかのようにコルネの右肩にあった。だが、その袖が失われていることを見るに、幻覚ではない。
「ばけ……もの……」
アルフラの口からは掠れたような声が漏れた。ルークはそれを聞き、ややその視線を俯かせていた。
「痛ってえわね……」
コルネは<異形>を睨みつつ、歯を噛み鳴らす。未だに痺れるような感覚が右肩には残っていた。
神兵は、その肉体を構成する要素のうち、5割から6割ほどを魔素構造物に置き換えられている。そして魔素構造物の8割以上が失われなければ戦闘不能とはならず、損傷が発生した場合には即座に他の部位から要素が間引かれ、かき集められて、戦闘に支障がないレベルまで再構築がなされるのだ。
機能的な弱点を持たず、身体質量の概ね半分を破壊・切除されない限り止まらない。
これが、損害許容量制などと呼ばれるものであり、神兵が恐れられる最大の要因であると言って良かった。現実的にただの人間では、神兵に致命傷を与える事など不可能なのだ。
「だからってね、死なないっつっても痛いは痛いのよ!」
コルネは叫んでいた。腕を斬り飛ばされた際に迸った血が生き物のように地面を流れる。そしてそれは<異形>の足下へと溜まると、槍のように細く立ち上がって硬質化していた。
真紅の槍に<異形>の右腕は縫い留められ、右触手の動きが一瞬だけ鈍る。その時には既にコルネは至近まで踏み込んでおり、左手から伸びる赤黒い剣を振りかぶりつつあった。
跳びながら、コルネは回る。<異形>の背側は幾度も斬り付けられ、長い髪が切り落とされて蛇のように地面をのたうった。<異形>に残る、短くなった髪の間からは溶けた眼球がぼたぼたとこぼれ落ち、その生産能力を殺した事を告げていた。
ざまあみやがれ――と、コルネは着地し、即座に跳んで離脱する。この<異形>に肋骨爪のような攻撃手段が残っているとしても、その手は喰わないとばかりに。
だが、コルネの背に上体を向けた<異形>は、胸から垂れ下がる肉――乳房を、あらわれた時の倍ほども膨らませていた。