否定される覚悟
ごく自然と目が覚めた。
喉が渇いたとか、尿意をもよおしたとか、そういうのじゃない。
なにか、胸騒ぎがする。
しばらく、ベッドに横になりながら耳をすませるけれど、これぞと言って人の話し声は聞こえない。
――なんだろう。
布団の上に乗せていたダークグレーのガウンを肩に羽織り、ベッドから降り、備え付けのナイトシューズを履いて貸し与えられた部屋から出る。
いや、人の動き回る気配はある。
(スマラクト、今何時かわかる?)
杖はベッドに立てかけたままだが、右目を通してコンタクトを取ることは可能だ。
〈二時を少し回ったところ。気を付けろよ。なんか嫌な気がする〉
(この屋敷内で?)
〈いいや、もっと広範囲だ〉
僕はこの屋敷の主であるフランツの部屋がある三階へと向かった。
彼の部屋の扉が少し開いていて、明かりが漏れている。それと少し言い争う声。
夜更かしとかじゃない。やっぱり何かあったんだ。
ゆっくり扉へと近づく。
ノックしようとしたら、それよりも先に、中にいる人物が僕に気づいたようだ。
「ほーら、あんまり騒ぐからお客さんが起きちゃっただろ」
いつもと変わらないフランツの口調。
慌てて振り返ったゲルトと目が合った。
「失礼、してもいいのかな?」
扉を少し押して、部屋の主に問う。
「入っておいでよ。そこは寒いでしょ」
フランツの言葉に、ゲルトが扉を開け、部屋の中に招いてくれる。
フランツは寝間着ではなく、すでに着替えていた。
白いワイシャツに青い宝石のはまった棒ネクタイをしている。
「あの、何があったんですか?」
座るのを進められたけど、軽く断る。
「ヤンの工房を見張ってた賢人会議の人間が数人死んだんだってさ。死因は不明」
「不明って」
「解剖はこれからだけど、生き残った人間の証言だと、突然発狂して自殺したらしいよ」
まるで呪いか、怖いおとぎ話みたいじゃないか。
「……え、フランツのところにそれを解決しろって命令が来たの?」
「まだだよ」
「じゃあなんで――」
そこまで言って、彼が持つ密偵の存在を思いだした。
その網はいつも張られていて、国内で起きたありとあらゆる出来事がこの屋敷に届く、そういう仕組みなんだろう。
「フランツ様、やはり賢人会議からの連絡を待つべきです」
「待ってたらたぶん、朝が来るころにはもっと死者は増えると思うよ」
どんな確証があってそんなことを言っているのかわからない。だけど、彼の表情はいつになく真剣で、何かをつかんでいそうな、そんな気がする。
「大人数で足並みをそろえるには時間がかかる。だったらボク一人で解決するのがスマートだって言ってるだろ」
「それで、あなたが死んだらどうするんですかと言ってるんです!」
いつも温厚なゲルトが本気で怒っている。
それくらい、フランツのことが大事なんだ。
自分は兄弟子だと語っていたけれど、本当は実の兄弟みたいに深い仲なんじゃないかな?
「あ、あの」
勇気を振り絞って口に出す。
「たぶん、フランツの言っていることは本当だと思います。今すぐ、どうにかしないと、もっと悪いことが起きる、そんな気が、するんです」
「ザフィーア様まで……」
「ふーん、そのエメラルドの瞳が、キミに警告しているのかな」
一瞬、ドキリとする。
スマラクトの存在は隠しているけれど、もしかしてばれてたりするのかな?
フランツは立ち上がり、上着を羽織る。
「今すぐ馬車を用意して。御者はいつもの人間じゃなくて、錬金術師をお願い」
「それなら私が」
「ゲルト、キミの役目はいつだってここでボクという主の帰りを待つことだよ。忘れたのかい?」
「……いいえ」
彼は俯き、少し寂しそうに首を振る。
錬金術師であっても、力がなければ、共に行くことはできない。そのことを、ゲルトは重々承知しているんだ。
「あとザフィーア、キミも屋敷に残ってね」
「え、なんで?」
言われて気づいたけど、いつのまに現場に行く気になってたんだろう、僕。
「キミは一応お客さんだからね。何かあったら大変だからだよ」
フランツは僕の前に立ってそう言ってくるけれど、納得いかない。
「い、今まで散々振り回しておいて、今更付いてくるなっていうの?」
「今回は本当に危険なんだってば。ボクも、キミを守っていられる余裕があるかどうかわからない」
「……やっぱりキミ、何が起きているのか、ほとんどわかっているんじゃないの?」
「御想像にお任せする」
そう言って、彼はおどけて、肩をすくめてみせる。
「キミは、命を落とす覚悟って、したことがある?」
「フランツ様!」
「ゲルトは黙ってて、ボクは今、ザフィーア・ホーエンハイムと話をしている。――答えろ、誓約の新月。キミは、何かのために死ぬ覚悟はあるかい?」
突然の、思いもよらぬ質問。
命を落とす覚悟?
何かのために死ぬ?
膝が途端に笑い始める。
「それだけの覚悟がないなら今回は連れていけない」
「だったら君は、死ぬ覚悟があるっていうの?」
「当然だよ」
フランツはその言葉の通り、当然のように言ってのける。
「ボクはこれまでにたくさんの人を殺してきた。今は殺す側でも、いつかは殺される側に回るそれを理解
している。そして、殺すことも殺されることも決して非日常ではないことも知ってる」
「じゃあ、君は、今何のために生きているの?」
「強いて言うなら、ボクを支えてくれる人のためかな。そういう人がいるのに、勝手に死んでさようならって、ずるいじゃないか」
そう言ってフランツは笑うけど、僕には全然わらえなかった。
「自分のために、生きてるんじゃないの?」
「うん。ボクは自分のために生きない」
「なんで? 君の命は君のものだろ?」
「そうだよ。だけど、それほど自分の命が、存在が、重要だなんて思えないんだ。
ザフィーア、人はね、大事な人でさえ殺してしまうことがあるんだ。ボクがそうなんだ。ボクはボクの大事な人を殺してしまった。そんなボクを、許すことはできないんだ。だからずっとこの屋敷にいる。手枷をはめて、ただ賢人会議に従うだけの人形になった」
彼は両の手を持ち上げて、手首の銀の枷を見せる。
蝋燭の火を反射して、鈍く光っている。
「僕は……」
フランツみたいな強さなんて絶対持てない。
たぶん、人を殺すのだって、怖くて無理だ。頭に刷り込まれた倫理が、邪魔をする。
人を殺してはいけないと。
人を殺した人を、その罪を罰するために殺すなんて、本末転倒じゃないか。
だけど、逆のものなら、持ってるよ。
「僕は、守りたい」
何があっても絶対守るのかと聞かれればたぶん、すぐに頷けない。場合によっては逃げてしまう。それくらい弱い意志だけど、僕は守りたい。大切だと思うものを。大切だと思う人たちが大切にしているものも、すべて。
「人並みだけど、自分が大切だと思うものを、最低限は守りたい。それくらいの力はたぶん、あると思う」
「じゃあ、守るためになら死ねる?」
「僕が死んで、その人が助かるなら」
刹那、頬が焼けた。
いや、打たれたんだ。
僕の頬を叩いたフランツは笑顔のままだけど。
「そんなありきたりな覚悟は捨てなよ」




