第一話
「居たぞ、あんな所に!」
「てめえこのクソアマ、待ちやがれ! よくも俺の指を!」
背後から響く怒声を聞きながら、アルフラは必死に走り続けていた。
足場は悪い。獣道すら存在しない深い森の中だ。柔らかな腐葉土と苔の生えた樹木の根はアルフラの足を滑らせ、何度か危うく転倒しそうになる。だが彼女にとってこの森は馴染みの薄いものではなかった。捨てられてから10年間過ごした、言わば庭のようなものだ。駆け回るにも慣れていた。
誰かに助けを求めることも出来ないが、追ってくる男どもに自分の姿を見失わせることくらいは出来る筈。けれど、その後どこへ向かえばいいのだろう。そう考えて、アルフラの双眸には涙が滲んでいた。
アルフラは6歳の時に森へと捨てられた。
特に珍しい話でもない。農村には大した娯楽もないことだし、子は育てば労働力となる。そして最も重要なことに、生まれた子がきちんと育つかどうかは運次第であるため、子供を作るという事に関して抑制するというような心理はあまり無かった。死ねばそれまで、育てられなくともそれまでだ。
アルフラにとって幸運だったのは、森の中に一人住んでいた魔女に拾われたということ。空腹に目をかすませながら戸を叩いた幼い彼女を、人目を避けて暮らしていた魔術師の老婆は、やや迷ったすえ迎え入れたのであった。
当然、善意ではない。家事・雑事は全てアルフラの役目となり、朝から晩まで働き詰めの日々が続いたが、それでも食事と寝床にありつけるだけ幸いとアルフラは思っていた。
だが、その生活は今日、唐突に終わった。朝の水汲みから戻ったアルフラが小屋の中を覗くと、そこには刺殺された老婆の死体と、小屋の中を物色する三人の男の姿があったのである。
アルフラの姿に気づいた男の一人は下卑た笑いを漏らした。おい、若い女が居るぜ――そう言いながら近寄って来る男の手を、反射的にアルフラは腰に差していたナイフで切り払い、逃げたのだった。
どうしよう。これから、どうすればいいんだろう。
小屋からは何も持ち出すことが出来なかったし、これから戻れるとも思えない。手持ちにあるのは身につけている衣服と、普段持ち歩いている道具類だけ。お金も、食料すらもありはしない。考えるほどにこの先の見通しは暗く、徐々に増す疲労と空腹のためばかりではなく足取りが重くなるのを感じる。
――いや、まだだ。俯きながらもアルフラはそう思い直した。少なくとも、そんなことは追ってくる男たちから逃げ延びた後で考えるべきこと。気を取り直したように張り出した太い木の一本を掴み、急勾配の斜面を滑り降りようとする。しかしその瞬間、背中に走る鈍い衝撃と共に、アルフラの身体は前方へと投げ出されていた。
何が起きたのか、理解が出来ないままに斜面を転がる。こぶし大の石をぶつけられた背中は痛み、数秒のあいだ息が出来なかった。転がったのはほんの数メートルだろうが、咄嗟に顔を庇った腕はどこかにぶつけたのか痺れており、起き上がろうにも身体を支えられなかった。
「クソが、ウサギみてぇに逃げ回りやがって」
近寄ってくる足音。忌々しげな声と共に脇腹を蹴られる。咳き込み、身体を折って悶えるアルフラの前に、赤黒く染まった布で包まれた男の手が突き出された。そして額に青筋を立ててアルフラの襟首を掴み上げる男を、追いついてきた残り二人の男たちは囲むようにして宥めていた。
「どうしてくれんだてめえ……、この指よ。おい、聞いてんのかコラァ!」
「おいおい、程々にしとけよ。あのババア、碌なモン持ってやがらなかった。収穫と言えるもんはそいつくらいしかねえんだぜ?」
「だから手を出すなってのか!? ふざけんじゃねえ、俺の気が済まねえってんだよ! そもそもこんな小汚いガキ、売ったところではした金だろうが。この場で犯ってバラして終わりだ!」
指を失った男の剣幕に、仲間の男は軽く溜息を吐く。
「……仕方がねえな。だがとりあえず、痛めつけるにしたって、犯る気が失せねえ程度で頼むぜ」
「ああ。顔さえまともならいいんだろ?」
言いながら、男はアルフラの手を引っ張って押さえた。逆手に握ったナイフが振り上げられる。
アルフラの目は鈍く光る刃を凝視し、喉からは掠れた悲鳴が絞り出された。
「まずは指だ」
宣言して男はナイフを振り下ろす。しかし、その刃はアルフラの手には届かなかった。
音もなく滑り込んだ赤い髪の少女が、男の腕を半ばで止めていたのだ。
「……こんな所で何やってんのよ」
少女の言葉に、男たちは声を失い立ち尽くしていた。こいつは、いったい何処から現れたのか。
頭の両側で束ねた、長いストロベリー色の髪。年齢はおそらくアルフラと同程度だろうが、上等な衣服に包まれた血色の良い肌は、少女の容貌をその顔立ちを比べるまでもなく数段美しく見せていた。
「な、んだテメェはっ!」
真っ先に動いたのは指を失った男。掴まれていた腕を引き戻して斬りかかろうとするが、一瞬早く振られた少女の脚によって胸を蹴られ、無様に転がってゆく。男の手を離れたナイフを拾い上げる少女に、他の二人もようやく正気にかえったかのように身構える。
「盗賊? 全く……どこにでも出るもんね。迷惑ったらないわ」
「……女一人で、ずいぶんと落ち着いてやがるじゃねえか」
男たちはやや迷ったすえ、剣帯に吊った剣ではなく腰の後ろの細い棍棒を手に取っていた。少女がどこか――貴族かそれに類するような――良い家の娘であることは見ればわかる。売り飛ばすにせよ身代金をせびるにせよ、生かして捕えることが出来ればかなりのカネになることだろう。
だが、少女はそんな男たちの様子を見て、嗤ってみせた。
「落ち着いてる。なら、相応の理由があるもんだって、普通思わない?」
男たちには見えなかっただろうが、その瞬間。少女が背を向けるアルフラの目には、その背にまるで稲妻のような、白い光がジグザグに走ってゆくのが確かに見えていた。
それに合わせて光る円が――魔法陣が、少女の背には次々と灯る。腰の位置に紫、そのやや上に黄、左右腰に橙と緑、左の脇腹に赤。合計5つの光を曳きながら、少女はゆらりと身体をかたむける。
倒れるように、投げ出すように。そしてその動きはそのまま、疾駆となっていた。
「う……ぉっ!?」
少女の左手に立っていた男は、突然目の前に移動した少女に反応することも出来ず、膝を砕かれる。蹴りを放った勢いのまま反転した少女は、跳ねるようにして右手側の男へと向かう。
靡く赤髪。その迫る赤に向けてやけくそのように棍棒を振り下ろした男は、次の瞬間背中から地面に叩きつけられ呆然と空を眺めていた。自分の身に何が起きたのかも分からない。ただ棍棒を振った瞬間自分の腰から下が消失したかのようで、まるで自分から転がりにいったかのような馬鹿馬鹿しさだけがあった。
いったい、何者なのか。そう問うように巡らせた男の目に、少女の背に浮かぶ魔法陣が映る。
途端、男の顔は恐怖に強張っていた。
「……神兵――!?」
「嘘だろ……<異形>狩りの化物が、なんでこんな所にいるんだよ!」
砕かれた膝を押さえながら悲鳴をあげる男。最初に蹴り飛ばされた男は、既に転がるようにして逃げ去ろうとしており、少女はそんな男三人の様子を見て呆れたように溜息を吐く。
「それはこっちの台詞よね。だから、最初に言ったじゃない。こんな所で……」
「ひ、ぎゃあぁあああぁ――――」
再び上がる悲鳴。逃げ出した男のものと思えたそれは、中途で不自然な途切れ方をする。ちらりと、そちらに視線をやった少女は、苦笑のような笑みをみせていた。
「あたしたちの作戦領域で、何をやってるのかって」